2017/02/27

アメリカの交換留学の感想(ネバダ大学リノ校に行った修士課程1年生のA君の振り返り)


以下は、広大の留学プログラムを利用して、アメリカのネバダ大学リノ校に留学したA君の振り返りです。「自分のための分析になりますから」と言ってまとめてくれたA君に心から感謝します。A君、忙しい中、ありがとう。

留学を考えている皆さん、ぜひ以下をお読みください。




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 以前(8月)に,アメリカに交換留学に行くという記事を書かせていただきました,博士課程前期1年のAです。プログラムが終わり帰国したので,その振り返りを書くことで,自分自身の経験をもう一度思い起こすとともに,広島大学が提供する留学制度を通した経験を共有させていただきたいと思います。

 前回書いていなかったのですが,今回留学をした大学(ネバダ大学リノ校)に留学をするのは2回目になります。同じ大学に複数回留学することに決めた過程を,まず始めに書きます。その後,留学先での大学院生向けの授業,周辺施設や気候,実践したことや反省点をつづっていきます。



・2回目の留学

 前述したように,私にとって,留学をするのは今回が2回目でした。前回は,学部2年生の時に,同じ大学(ネバダ大学リノ校)に交換留学生として通っています。ただ,当時は正規の授業を履修できるだけの英語力がなかったため,IELC (=Intensive English Language Center)という,大学に附属の語学学校に1セメスター間(4か月間)通いました。(http://www.unr.edu/ielc

 IELCでは,語学学校ということもあり,「英語を学ぶ」ことに焦点を置いた日々を過ごしました。4か月間という滞在期間で,たくさんの友人と出会い,いろいろな国の人と英語でコミュニケーションをとるということの素晴らしさを体感することができました。その中で心残りがあったとすれば,「英語で学ぶ」経験があまりできなかったことと,英語で自分のことを話すことはできても,「論理的にかつ正確に」英語を扱うことがまだ十分ではなかったことがありました。

 大学院に進学が決まり,留学をする機会があると分かった時に,どこに留学をするかを考えました。まず,留学に際して条件の優先順位を付けましたが,私にとってはできるだけ卒業を伸ばさないことが上位にきました。そのため,1セメスターの大学間の交換留学を用いようと考えたのですが,それでも今回留学したネバダ大学リノ校以外にいくつかの選択肢がありました。

 ただ,1セメスターの留学を一度した経験上,4か月というのは思ったよりも短く,大学の制度に慣れたり,人間関係を形成したりで半分以上の時間が過ぎてしまうと感じていました。そこで前回留学したネバダ大学リノ校なら,その適応にあまり時間がかからず,充実した留学ができると考え,大学院生の交換留学生として留学をすることに決めました。もちろん,前回の留学で知り合った友人と再会したい,3年前の自分の英語力では伝えきれなかったことを話してみたい,という気持ちが強くあったことも事実です。

今年度から広島大学でターム制が導入されたことも追い風になりました。広島大学では,従来までの前期後期の2セメスター制から,今年度は第4タームに分けて授業が行われています。私がアメリカ留学から帰国したのは12月でしたが,帰国後第4タームで2つの授業を履修させていただくことができました。

参考までに…

留学の際の優先順位をつけることは,これから留学を考える人にも役に立つと思います。卒業を伸ばしたくないのでしたら,基本的には自分の所属する大学・学部が認める留学制度を用いて,留学期間が在学期間に含まれる留学をする必要があると思います。また,どのような留学制度であれ,留学の目的・期間・費用(予算)・地域・必要な語学能力等,考えていくと留学が具体的になっていきます。

ちなみに,ネバダ大学リノ校とその附属の語学学校での広大生の留学経験談は以下のURLより閲覧できます。





・授業と英語力

 ネバダ大学リノ校では,大学院の交換留学生として,TESOL (=Teaching English to Speakers of Other Languages) Certification Programの授業を履修させていただきました。履修した授業は,Language Acquisition, Methodology of Elementary English Language Learners, Second Language Assessmentの3つでした。いずれの授業にも,英語母語話者ではないの学生は数人いたものの,交換留学生は自分だけで,ほとんどが英語母語話者でした。英語で授業を受けるための準備をして臨んだつもりでしたが,英語母語話者との英語力の差を痛感する毎日でした。

 感覚的な表現で書くと,私の英語力を基準とすると,英語母語話者は「二段階上」の英語力を持っているように感じました。二段階というのは,英語をすぐに理解し自分の経験と結び付けるというインプットの段階と,その自分の経験と授業の流れを適切につかみ発言するというアウトプットの段階の2つをイメージしています。どちらも私の母語である日本語では,あまり意識せずにできる内容のように感じます。具体例を授業内の事例から書いていきます。

 授業では予習として,指定されたリーディングをこなし,そこから自分が考えたことを授業用のオンライン掲示板に書くことが求められました。私は時間をかけながらも(おそらくほかの学生の2倍の時間はかかったと思います)何とか読み終えて,そこから考えたことを自分の経験に結び付けながら書きました。ほかの学生の投稿は時間が足りず全てを読むことはできませんでした。授業の前に席についていると,授業前にある学生が私の投稿した内容についてコメントをくれました。私にとってはリーディング課題をして自分の投稿を書き終えることで大仕事なのに,ほかの学生の投稿まで「興味があるから」や「ちょっと時間があったから」という理由で読んで臨むことができることに英語力の差を感じました。

