2018/01/31

外務省支援のプログラムで東ティモールに行った学部3年生の手記


以下は、外務省支援のプログラムで東ティモールに行った学部3年生のAさんの手記です。約10日間に過ぎませんが、確実に彼女の世界は広がり色彩も豊かになったと思います。若い皆さん、(いや管理人のような中高年の人間も)どんどん世界を広げて柔軟な心をもてるようにしましょう!






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東ティモールで教わった大切なこと


私は、昨年の11月に対日理解促進プログラムという外務省が支援するプログラムに参加し、約10日間東ティモールへ行ってきました。今私の記事を読んでくださっている方の中には、東ティモールと聞いて「どこ? アフリカ? 紛争で危なくないの?」といった疑問が浮かんでいる方も多いと思います。だからこそ、こういった場で私が実際に現地で経験したことや感じたことを共有し、東ティモールについて少しでも多くの方に知っていただけることを大変嬉しく思います。

まず本題に移る前に、東ティモールの情報と東ティモールに行くまでの経緯を簡単に書きたいと思います。東ティモールは、地図でいうとインドネシアとオーストラリアの間に位置する国で、面積は岩手県とほぼ同じくらいの大変小さな国です。また、2012年に独立したばかりのアジアで一番若い国でもあります。「独立したばかりの国へ行って危なくないの?!」と何人もの友人が心配してくれましたが、私たちが滞在した首都ディリは至って平和で、10日間の間に身に危険を感じたことは一度もありません。南国特有のゆったりとした雰囲気で、きちんと気を付けてさえいれば、現在のヨーロッパよりも治安がいいのでは、と感じてしまうほどです。

東ティモール渡航へ至った経緯は、対日理解促進プログラムが提供する派遣国の中で、旅行では行けない国、かつ未知な国を選ぼうといった不純な動機がきっかけです(笑)。なので、私自身も渡航が決定する前まで正直東ティモールがどこに位置しているかも無知でしたし、人生で東ティモールへ行くことになるなんて思ってもいませんでした。しかし、知らなかった国、未知の世界だったからこそ10日間という短い滞在期間の間にここには書ききれないほど多くのことを感じ、日本ではできない体験、出会いに恵まれることができました。

その中でも、私の中で特に印象に残っているエピソードを共有させていただこうと思います。

プログラム中、東ティモール唯一の国立大学にて現地の学生とディスカッションをする機会がありました。その中で学生に聞かれた質問の多くは、日本の学校の環境についてでした。「授業中に発表する機会はあるのか」、「教室にプロジェクターはあるのか」といった私たち日本人からすると当たり前すぎて質問しようとも思わない事柄ですが、そういった質問を受けるたびに、私は「ここには日本の当たり前が存在しない、もし存在するとすれば極めて贅沢なことなのだ」と徐々に感じるようになりました。

何かと日本の教育は国内で批判されがちで、私自身もついつい悪いところばかりに目が向き、与えられた環境に感謝するということを完全に忘れていました。私たちは机やいすの整備はもちろん、寒すぎる・暑すぎるくらい冷暖房が効いた環境が提供されているのにも関わらず、授業中は変な恥ずかしさや周りの雰囲気に流され、どうも自分の意見を言えない、時には居心地が良すぎて居眠りをするなんて、あまりにも恵まれすぎなうえ、与えられた環境を無駄にしていると感じました。

日本の義務教育の教科書無料配布についてディスカッションのグループのメンバーに話した後のあの学生の驚きの表情と反応は忘れられません。東ティモールでは、まだまだ学べる人が限られており、国立大学でさえ、気温30度を超える中冷房無しで学生が熱心に授業を受けています。また、キャンパス見学中に目を輝かせながら話しかけてくれた日本語を勉強中の学生、私たちのプレゼンテーションをメモを取りながら興味深い様子で聴いてくれた姿、助産師になる夢を語ってくれて仲良くなった学生(写真)のことを思い出すと、私も彼らのエネルギッシュな姿勢に負けてられないと奮起させられるとともに、与えられた環境を無駄にしてはいられないという風に思うようになりました。

また、東ティモールの人たちは人とのつながり、特に友達や家族、近所との繋がりをとても大切にしている印象を受けました。実際に、ホームビジットの際に受け入れてくれた一家も週に一度親戚で集まり、ご飯を食べたり、何か起きたときにはすぐに助け合うみたいです。