 授業中のディスカッションでも,英語の力の差を感じる場面がありました。ディスカッションでは,ある学生が発言した内容の,細かい内容について指摘し,その観点を深く掘り下げていく場面が時折見られました。私は,何を指摘したかすら理解できないことがあり,そのような状況では議論に参加できなくなりました。議論の大きな流れを従いながら,ある学生のコメントの細部を掘り下げていくところにも,英語力の差を感じました。






・周辺施設・気候

 留学の大きな魅力は,自分の普段暮らしている場所とは違う場所で過ごすことができることにもあると思います。その一例が周辺の施設になると思いますが,ネバダにはカジノが身近にあるという点で日本と大きく違いました。ネバダ大学リノ校からは歩いて15分くらいのところにカジノ街がありました。ネバダ大学リノ校の学生の40%しかギャンブルに行っていない(60%がギャンブルに行っている)というくらい,カジノが生活に密着をしているようでした。私はほとんどギャンブルをすることはありませんでしたが,カジノには安いレストランやお土産物屋があったり,週末にはイベントが行われたりと,カジノに行く機会は多々ありました。派手な建造物が徒歩圏内にあるというのはとても面白く,散歩でカジノ街の周辺をぶらつくこともありました。

 砂漠地帯ということもあり,気候は乾燥していて,4か月の滞在期間で数えるほどしか雨は降らず,傘は全く使いませんでした。また,夏でもリップクリームを使わないと唇が割れてしまうなど,乾燥した気候を体感することができました。ただ,夜には気温が下がり,蒸し暑いこともないので,個人的には日本の気候よりも好きでした。





・実践したこと・反省していること

 留学先では,一念発起して毎日英語でワードに日記を書いてみました。もとから英語で書くことはどちらかというと好きでしたが,「毎日書く」ということはいい勉強になったと感じています。自分の一日を振り返るための日記なのでたいしたことは書いていませんが,だんだんワードのページ数や文字数が増えていくのに喜びを感じました。結果,120日ほどの滞在で,学部時代の卒業論文よりも長い,120ページ,約45,000語の長さのものを英語で書いたことになりました。また,貴重な留学の一日一日を後から振り返ることのできるものを残すことができたという点でも,私にとっての財産になったと感じています。

 少し反省・後悔している点は,スペイン語を学ばなかったことです。アメリカに滞在している間,メキシコからの移住した家族の家にホームステイさせてもらいました。その家族の中では日常生活でスペイン語を用いていて,私もぜひ学びたいなと感じていましたが,日々の生活に追われて結局手つかずで終わってしまいました。少し話はそれますが,アメリカにはたくさんの移民がいました。現在,アメリカではトランプ氏が新大統領になったことで,移民についての議論の活発になっています。このような情勢の中でメキシカンアメリカンの家族と一緒に過ごせたことは,貴重な経験になったと思います。



写真の補足ですが、これはクリスマスの時期に行われる,Santa Crawlというイベントの写真です。
リノのカジノ街での最も大きなイベントで,サンタの格好をしてバーに行くとお酒が安く購入できます。



2017/02/25

2016年度後期の「昼読」を終えて


2015年度後期から始めた自主的な読書活動「昼読」の活動ですが、今年も何とか終えました。

きわめて地味な活動ですし、私自身、仕事の忙しさからさぼってしまおうかと思うこともないわけではないのですが、まさに「継続は力なり」で、この活動がなければ読まなかった本(特に外国語の本)はたくさんあります。また、会の最後での対話から私自身もたくさん学ぶことができました。(ひょっとしたら「昼読」の最大の利点はこの対話かもしれません)。

4月からの来年度では、教英だけでなくもっと広範囲の学生さんに呼びかけて、いろんな講座からの参加者を募りたいと思います。

読書が個人や社会の中で果たす役割を考えると、ぜひとも継続したい活動です。

以下は、今期特に出席してくれた二人の学生さんの振り返りです。




写真は打ち上げの焼き鳥屋さんで撮影したものです





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 2016年度の「昼読」を終えて

学部4年(英語文化系コース) M

今年度も有志で行っているお昼休みの読書会、通称「昼読」に参加させていただきました。昨年度に同じコースの大学院生の方に誘っていただいて以来ですので、かれこれ一年以上の参加になります。今年度は基本的に週三回の開催でした。私自身この昼読への参加の中で多くの事を学ばせていただきました。

 短い時間ながらも、みんなで同じ場所に集まり読書をする。そして、お互いに自分が読んだものの内容や感想、意見をシェアする。このように書くと、単純な活動のように聞こえるかもしれません。しかし、こうした活動形態ゆえに、自分ひとりで読んでいるときよりも、緊張と弛緩のバランスが取れたように感じています。つまり、自分だけで読んでいるときはついつい惰性的になってしまうこともありますが、読んだ後に内容や感想をシェアするとなると、他の人に伝えようという意識が生じるため、読みながら頭の中で緩やかに内容をまとめていくというプロセスが生まれます。

こうした活動の中で、自分が読んでいた本の内容に対して賛成するような意見が出たり、一方で批判的な意見をいただいたりすることもありました。その際、ある程度自分の読みを客観視することができたため、その後の読みをさらに充実させることにつながりました。

 また、この一年間で昼読にご参加いただいた方々のことを思い出してみると、教英だけでなく様々な所属先から足を運んでいただきましたし(e.g. 教育学部の心理学専門、日本語教育専門、文学部の職員の方…etc.)、皆さんが読まれていた本の種類も多岐に渡っていました。

今でも皆さんが読まれていた本のことを思い浮かべることができますが、このように皆さんが読まれている本を知ったことは、皆さんの興味・関心のある分野を知ることが出来ただけでなく、私自身の興味の幅をさらに広げることにもつながりました。今後も幅広い視点で英語教育について考えていくうえで、この昼読のような経験が重要になると感じております。

 最後になりましたが、今年度の昼読にご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました。来年度も、ご機会があればぜひご参加いただきたいと思います。また、新たにご参加いただける方も大歓迎です。ご関心のある方は、お好きな本を片手に、お気軽にご参加ください。お待ちしております。
※以下は、今年度に私が読ませていただいた中で、とくに印象に残っている本の著者とタイトルです。来年度も、素晴らしい本との新たな出会いを求め、読書を続けていきたいと思います。


・J. K. Rowling, HARRY POTTER A L’ECOLE DES SORCIERS (『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語版)
・ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
・オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』
・ロラン・バルト『表徴の帝国』
・夏目漱石『こころ』 







「昼読について思うこと」

学部3年 (日本語教育系コース) O

昼読。今年度の後期から、ポスターを見てたまたま、でも勇気を出して参加してみて、いつの間にか常連になっていた。ここでは、失っていた読書習慣を取り戻せた、話の合う年齢を超えた友人のような知り合いができた、自分以外の知見を得ることができたなど、得たものはたくさんあったように思う。

しかし、昼読について思うこと、強い印象で一番はなにか、と問いかけられたとき、自分にとっての一番は、「出力すること」かなあ、と、参加を振り返って思う。英語で言えばアウトプット、こちらのほうが馴染みのある言葉だろうか。

昼読では、集まりの最後に、各自の読んだ本を紹介したり、感想を言ったり、それに関して別の人が反応したり、という習慣がある。実はこれ、自分にとっては結構ハードルが高かった。というのも、あまり人と本の内容で語り合ったことはなかったからだ。

読書、というのは非常に感受する割合が大きいものだった。書かれていることを読み、それがどんな意味なのか、自分にとってどういうことなのかを、やや感覚的に済ましていた。もちろん、今まで読んできた本の多くが小説だった、ということもあるかもしれないけれど。

ただ、昼読では、受信するだけでなく、送信もいる。読んだことをまとめる能力。まとめた上でどう思ったか、どう感じたか、どう考えたか。「じゃあ、これってどういうことなんだろう?」「どういう伝え方をすれば、この思いがわかってもらえるだろう?」。伝える際に、あんまりにもお粗末な伝え方では、自分にも、相手にも”理解してもらえなかった/できなかった”というしこりが残る気がする。それが嫌で、「考えながら」読んで、しかも「自分にとってどういう意味を持つかを」考えながら読んだ。いや、読むようになった。

伝える視点、この新しい読書視点を身につけられたという変化が、自分の「昼読について思うこと」である。




関連記事

昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
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前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html


2017/02/24

「勉強しよう」 --学部1年生の述懐--


以下は、「英語教師のコンピュータ入門」を受けてくれた HY君 (学部1年生)が書いた文章です(フォントや赤字部分なども含めてすべて原文です)。

願わくばこの「勉強しよう」という気持ちが継続しますように。いや、経験を重ねるにつれ、ますます深く、広く、そして味わい深くになりますように。


折しも明日は学部入試です。

受験生の皆さん、実力を出し切ってください。

でも勝負は時の運ですから、「失意泰然、得意淡然」で結果を受け止めてください。

どんな結果でも「学びたい!」という純粋な思いがあれば、あなたの学習は成功しているのですから。






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 私は全16回の授業を通して多くのこと学び、感じ、考えた。今まで自分になかった未知のものに数多く触れた。そのように新しい発見ばかりであったこの授業の最終課題であるポートフォリオを書く上で、毎週書き留めていた授業の振り返りを見返すなどして、自分の様々な変化に気づいた。そのような変化をいくつかピックアップして、以下に書き並べてみる。





◎授業を通して学んだこと



・文章の書き方が変化した。

 -毎回の授業の振り返りの文末をみると一目瞭然。“思います。思いました。”が“思う。思った。”に変化。それにより、幼く思えた文章が少し大人びたものになった。それに加え、ただ感想を書き連ねるだけだったのが、感じたことを元に自分なりにその問題について考え、自分なりの見解も文章の中に含めるようになった。また、いかにわかりやすい文章を書くか、読み手への配慮を優先するようになった



・コンピュータの便利さ、危険性を認識した。

 −小学生の頃から先進技術が発達し、世の中がとても便利になったと当たり前のように習ってきた。実際私も毎日スマートフォンやパソコンを利用し、技術革新の恩恵にあずかってきた。授業では、WordExcelはもちろんのこと、単語をクリックするだけで意味が表示されるWeb辞書なども扱われ、今まで知らなかった便利さを実感した。それと同時に、コンピュータによって人の職がなくなっていく未来が十分にあり得ることを知り、コンピュータが発達しすぎることに恐怖さえ感じた。そのような現状をよく理解した上で、コンピュータをうまく活用していくたいと思う。