こういった温かみのある人とのつながりも、多くの日本人が忘れかけている幸せではないでしょうか。

このように、熱い思いを持つ若者や人の温かさに触れて、何か自分の中で忘れていた大切なものが甦ったような気がしました。

たしかに東ティモールの空港から大学に至るまで、全てのものがまだ開発途中という感じはありますが、私は東ティモールで出会った人に対してかわいそうだと思ったことは一度もありません。なぜなら、子供たちや同世代の学生の目がいつも輝いていて、皆が与えられた環境の中で、より良くしていこうと、協力して国を作っているのが身に染みて感じられたからです。日本を含む外国政府が支援する建設途中の橋やキャンパス、ごく一部の人しか買うことができないであろう高価な大量の輸入食品を見て、一つの国として成立し、自国民で国を営んでいくことの難しさ・壮大さも肌で感じました。

5年後、10年後にまた東ティモールを訪れたいと考えています。今後どんな発展を遂げるのかが非常に楽しみです。ですが、あの手つかずの美しいビーチと人々の温かさ、キラキラした熱い若者の姿はどんなに経済発展を遂げても変わらないでほしいと願うばかりです。私自身も何か切羽詰まったり、独りよがりになりそうな時こそこの経験を思い出し、人とのつながりと思いやりを忘れず、与えられた環境を最大限に活かそうとする、向上心のある人であり続けたいと思います。



追記:
2/2(金) 18:30~19:30に、広島大学の学生プラザにて東ティモール及びタイの報告会を行います。
名物東ティモールコーヒーも試飲いただけるので、興味のある方はぜひいらしてください!







2018/01/30

英語授業での訳・日本語使用に関する学生さんの考え



学部3年生向けのある授業で、「訳」に関する概念分析などを読んでもらった上で、訳について考える授業をこれから始めます。
以下は、学生さんによる予習書き込みの一部です。




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■ 極端に訳読式の英語教育が批判されているが,訳は五つに分けることができて,まず大きく言語が使われている状況を考えずに英単語の訳や文法の訳に従って一つ一つ訳していく「置き換え式」のものと,その言語が使われている状況までも考慮に入れ,原著者が日本語で書いた場合そう書くであろう日本語に訳すものである「翻訳」と,学習者と教師が相互作用的・協同的に二人で作り上げる言語使用である「解釈」の3つに分けられ,それがさらに口頭言語と,書記言語に分けられる。「解釈」は書記言語を口頭言語を用いて理解するものである。

実際,私たちが批判すべきなのは,その場の状況などを考えない「置き換え訳」なのだがその他の翻訳や解釈も含めて批判してしまっている。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場であることを大いに考慮に入れており,英語を実際に使用する場面では必要となる能力を育てることになるはずなのに,その良さを理解せず,英語だけを使うことをよしと考えてしまっている。

また,英語が使えるようになることだけが英語学習の目的になってしまっているということが問題になっている。確かに,授業では最近の英語教育の批判として,訳読式の授業を受けてきたから,いつまでたっても日本人はコミュニケーションを取れるようになれない。だから,訳読式の学習をやめて,実際に英語を使用してタスクをこなしたりする,実際のコミュニケーションの場を想定した英語教育をすることが理想とされている。

しかし,これを読んで,安易に訳読式の英語学習の方法を排除してしまうのは浅はかだと思った。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場では役に立つものであるし,そもそも全ての英文書や論文が日本語で訳されているわけではないので,訳読の学習を排除してしまえば,できなくなることがたくさんあって,訳ができる,それも真の意味を理解している訳ができるということは,日本の英語教育の誇るべき成果だと思う。

ただ,今まではそのバランスが悪く,ほとんど訳読だけをやってきたというのが日本の英語教育でいつまでたっても英語が話せるようにならない原因で,これからは面と向かったコミュニケーションの経験量を増やしていくべきだと考える。また,外国語教育における母語や母国語の使用の価値についても述べられているが,どのような場面で使い価値を持たせることができるのか,具体的に想定することは難しいと感じた。


■ 高校生、そして受験生時代、私は「英文和訳」というものを非常に数多く行ってきた。教科書本文の和訳、入試問題過去問の下線部和訳問題などなど数え切れないほどの「訳」を行い、英語を読んできた。私が今思っているのは、そういう単に機械的な訳を行ってきたことにより、英語というものを「言語」という側面から、心から楽しめてなかったのではないかということである。本授業で習った「感性」や「知性」といった働きがほとんど生み出されなかったのかな、と振り返って思った。