・以前より、“教育”という分野に興味を持つようになった。

 -振り返ってみれば、これまではただ「教師になりたい」と思うばかりで、行動が伴っていなかったように思う。広大教育学部に入学したことで安心して、自発的に“教育”という分野に触れてこなかったことは認めざるを得ない。一度、教育という分野に触れてみると、その難しさや複雑さなどをとても感じ、口ばかりであった自分を恥ずかしく思った。これから学年が上がるにつれて教育に深く関わる授業も増えていくと思うので、その時に少しでも混乱を陥る可能性を減らすためにも、今のうちに本を読んだりインターネットを活用したりして、予備知識を増やしておこうと思う。



・建前での発言ではなく、正直な気持ちを表現することも重要であると学んだ。

 -授業の中で他の人と考えを共有する機会が数多くあった。その中で感じたことの一つとして、建前だけでの発言では話し合いが円滑に進まないということだ。みんなとの話し合いの中で建前での立派な論述を披露しても、必然と中身のない、共感されないものにしかならない。一方で、本当の気持ちに基づいた正直な意見であれば、共感される部分も多く、話し合いが盛り上がることが実感できた

  それと同時に、コミュニケーション能力を高めておくことも重要であると感じた。身近な人との話し合いの中でも、間が生まれたり円滑に進まなかったりしたのに、他の人との話し合いの中では尚更そうなるだろうと思う。そうならないために、知らない人と関わることでコミュニケーション能力を高めていこうと思う。



・教養への考え方が変化した。

 -正直なところ、今までの教養に対する私の考えは、教養は年を食えば自然と増えるものでそれほど重要なものではないというものだった。しかしこの授業を通して、自分なりの考えを持つには考えの根底となる教養が必要であると感じ、自分の中での教養の重要性が上がった。先生が授業の中で何度もおっしゃっていたように、本を読むことの重要性を幾度もなく感じた。本を読むことが得意ではないため、今まで小説以外の本をあまり読んでこなかった。しかし自分なりの考えを持つために、これからは少しずつ本を読んで豊かな教養を身につけようと思う






・英語の可能性、重要さを再確認できた。

 -今まで、これから先は英語が使えることが重要だと親や先生、大人たちに何度も言われてきて十分に分かっていたはずだった。しかしこの授業を通して、英語が使えることでインターネット上で学べる量が大幅に増加することがわかった。“英語を学ぶのではなく、英語で学ぶ。”これをキーセンテンスに、これから多くのことを学ぶために、確実な英語力を身に付けたいと思う



TedGraded ReadersWebページなど、英語を学べるのは教科書や参考書だけではないことを知った。

 −中学校や高校では先生が選んだ指定の教科書や単語帳、参考書などで英語を勉強していたが、この授業を通してTedGraded Readersなどの良質な教材を自分で選択して利用できることを知った。これからもTedGraded ReadersWebページなどを継続して活用していこうと思う





 上に書いたものはこの授業で学んだことのほんの一部でしかない。全16回の授業を受ける中で、新しいことを学び知識が増えた。それと同時に、先生の話を聞く中で、先生の知識の豊富さや考えの深さを感じ、自分の教養のなさを痛感した。授業における活動を通して、様々な考えを持ったが、それらをまとめ上げると、

勉強しよう。”

この一言に尽きる。大学生活で様々なことを経験しつつも、日々学ぶことを忘れずにこれから過ごしていこうと思う。







2017/02/23

「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」に関する学生さんの振り返り


以下は「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で、「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」について講義した際の学生さんの振り返りの一部です。講義の中では「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針についても扱いました。

学生さんは学生さんなりに批判的に考えています。文科省の肝いりで「思考力・判断力・表現力」を本当に育てようとするのなら、少なくともこういった学生さんの思考・判断・表現を抑圧してはいけないと思わされます。





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■ 英語の授業一つとっても,最近は観察の観点が「いかに英語を使っているか」という部分にあると感じています。授業コメントの多くは,先生は日本語を20分も話していた,とか,生徒が英語を10分しか使っていなかった,オールイングリッシュでやっていたのが素晴らしい,などです。しかし,今回の授業で分かったことは,英語使用とは何かということです。

今の英語授業での英語使用というものは,パターンプラクティスや新出単語の繰り返し練習なども含めているように思えます。しかし,ドリル,パターンプラクティスは言語産出や言語再生ではあっても言語使用ではありません。そのような練習段階が必要でないといっているわけではなく,それがあたかも言語使用のように認識されていることに疑問を覚えます。

実習でも,専ら使用言語は英語であることが求められました。少ない英語の時間のなかで,生徒が少しでも英語に触れる機会を多くとるという,クラッシェンのインプット仮説に基づいているようでした。実際に英語で授業をしてみて感じたことは,教科書を開くのも,誰かを指名するのも,本時の目標を伝えるのも,プリントを解かせるのも,答えを聞くのも,ほとんどがクラスルームイングリッシュといういわばすでに定型化している英語を繰り返しているだけで,なんだか生徒とコミュニケーションを取っている感じがありませんでした。

これは実習だからということもありますが,本時案・細案で,生徒の反応まで事前に予測して決定して,その通りに進めます。そこで行われるコミュニケーションといえば,生徒の答えが自分の求めているものと合っているかそれとも違っているかという反応くらいです。コミュニケーション能力を養うはずの授業なのに,本末転倒な感じがします。

 訳読式の授業は今やoutdatedであり,批判の的にされていますが,今回の授業を通して,必ずしも訳読式の授業が悪いというわけではないと感じました。翻訳というものが,英単語に当てはまる日本語をただパズルのように並べ替えて当てはめるだけのものであると捉えられているのが問題であると感じました。そのように捉えられているから,多くの英語学習者が,「日本語で言いたいことが英語で表現できない」という悩みを持っているのではないでしょうか。それ故日本語の母語干渉が顕著に現れるのではないかと感じました。

ここでも「語り合い」というものが重要だとペアで話しました。ここでの語り合いは,異言語間の語り合いです。英語を分析的に理解することはしばしばありますが,日本語の分析的理解が極端に欠けていると感じました。翻訳とはまさに言語間の語り合いだと認識しました。最後のポートフォリオを通して,この授業をしっかりとまとめたいです。



■ --英語教師って日本語文法の知識なしにできるの?