「翻訳」は、「作者」と「読者」とのコミュニケーションであると言われる。学校の教科書、教材の本文で使われている英語(ことば)に対する作者が込めた意味、そしてなぜこの場所で、この部分でこの表現や単語が使われているのかを深く考えること、こういう活動が今の英語教育ではほとんど行われず、代わりに訳ばかりされている気がする。もっといえば、この「翻訳」というコミュニケーションをコミュニケーションだと捉えられてすらいないような気もした。


■ 最近の英語教育の風潮として、英語の授業で訳読や日本語を使うことが毛嫌いされているのは教育実習や学習指導要領を通して痛いほど伝わってくるが、訳読と日本語の使用を全面禁止するのはあまりにも行き過ぎた考えだと感じる。

たしかに、極めて表面的な教科書の英文を不自然な日本語で訳したり、書かせたりする従来行われてきたような教育は改革されて当然だと思う。私は海外ドラマや洋画が好きで、よく英語字幕(又はスクリプト)や日本語字幕を使って鑑賞しているが、特に日常会話が多い海外ドラマの場合、かなりの割合で中学校の文法が用いられている。それにも関わらず、いまいちニュアンスがすぐにくみとれなかったり、日本語字幕を見て、そんな風に訳すのか! と、はっとさせられることがある。もちろん完全に、というわけではないが、これは私自身が中高で不自然な教科書英語にばかり触れ、不自然な日本語訳ばかりしてきたことが多く起因しているのではないかと考えてしまう。

訳読や日本語の使用そのものが悪いのではなく、その使用方法が悪いのではないかと考える。特に高校生や大学生といったある程度の基礎文法を習得している場合(場合によっては中学生も)、もっとオーセンティックで文脈のある本や映画に触れて、コンテキストに合う自然な日本語を探したり、英語の感性を磨くことは、例え一部日本語や訳読の方法が使われていたとしても決して悪いことではないと思う。



2018/01/29

この度、著書を出版された山岡大基先生(教英07)から寄稿していただきました


この度、著書を出版された山岡大基先生(教英07)にこの広大教英ブログに文章を寄稿していただきました。お忙しい中、ご快諾いただいた山岡先生にはこの場を借りて改めてお礼申し上げます。

それでは山岡先生から皆さんへのメッセージをどうぞ!




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筆者について



山岡大基(やまおか・たいき)です。教英の卒業生で,広大流に言うと「07(ゼロナナ)」,平成7年度(1995年度)入学生です。大学に入学したときは,英語の先生になろうなどとはまったく考えていませんでした。せいぜい「英語の勉強がしたい」という程度の動機とセンター試験の点数で広大教英への進学を決めたのでした。しかし,英語教育について学ぶにつれ,「人にものを教えるって,こんなに専門的な知識や技能が要求されることなんだ!」と感動をおぼえ,気がつけば大学院(博士課程前期)にまで進んで英語教育について学び,英語の先生になってしまっていました。

大学院修了後は,しばらく県外の公立高校に勤めていたのですが,縁があって広島大学の附属学校の1つである,「広島大学附属福山中・高等学校」(福山市)という学校に転任し,その後,さらに学内で「広島大学附属中・高等学校」(広島市)へと異動して,今に至っています。 

附属学校では,普通に中学生・高校生に英語を教えるだけでなく,教育実習などを通じて大学生に「英語の教え方」を教えることも仕事のうちで,それが,自分の教え方を振り返る「鏡」にもなっています。



本書について


 英語ライティングを教えることに特に強い関心を持ち始めたのは,国語教育での作文指導について知るようになってからです。まだ教職経験の浅かったころ,ライティングをどう教えてよいか分からず,英語教員向けの本を読んだり,高校生向けの通信講座を自分で受講してみたりと,いろいろ勉強していたのですが,その中で,国語教育の本も読んでいました。国語科では,さすがにいろいろな教え方が研究されていて,英語教育だけ勉強していたのでは,なかなか触れることのできない知恵があふれていました。特に小学校での教え方から,英語では高校生を教えるのにちょうど応用できるくらいの教材や活動が多く見つかったのは新鮮な驚きでした。

そうやって,「これは面白い!」と思った教え方は,すぐに自分の授業に取り入れていたのですが,そのうち,ある程度「型」を決めておいた方が,生徒は書く内容を考えることに集中できるので,書きやすそうだ,ということが見えてきました。「何でもいいから自由に書いて」と言われるよりも,「この型にはまるように書いて」と言われ,枠をはめられた方が,逆に思考が活性化して創造的になれるのだな,と思いました。実際,「型」を決めて練習するうちに,みるみる生徒は上達し,ある年の高校生の英作文コンテストで賞を「荒稼ぎ」するようなこともありました。