素朴に放たれた疑問であるが故に、余計にこの言葉が心に突き刺さる。英語が話せるようになろうと思って、あるいは英語教師になりたいと思って「よし、日本語文法を勉強しよう!」と思い立つ人がどれだけいるだろうか。それだけ、英語と日本語は切り離されたものとして考えられているのである。

英語を習得するために英文法を学ぶのは至って普通だ。そんなこと当たり前すぎて何を言っているんだと言われてしまうかもしれない。ただ、私たち日本人が英語を知ろうとする時、その身が日本語の染み付いた身体であるということもまた、当たり前すぎて忘れられてしまうような事実である。英語を勉強する時だけ自分自身をリセットできるわけもない。英語モードになっているようで、実際のところ強化された習慣からは逃れられないのである。

第二言語習得において、母語の転移がしばしば学習者を悩ませる障害となるということはよく聞かれるが、負の転移を正の転移にしてしまえばいいのではないだろうかということだ。一つ目の言語に関する経験と知識を、二つ目の言語習得に生かすのである。しかし、その一つ目の言語というのは気付いたら話せてたという、まるで形ないもののようで、無意識のうちに身に付いた何かを分析的に捉えることは難しい。そこで、一つ目の言語と二つ目の言語とを比較できるだけの知識やら能力やらが必要になってくるのである。「ことばへの気づき」を重視した教育の出番だ。

少し話が逸れるようだが、私は初等教育教員養成コースにいて、三年次から国語ゼミに配属された。研究室分けがなされ、今お世話になっている担当教員はこの授業でも一度さらっと名前の出た先生である。その先生は、卒論は何をしてもいいとおっしゃった。ただし蝶の標本だけはやめてくれと。…というのは先生のご冗談だが、要はどんなことも全ては「ことば」につながっているということである。

ここで言う「ことば」の捉え方こそが、英語を学ぶあるいは教える際にも同じようになされるべきものなのではないかと思った。英語と日本語を比べるといっても、決して一対一の等号で両者を結びつけようというのではないから。英文和訳をしようということではないから。ここでは、同じ「ことば」として違う「言葉」を見ようとする。

英語だ英語だと言って全てを英語で塗り替えようとするのは、少なくともここ日本の、学校教育において歓迎されるものなのだろうか。授業も試験も英語で行おうという考えは、少々安直すぎやしないかという気がしてくる。いずれにせよ、目の前の子どもたち、目に映る現実世界から目を逸らしてはいけない。そしてちゃんと、対話をしよう。



■ 授業の中で、ある心理学者の方が、英語教師は日本語文法を知らなくても免許を取得できるということに驚かれたというお話があったが、言われる通りおかしなことだと言われて気づいた。英語の元々の文法を知らず、英語で授業をしたら解決するという風潮は少し幼稚に感じる。外国語を学ぶ上で母語干渉があるのは当たり前で、その母語干渉が悪影響を及ぼさないためには、自然に文法の違い、表現の違いに気づくのは難しいところがあるので(何年かかるかわからない)、やはり日本語文法とのわかりやすい比較が生徒には必要だろう。

 また、日本の社会の中で英語をきちんと使わないといけないのは5%と言われており、小学校の「外国語活動」を英語習得路線で考えるのではなく、英語という外国語 (および可能ならば他の外国語) を通じて対照言語学的に言語に対する理解と洞察を深める路線で考えることは、より真剣に検討されるべきであろう、という話があった。私もこの説には賛成だ。

しかし英語をよく知らず、英語が絶対に必要だと思っている有識者ばかりが話し合うから、その路線は英語習得に向けて進んでおり、実際に教育実習や授業見学で拝見したのは、英語塾に通っている子どもたちが楽しい授業で、それ以外の子はついていけず嫌いになっている状況だった。(たったの3校しか見ていません)この話を聞いて私が思ったのは、英語の対象言語学的理解を深めるには、授業の中で子どもたちにカルチャーショックをいくつも与え、日本語との違いを染み込ませていくことが有効なのではないかと思う。他の言語を理解するときにその国の文化についても知っていくが、その際に何かカルチャーショックのようなものを経験すれば、その違いを身をもって感じることができるのはないだろうか。

 今日の授業では、英語第一主義のその後がどうなるのかをたくさん想像したように思う。先生がブログで書かれていたアフリカの例もそうですし、広大にいるアジア人留学生に話を聞いても、私立の学校だけで1年生から行われており、それ以外の学校は母国語で授業を行っているという話を聞いた。その格差をなくすのが1番だと思うが、簡単そうに見えて簡単ではないのだと感じた。日本で良い実践例を作り上げるしかないのだと思う。その中で役立てるよう、この授業を活かしていきたい。


■ 個人的に英文和訳に関して興味があるということもあり、今回の授業では翻訳についての話が非常に興味深かったです。私自身、受験期に論述形式のテストで何度も英文和訳問題に遭遇しました。当時の私は「攻めた訳し方をして点を落とすぐらいなら、守りにいって確実に点を稼ごう」という考え方で問題を解いていたため、問題の英文を自分でも違和感を感じるほどの日本文に変えていました。

言い換えると、単語帳、文法書で覚えた(覚えさせられたものが多いですが)訳し方を疑うことなくそのまま用いて機械的に英語を日本語に変える単なる作業をしていました。このように機械的に英文を訳していた受験生は私以外にも相当な数いるのではないのでしょうか。また、合格を勝ち取らせるため、点数を稼がせるために、機械的に訳すのが一番だと言わんばかりの指導をしていた教師も少なくないのではないでしょうか。

私は「守りにいって点数を稼ぐ」ことが正しいやり方だと思い込んでいたため、記述模試の答え合わせをする際に、いつも英文和訳問題の模範解答に違和感を感じていました。「こんな攻めた訳し方をしてよいものなのか」、「これが満点の解答なのか」と。模範解答のような自然で違和感の全くない訳し方がしたい、できるようになりたいという感情はもちろんあったのですが、その度に私はそれをしたら減点されるかもしれないという現実に押しつぶされていたのだと思います。

実際、記述模試の英文和訳問題は基本的に長文の中の一文に下線が引いてあり、その一文を訳すという形式であるため、訳すためには当然ながら前後の文脈を理解していなければならないのですが、仮に文脈が理解できていなくてもその下線の引かれた一文にわからない単語、文法が用いられていなければ、機械的な訳し方をすることで、満点をとることも十分可能でした。

このような、攻めた訳し方をすれば大幅に減点される可能性が高いが、守りにいけば減点を最小限に抑えられる上、満点の可能性もあるという採点システムでは、受験生が攻めた訳し方をしようとしないのは当たり前ともいえます。

試験の採点システムがこのような機械的な訳し方(=受験のための便利な道具)を生んだといっても過言ではないのかもしれません。採点基準に「文章の自然さ」という項目を入れれば良いのではという意見もあるようですが、この案には諸々の問題があります。採点に平等性が確保されなければいけない試験で、そのような採点項目を含む採点基準を採用すれば、どうしても採点者の主観が入ってしまい、十分な平等性が実現されません。

しかし、そもそも英文和訳を含む、記述形式の問題を採点する際に主観が入ってしまうのはやむを得ないことなのかもしれません。そう考えると、採点項目として、機械的な訳を防ぐための項目を入れることも意味のあることに思えます。

卒論で英文和訳について調べていこうと考えているので、上記のような点についても深く考えていこうと思います。
  


■ 二点目は、置き換え訳と翻訳について、授業を通じてもう一度考え直した。言語そのものに着目し、英語の公式に従い訳をする置き換え訳と、言語そのものだけでなく言語使用的、相手意識的な観点に従い訳をする翻訳。

「今までの英語教育で成功を収めた訳を今の英語教育は全否定している」という主張がブログ記事にもあったけれど、「訳」を否定している人々の殆どは、この後者の翻訳の意味・概念を正しく理解していない、または知らないのではなかろうかと思う。なぜならば、もし気持ちや相手意識(分かってほしいなどの期待)を持ってコミュニカティブに訳をするという翻訳の役割を知っていたならば、コミュニケーション能力の育成を目的とする外国語教育において、それが否定されるはずがないからである。

訳と言ったら我々日本人の中に最初に出てくるのは前者の置き換え訳であり、その置き換え訳を以て訳としている。そのような考えを持つ人が英語教師になれば、コミュニカティブな「翻訳」をできるようになる生徒は必然的に現れない。このように、あらゆるところに存在する言葉一つ一つの意味をしっかり分析し、しっかり理解しておかないと、このように生徒の伸びしろを捨ててしまうことに為りかねない。

幸運にも私は「訳」の二種類の違いを知ることができたので、将来後者の「翻訳」を授業の中で取り入れる試みを行いたい。そして、否定されている「訳」の名誉を挽回したいと思う。またそのためには、先ほぞも述べたように、まず訳について、自分なりの教育方法を確立していかなければならないと思っている。



■ 今日前半の授業を受けて第二言語を学ぶ時の母語干渉について考えました。日本語の「は」と英語のisについて、1年生もしくは2年生の時に履修した柳瀬先生の授業の復習でももしかすると書いたことがあるかもしれませんが、私の弟(英語は得意ではない)は以前“I like sport is baseball.”という英文を書いていたことがあります。この一文には色々問題はありますが、おそらく弟はisを日本語の「は」と捉えており、「I like sport(私の好きなスポーツ)is(は)baseball.(野球です)」と言いたかったのだろうと考えられます。

このような文法的間違いから、英語と日本語の違いについて生徒が気づく事ができれば英語科の教養的価値が高まるのかもしれません。そして、授業中に柳瀬先生がおっしゃっていた通り、英語教師自身も国語教育や日本語教育についてもっと理解を深める必要があると思いました。