その一方で,研究開発の一環で「クリティカル・シンキング」の授業を担当するようになったころから,生徒の書く文章の論理性が気になり始めました。おおむね英語らしい構成の文章は書けるようになるのですが,そこから先の,読み手を論理的に説得する文章が,なかなか難しい,ということが見えてきました。そして,やはり,まともな英語で,すっきり読みやすく書くことができるか。そういったところをぼちぼちではありますが,まず自分自身が勉強して,それを授業にも活かすようにしてきました。

この本は,そういったわたしの学習と指導の経験を反映させて書いたものです。ですから,ジャンルとしては「語学書」で,自分の英語ライティング力を高めるために使っていただくのが本来の目的ですが,英語教育の観点から「英語ライティングの教え方」を学ぶために読んでいただくこともできると思います。もしお手に取っていただけることがあれば,率直なご意見をいただければ幸いです。



広島大学・教英について


 わたしの場合,そもそも英語の先生になろうなどと思っていなかったのに,どういうわけか広大教英に入ってしまったことで,大きく人生の方向が変わりました。それだけ強烈な学びが広大教英にはあったということですね。

学部時代は,まず,英語授業の方法論を叩き込まれました。授業中の教員の1つ1つの言葉や行動には意図がある,ということを徹底して言われました。「なぜその発問をするの?」「なぜその用例を使うの?」「なぜそれを黒板に書くの?」等々。また,人間が言語を処理する認知プロセスについても学び,言語習得を科学的に捉える考え方も鍛えられました。

大学院では,研究を進める中で,思考を徹底して言語化し,他者に誤解なく伝わるように表現するよう厳しく求められました。また,英語教育という事象を見るのに,実に多様な視点から議論をすることで,いかに自分の見方が一面的であったかを思い知らされる日々でした。

そんな学生時代も今となっては遠い昔ですが,そうやって広大教英で鍛えていただいた力は,この本を書く根っこのところに息づいていると思います。


















教英大学院生の一人が成績優秀学生奨学制度で授業料免除となりました。


以下は、成績優秀学生奨学制度で授業料を免除してもらったAさんの手記です。忙しい中に寄稿していただいたAさんに感謝します。思い起こせば管理人も、大学院受験の際に、絶対に奨学金を得る必要があったので必死で勉強しました(笑)。

ともあれ、大学院への受験勉強のやり方についても書いている下の文章をどうぞお読みください。







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広島大学教英の大学院へ入学を志望されているみなさま、はじめまして。教英大学院の博士課程前期の1年生Aです。大学院の授業料が免除になる―「そんなオイシイ話があるわけない…」というあなた、実はそんな制度が広島大学にはあります。


「エクセレント・スチューデント・スカラシップ」制度(成績優秀学生奨学制度)では、大学院入試時の成績優秀者が表彰され、特典として入学年度の後期授業料が免除されます(これは教育学研究科の博士課程前期1年の場合です。他の課程・研究科については、この文章の後に掲載のURLを参照してください)。また、成績評価は面接試験を除く、筆記試験のみが対象となります。

 基準の詳細は公開されていませんが、研究科在学生30人に対して1人を目安にしており、ちなみに、授業料免除の他に、記念品の贈呈、成績証明書への「成績優秀学生である旨」の記載、選考された学生が出席する表彰式なども制度の内容に含まれます。なお、当制度への事前・事後申し込み等は必要ありません。受験後に大学側から選考者へ連絡が届く仕組みになっています。

 私自身、2017年度の「エクセレント・スチューデント・スカラシップ」制度で選考された1人です。大学院入試の1年近く前にこの制度の噂を耳にし、「せっかく授業料が免除になるなら」と、入試の勉強にいっそう力を入れることにしました。

 教英の入試では、英語教育の時事問題、カリキュラム論、英語教育史、統計、言語学、文学などの分野から出題されますが、私も含め受験生はこれらの分野をまんべんなく勉強しました。受験勉強なので大変なこともありましたが、個人的には英語教育史の勉強で参考図書とされていた伊村元道著『日本の英語教育200年』(大修館書店)が面白く、繰り返し読んでいたのをおぼえています。大学院でみなさんが研究したいと考えているテーマと関連する分野もあると思うので、入学後の研究の準備としても大学院入試は重要だと思います。

 なお私の場合、受験勉強は基本的に1人で行い、たまに他の受験生と知識を確認したり、過去問を一緒に解いたりしていました。長い目で見てこの方法が効率よく、また身に付きやすいと考えたからです。こうした受験勉強の末、幸運なことに奨学生に選考されることとなりました。

 入試前の出発点はどの受験生もさほど変わらないので、誰でも選考をねらうことができます。また、私を含め奨学金制度に加入している学生が多いように、大学院生のお財布事情はシビアです。安心して研究するためには、利用可能な制度は可能な限り利用し、研究のための資金を節約することが大切です。現在受験勉強に励まれている方、また教英大学院への入試を考えている方は、ぜひ「エクセレント・スチューデント・スカラシップ」制度を念頭に置き、勉学に励まれることをお勧めいたします。

 なお注意点として、当制度への選考についての連絡は入学年度の12月に行われており、入試終了後からある程度時間が経ってからの連絡となります。したがって、すぐに連絡が来なくてもあせらず、12月に届く連絡を忘れずにチェックすることをお勧めします。それでは、受験生の皆様のご健闘をお祈りするとともに、教英大学院で共に研究生活を送らせていただくことを楽しみにしております。

広島大学エクセレント・スチューデント・スカラシップ(成績優秀学生奨学制度)
https://momiji.hiroshima-u.ac.jp/momiji-top/life/keizaishien/seisekiyushu.html



2018/01/25

なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか



学部三年生用の授業で、アレントの哲学に触れながら英語教育について考え直してみました。以下はある学生さんの予習段階での書き込みです。







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アレントの見解を読んでいて、今の学校教育の現場には彼女が言う語りや活動が生成するpowerが欠けているように思えた。全てを点数化したがる制度からの圧力に負け、本来多様な人々が交流し合い、活動が生まれるはずの教室が、高得点をとるための練習、つまり労働をする場所になりつつあると捉えられるからである。

 以前教育を生産化し、経済利益のために利用する塾の話が出てきたが、塾はまさに活動を生まずに人々が労働している空間のように感じる。しかし、塾というのは志望校に合格するために点数を上げたい人が集まっている空間であって、そのニーズを達成するために明確な数値(偏差値など)に基づいて効率的で合理的な手段を提供していることから、虚しさは感じるが、ある意味大変理にかなっていると思う。しかし、学校現場でそれと同じことをするのは、語りや活動が失われるのはもちろん、学校(特に公立中学校)が持つ一番の魅力、多様な人種が集まる空間が産み出すpowerを封印することとと同じなのではないか。

 文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を明確にする交換可能な「生産物」によって定義されているが、学校側はこの基準に基づき、点数を上げるための授業を考えるだろうから、教室に活動や語りが生まれることは考えづらいし、受験勉強のための英語教育と根本はなんら変わらないような気がして、これに関しても疑問だ。

 こういった話題に出会ったときにいつも感じるのが、なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか。確かに数値化することで規準は設けやすくなるし、評価がしやすくなるのは分かる。しかし、英語コミュニケーション能力といった全てを数値化できない側面を持つものに対して無理矢理数値化する行為にはいまだに納得しがたい。

 かなり理想論なのかもしれないが、英語コミュニケーション能力を向上させ、教室という場に活動を取り戻したいのであれば、本当に生徒が言いたいことを手助けするようなスピーチ指導、生徒が表現したいことを学び得るような指導や手助けの方が数値化された目標よりもずっと大切なように感じる。。。




2018/01/23

教英卒業生(平成15年度入学)の江澤隆輔先生が『中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク』(明治図書出版)を刊行します!


教英卒業生(平成15年度入学)で、現在は福井県の小学校に勤務する江澤隆輔先生がこのたび明治図書出版様から『中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク』を刊行します。また、さらなる書籍も準備中とか・・・

現役教員として働きながら書籍を刊行することは並大抵のことではありません。そんな大変な活躍をしている卒業生がいることを、教英所属教員としてはとても誇りに思います。(というより見習わなくては・・・汗)

以下はこちらでお願いして、江澤先生に寄稿してもらった文章です。ぜひお読みください!