英語教育の目的が英語を流暢に話せる日本人の量産でない限りは、言語の中に現れる日本文化、欧米文化をもっと生徒に感じてもらえるような授業が求められるべきだと思います。今や「英語といえばアメリカ・イギリス」と言う時代ではありません。世界中でそれぞれの国の英語が話されており、それぞれが母語の影響、母国の文化の影響を受けながら「英語」という言葉を借りて自分達を世界に表現しています。発音、イントネーション、文法はもちろん相手に伝わる程度には正確さも必要ですが、世界中の人と簡単に関わることができる今の時代に日本人として英語を話すこと、その中身の充実が求められているのかもしれないと思いました。

 授業の後半を受けて、経済界の敎育界への影響を考えされられました。経済発展のために英語は不可欠だから英語の授業を英語で、ないしは大学での授業は英語でということに対してはあまりにも安直な考えなのではないかと思いました。第一言語と第二言語の習得方法は同じようにいきませんし、50分の英語の時間だけ使用言語を英語にしても頭の中の思考は日本語で行われます。第2言語を使う時の私達の頭の働きは第一言語を使用するときとは全く別物なのです。第2言語を習得したからと言って、ネイティブスピーカーや、バイリンガルの方とは脳の使い方が異なるということを意識する必要があると思います。

また、英語の授業の中でよく気になるのが、中学生や高校生にもなると、第一言語であれば抽象的なことやかなり難しいことも思考、議論することが出来ますが、英語の授業になると「好きな国を紹介しよう」などといった易しいトピックが多く、思考の点においてはあまり深まりを感じられないことが多いということです。思考が深まらないというのは、例えば教科書の定型文を取り出し、国名の部分やその国の有名な建築物の名詞のみを入れ替える作業のみを行っていることが多いように感じられるからです。

ここで思い出したいのが田尻悟郎先生の授業実践です。田尻悟郎先生の授業でもトピックは「私の宝物」という比較的易しいものでしたが、先生の生徒さんたちは自分とまっすぐ向き合い深い思考を行う事ができていたように感じられました。ただ教科書本文の一部の単語を変えて話しているのではなく、一人一人自分の言葉を探して話しているような印象を強く感じることが出来ました。

同じトピックでも教師のアプローチひとつで生徒の思考を深いものにすることはできるのではないかと思います。そしてその時の頭の中の使用言語はきっと母語になるでしょうが、そこで自分が考えたことを一番適切に表現することができる英語、「からだ」から出る言葉を探していくことが生徒たちの学習につながるのではないかと思いました。

 この授業では普段の生活の中では、あたりまえのこととして見過ごしていたものを哲学の観点から考え直すことが出来ました。授業外の課題でも自分のお気に入りの本を見つけることが出来たので嬉しく思います。ありがとうございました。



■ これまでの授業を通して、自分の知識や経験がいかに浅いかを痛感するとともに、聞いたことをすべて正しいと受け入れるのは安易だと感じました。いままで変だと思わなかった多くのことが違和感や疑問点を抱くものに変わりました。子どもたちに考える力を育てる前に、自分自身も考える力をつけていきたいです。その前に多くの知識を、自分が納得のいく形で自分の中で貯蓄できればと思います。



2017/02/22

追いコン幹事をやってくれたAさん(学部3年生)の感想


 2月17日に今年度教英追い出しコンパがありました。この追い出しコンパも年々受け継がれている教英行事の1つであり、幹部学年が中心となって運営する最後の行事でもあります。そのような行事の幹事をさせていただいたことを本当に有り難く思います。




この会を開催するにあたり、学部1年生から教授方にわたる連絡、お店側との打ち合わせ、記念品や出し物の企画等、多くの準備が必要でした。これら全てがうまくいったのは、スタッフだけでなく多くの方々のご協力と温かい励ましがあったからです。何か大きな行事を成し遂げるには、縁の下の力持ちといいますか、目には見えないところで一生懸命動いてくれている人がいるからだということを再認識しました。改めて、この場をお借りして感謝の気持ちを述べさせていただきます。ありがとうございました。





この追い出しコンパは、今年度ご修了・ご卒業される皆様に向けたものですが、参加していただいた全ての皆様に楽しんでいただきたいという思いで企画・運営をしました。教英には伝統ある行事がいくつもあるわけですが、今年度追い出しコンパが大学生活の想い出の1つとして皆様の心に残ればと思います。そして、春から新入生を迎えるにあたり、これらの行事がますます盛り上がっていくことを期待しています。












2017/02/17

教英追いコンは最高に楽しかったです!


本日、今年度の卒業・修了予定者を送るための追いコンが開催されました。

私は教員としてこのような挨拶をしましたが、後は、もう無礼講というかなんというか、最高に楽しい時間でした。



二年生と三年生は、卒業・修了予定者のための動画を作って、会場ではそれが披露されたのですが、それがもう面白い。



画像としてのクオリティも高く、各教員も決して外では見せることがないおちゃらけをやっていました(笑)。




それに対して送られる方を代表して学部4年生有志がコントをやったのですが、それも抱腹絶倒でした。



こんなに楽しい時間を作れる教英生を私は誇りに思っています。



私はカメラマンとして487枚の写真を撮りましたが、撮影中はとても幸せでした。皆さんの幸せな顔を撮るのはカメラマンの喜びです(写真は、学生さんにダウンロードできるようにしました)。



追いコンを企画してくれた準備委員の学生さん、参加してくれた学生さん、みんなありがとう!