自己紹介と近況報告

初めまして。教英15(柳瀬先生のゼミでした)の江澤隆輔と申します。自分が学部生の時にはこういったブログがなかったので,その存在を知って驚いています。このたび,明治図書出版様から「中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク」を126日に発刊させていただきます。この場をお借りして,そのご連絡をさせていただこうと思います。

私は,教英を卒業後,地元の福井県で採用していただき,現在3校目の学校に勤務しております(採用11年目)。初任校は福井市の中学校,2校目はその隣の市の中学校,そして現在は地元の市の小学校勤務で,来年度からの小学校教科化(福井県は先行実施)に向けて,その準備などをしております。もちろん,担任を持たせていただき,6年生と毎日あわただしくも充実した日々を過ごしています。


書籍出版の経緯

さて,2校目の中学校で英語教師として勤務していたときに,以下「はじめに」のようなことを感じて,英作文に特化した問題集である「英作文問題集」を英語科の取り組みとして独自に作成しました。初年度は3年生に配付,次年度以降は1・2年生に問題集を配付,毎週末の家庭学習として指導を続け,実践を開始した3年後には外部検定試験GTECライティング部門で県内トップクラスの成績を取ることができました。その取り組みをベネッセから取材していただいたことで,明治図書出版様から声をかけていただきました。
また,本書とは別に学事出版様からもお声かけをいただき,2月末には「中学英語ラクイチ授業プラン」を発刊予定です。その書籍や3冊目,4冊目の執筆中の本もありますが,それについてはまた別の形でご報告させていただこうと思います。







はじめに(本書より一部抜粋)


■ライティングの量が圧倒的に足りない!
 中学校で英語を指導していて,私が常々感じていたことがあります。それは,「生徒たちがまとまった英語の文章を書く機会が少なすぎる」ということです。それまでの私は,教科書の読み取りや文法指導に時間を取りすぎていて,生徒の自由な発想で英語の文章を書かせる時間が取れていませんでした。中間テストや期末テスト,高校入試には必ず英作文に関する問題が出題される(しかも,高配点!)にも関わらず,テストの前に1時間,場当たり的に英作文を指導するのがそれまでの私の授業運営でした(今,思い出すだけでも大変恥ずかしい…)。野球に例えるなら,選手は打席に立ってヒットやホームランを打つことが仕事なのに,本番さながらに打席に立たせて練習(実際に英作文)させず,素振り(教科書の内容理解や文法指導)ばっかり練習させていたのです。

その結果,高校入試の問題で英作文が出題されても,3文程度しか書けない生徒が数多くいました。彼らは,英語が苦手・嫌いだから「書かなかった」わけではなく,英語が好き・嫌いに関係なく,3年間,「数をこなしてこなかった」だけだったのです。

■英作文問題集の誕生
 そんな状況の中で生まれたのが,本書の元になっている「英作文問題集」です。普段はなかなかできない英作文指導を体系化し,「書けば書くほど上手になる」ということを何度も生徒に指導しながら,家庭学習に英作文学習を取り入れました。当時の英語科の先生方で相談し,3年間を見越した指導をするために,独自で英作文に特化した問題集を作ったのです。

問題集内には「どの日にどの英作文トピックに取り組むか」に加えて,「県立入試や私立入試の過去問題一覧」「語順一覧表」「論理的な英作文の書き方」「先輩の英作文作品」などを収録し,3年生専用の英作文問題集は100ページを超えました。その英作文問題集を使用し始めた生徒たちは,1つのトピックに対して,最初は3文程度しか書けなかったものの,徐々に書ける文が増えていき,1年の後半には,10文以上を英作文することができるようになりました。1週間で1トピック10文以上を目標として,何度も添削を受けながら,一部の生徒は次第に高い英語力をつけていくことができたのです。
*本書では1つのトピックに12文を目標に提案させてもらっております。

■悪戦苦闘する生徒と教師
 独自の英作文問題集で生徒が英語力をつけていったといっても,それは学力上位グループ。与えられたトピックについてどんどん英作文を書き,力をつけていく学力上位グループを尻目に,英語が苦手な生徒はなかなかライティングの力がつきませんでした。

特に,日本語をそのままの語順で英語に直してしまう(例「私はとてもテニスが好きです」→“I very tennis like.”)生徒たちを正しく英作文できるようにさせる指導は骨が折れました。生徒が書いてきた英文を添削し書き直しをさせても,また間違えた語順で英文を書いてくる生徒。品詞の知識がなく,1文中にいくつも動詞を書き入れてしまう生徒。そもそも家庭学習の習慣がなく,落ち着いて家で英作文に向き合わない生徒。様々なタイプの生徒がいましたが,あるときはALTの先生と一緒に添削したり,あるときはわざと間違えている英文を提示しながら生徒と一緒に間違いを探したりして,どんどん打席に立たせることを意識しつつ英語科全員で指導していきました。

結果として,何度も多くの英作文を書きながらゆっくりと力をつけることができました。また,3年間英作文の指導を受けた生徒たちは,前述の通り卒業前の秋の外部検定試験のライティング部門で,群を抜いた結果を出してくれました(「ベネッセ教育総合研究所 VIEW21 2017 英語4技能育成特集号」で取り上げて頂きました)。

■著者の願い
 中学生に英作文を指導していく上で感じたのが,努力を重ねて一旦力をつけてしまえば,なかなかライティング力は落ちないということです。そこで,最初のうちは3語程度の簡単な英作文でいいので,とにかくたくさんの英文を書き,徐々に力をつけていくことをイメージしながら本書を執筆しました。数を書かせることを意識して,最終的には12文の英文を書き切ることを本書は目標としています。また,10年間,毎年すべての学年を担当して指導(私の勤務する県は基本的に「縦持ち」で,すべての学年をそれぞれ1~2クラス程度担当)してきたことで,トピック(お題)を与えただけでは書けない生徒が多数いると身を持って実感しております。

 そこで,本書では該当トピックに関するドリル問題を多数作成しました。それらの問題を利用しながら,ぜひ生徒のライティング力を上げてほしいと願っています。もちろん,ここまでしても生徒によっては力がつかないかもしれません。特に,上記のような英語の語順がばらばらな生徒の指導は本当に骨が折れ,私も何度も何度も書かせてノートを突き返し,励ましながら添削してきました。

毎年100名以上の英作文を担当してきたからこそ,英作文を指導する先生方の苦労は分かります。だからこそ,生徒に寄り添い,生徒の理解と上達を信じて時間と手間をかけて指導する必要があり,本書がその手立てになることができれば,それほど幸せなことはありません。



教員という職業は、本当に毎日慌ただしく、自分をブラッシュアップするための時間を取ることすら難しいのが現状です。これはどの職業に就いても言えることだと思います。さらに、家庭を持つと、自分のために使える時間はほとんどなくなると言えます(ちなみに、妻も教英です。16でした)。現在の皆さんのように、自分の課題を発見できたり、学びたいときにいくらでも学べたりするという環境は本当に恵まれているのです。さらに、皆様の周りには親身になって教えてくださる先生方や、刺激し合える仲間がいます。ぜひ、その環境が恵まれたものであるということを忘れずに、毎日自分を高めてください。長文、失礼しました。




教英留学プログラムに関する手続き等の説明会


先週、業者の方に来ていただき、教英留学プログラムに関する手続き等の説明会を行いました。今回は12名の学生(新2年生)がエディンバラ大学へ留学します。今、教英ではインフルエンザが大流行中で、少し寂しい説明会になってしまいました。




早速エディンバラ大学からも事前課題が届き、これから留学の準備をしていくことになります。

この留学プログラムに参加した学生は、英語力はもちろん人間的にも毎年大きく成長して日本に戻ってきてくれます。今回参加する学生も、色々なことに積極的に挑戦して、様々な経験をしてきてほしいです。

西原貴之


2018/01/16

野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す


以下はある授業で、野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す討議をした際の学生さんの感想の一部です。

今の英語教育がひょっとしたら若い世代の言語的感性を潰していないか、いやこれは英語に限らず学校教育全般にいえることではないのかという疑問を大切にしたいと思います。




■ 今回の授業は自分の中でも腑に落ちたというか、もやもやが晴れた点が多くありました。その中で感性の失われつつある現代の子供たちについて振り返りたいと思います。

 最近の子供たち、とりわけ中高生は感性が失われつつあるということには本当にその通りだなと思います。さらに言えば無関心な子どもが多いと思います。これは自分自身も例外ではありませんでした。「授業=勉強を強いられる時間」という方程式の成り立っていた中高生の私は友達と話をすること以外に学校に行く楽しさを見出してなかったように思います。授業開始のチャイムが鳴ると同時に決められた狭い席に座り、皆一様に前を向いて教師の話を聞く。どうしても強いられているという意識がありました。

 その中で私の興味を引くものは動かない教科書の内容や黒板に書かれた数式などではなく窓の外の動く景色でした。そういった意味もあって私は「逃げ場」のある窓際を好んで希望していました。私の中での「授業」と「学校内でのそれ以外の時間」は分断されていたのかなと思いました。

 教育実習を終えて、良い授業とはなんだろうと考えた際に1つ思いついたものは授業後もつい授業の内容を話してしまうような授業なのかなと思いました。それは授業と休み時間とが完全に分断されたものでなく、授業によって生徒の知的好奇心を刺激し、そこから授業では時間が足りないから休み時間でも、家に帰ってでももっと知りたい、もっと話したいと思わせる、このような授業は1つの良い授業なのかなと思います。

 もちろんそこには生徒の学力の高さなどの他の要因も絡むとは思いますが、生徒の知的好奇心を掻き立てられる、生徒が自ら進んで聞いてくれる授業のできる教師になりたいと思いました。




■ 体の変化に合わせて言葉を選ぶことが本来は正しいというような話をしていて思い出したのが,教育の場で,大学に入るまで,自分の考えを述べるというよりは,いかに自分の答えを用意された正解に近づけるかということが重視されていたということだ。

 最近の子供は感性が失われてきているとの話もあったが,自分の体がその言葉を発したいという欲求がないのに,問題に合わせて言葉を並べ替え,文章を作ったりする練習問題をたくさんやってきた。授業でも,道徳や総合的な学習の時間はそうとは言えないが,大部分を占めている授業の進め方として,正解に近づけることが良いとされていたように思うし,先生もそれ以外の答えが出でしまうと困惑する先生もいたように思う。それでは,感性など高めることはできないと感じた。

 自分の体に変化が起こり,それを表現したいという欲求が生まれてから初めて意味のある言葉を発することができると思った。この,生徒の言葉を発したいとさせる欲求に働きかけることが,特に言語系の授業では大事になってくると思うが,その為には,生徒の心の動きを,体の様子から読み取って,用意されたシナリオではなく,その様子に応じて授業の進め方や問題の問い方を変えていく必要があると思った。




■ 竹内敏晴さんは、「言語以前の身体」からの働きかけにより、言葉、言語を通じて相手を変えることが必要だとした。授業での活動も、相手の身体の変化を内側から感じて身体内部からの非社会的な(ナマの)言葉を自ら作り出し、その働きかけで、「(文字)言語」に内実を持たせることが大切だと思うし、これこそが本当のコミュニケーションとしての「言語」だとも思うが、単にドリル形式で機械的に練習している活動等を見てみると、「言葉」と「身体」の本質がそこには入ってないのかなと感じてしまった。

 こういったことを生徒にも分からせるためには、まず自分が、非意識的に身体が動き、身体に響き、言葉にも表せられないような経験を自らができるだけ多く手に入れ、感性、知性を身につけることが重要だと思う。


2018/01/08

「時間をうまく使う」ことで時間そのものを失う

以下はある授業の振り返りとして学部三年生が書き込んだ文章の一節です。ミヒャエル・エンデの『モモ』にも出てくるテーマですが、私たちは「効率的な社会」の中で、観察すること、自分の外と内の変転を時間と共に経験すること、言い切ってしまえば生きること、を忘れ始めているのかもしれません。




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ウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれる様々な営みの共通要素は、それらがすべて「ゲーム」と呼ばれる以上、なくてはならないと決め付けるのではなくて、一つ一つのゲームを丁寧に観察することが大切なのだと述べています。

なるほど今の私たちにかけているのは「観察」の「時間」だなと思いました。情報化が進み、急速に世界が変化する中で人は時間を割くことを嫌うようになったのではないかなと思います。Youtubeでたった10秒の広告をとばす、過程はいいから結末だけ見たいと早送りをする。1冊の本をすべて読むのは時間がかかるからまとめられているサイトを探す、RPGのゲームなどでもミスをして時間を取られるのは嫌だから攻略サイトを見つけるなど、「いかに時間をうまく使うか」に焦点が当てられているように感じます。

そうした時間や手間を惜しむことによって、観察するという行為が欠落してしまったなと自分では感じます。効率のいいように型にあてはめ、本質が見えてなったのかなと思いました。対象をじっくりと観察すること、簡単なようで難しいと思います。しかし、この手間を惜しんでいてはいけないと思いました。




大学院新入生ガイダンスを行いました

学部に引き続き、大学院新入生ガイダンスも行いました。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! こちらは学部と違って、やはりみなさん大人の落ち着きがあります!学部から大学院にそのまま進学した人、一度学部を卒業してしばらく教員をしてから大学院に戻ってきてくれた人など様々です。各...