2017/02/14

その間、学部生は控室の清掃をしていました(笑)


修士課程の修了審査が行われている間、学部生有志が学生控室の自主清掃をしていました。




広大教英の控室環境はそれなりに恵まれていると思います。


学生さんはそこで語り合い、励まし合い、友情を培います。

もちろん、ずっと使っていると汚れてきますが、学生さんたちは見事に自主的に時折清掃をしています。






特段に「自治会」などの組織はないのですが、それぞれに協力して自らを律しているのは立派だと思います。

複数の人間で自発的に何かを行うこと -- この基本的社会的能力に乏しい若者が少なくない中、このように学生さんたちがきちんと自律しているのを見るのは頼もしい限りです




(ごめんなさい、親バカコメントでした)。m(_ _)m





修士課程の修了予定者を対象とした論文審査を行いました


本日は修士課程の修了予定者を対象とした論文審査を行いました。

午前中は理論志向の研究の審査、午後は実践志向の研究の審査でした。




修士課程はもちろん、学部よりも要求水準がぐっと高くなります。

調べたことを雑多に述べるだけではなく、研究全体としてのstory-tellingを大切にしなければなりません。

つまり何が主題で、その主題がなぜ重要で、その主題についてどのように探究していくのか、探究の結果何が解明されたのか、その解明された事柄はどのように発展できるのか、といった流れで、読み手・聞き手を知的にentertainすることが重要です。これは簡単なようでなかなか難しいことです。



院生は二年間にわたり、いわば「ひーひー」言いながら自分の研究をまとめます。

やっている時は苦しいかもしれませんが、逆に言いますと、自分の考えに対して、これほど多くの人が建設的なコメントをしてくれる時期はありません。

正直に自分に向き合うことができる人は必ず伸びます。知的にも、人間的にも。

大学院進学希望の方は、まずは自分の指導教員になってみたい教員に連絡を取ってみてください。


教英ホームページ:スタッフ紹介
https://www.hiroshima-u.ac.jp/ed/faculty/course/eigo




2017/02/13

卒業論文発表会を行いました


大学四年間の集大成、さらには(大学院に進学する人を除くならば)小学校からの学校教育の集大成と位置づけることもできる卒業論文発表会を本日行いました。



近代社会で働くには、他人への共感能力を始めとした "common sense" だけではなく、複雑な事柄を単純明快に、かつ他人にも興味をもってもらえるように説明できる能力が重要になります(これは教職だろうがその他の職種だろうが、近代社会の多くの仕事で求められる能力です)。

卒論を書く意義はここにも求められます。

他人のことばを一つ一つ丁寧に読み解き、それ以上の注意をもって自分のことばを一つ一つ書き連ねます。その際に、自己矛盾は生じていないか、もっと簡潔に書けないか、読者はどのような疑問を抱くだろうかなどといったことを考えながら、書いては読み返し、読み返しては書き直してゆくのが論文執筆です。

この卒論作成の経験で身につけた能力を卒業生のみなさんが社会で一層発展させることを願っています。






2017/02/09

翻訳あそび: Captain America と The Catcher in the Rye

今回で翻訳あそびも一巡しました。6人で遊んでいるのですが,1回につき一人が題材を選んできたためです。


今回(6回目)のお題は二つです。


(1)ひとつ目はキャプテン・アメリカの翻訳です。

次のような疑問が出ました。「キャプテン・アメリカは誰に向かって言ってるんだろう?想定された少年?鏡に映っている自分自身に向かって?」



翻訳者K

世間が何と言おうと構わない。
周囲がクロをシロとしても関係ない。
この国じゃ,やるべきことは1つだけ。
それは,余計なことは考えず,自分の気持ちに従って行動することさ。
みんなが,「お前は間違っている」と言ってきたら,胸張ってこう言い返すんだ。
「いや,お前らが間違っているんだよ。」


翻訳者M

マスコミや政治家が何と言おうが関係ない。
奴らの牛耳るこの国が黒を白と言ったって関係ない。
それがどうであれ,己の正義に従え。
私たちはそう誓ったはずだ。
奴らに何を言われようが,信じたものは手離すな。
言われたなら「黙ってろ」と言ってやれ。


翻訳者T

新聞が君に何を教えてくれる?
政治家が,群衆が,君に何をしてくれるというのだ。
この国が今,岐路に立っていようなどと,君は考える必要もない。
このアメリカは,奴らの遠く及ばない崇高な信念によってつくられた。
がむしゃらに己の信じる道のために立ち上がった者たちによって。
時に奴らが君に向かってこう言うさ。「たのむ,力をかしてくれ。」
そんなとき,君の仕事はただ1つ。真実の川の堤の上で,あの木のようにどっしり構え,奴らにこう言ってやるのさ。
「よせ,お前が蒔いた種だ。」


翻訳者N

メディアの報道など知ったことか。
己の利得しか追い求めぬ政治家や,扇動された群衆の言うこともどうでもよい。
まして,この国全体が黒を白だと判断を下しても,俺たちには関係ない。
俺たちの祖国は,あるひとつの信念の上に建国された。「たとえ追いつめられようと,結果がどうなろうと,己の信じるものを守れ」という信念だ。
群れるだけの連中や,メディア,そして全世界が君の理想を否定し,自分たちに従うよう命令してきたとしよう。君のなすべきことはただひとつだ。真実の川のほとりにそびえる木の如く根を張り,己の信念のもと,こう言ってやれ。
「断る。お前が俺に従え。」


翻訳者H

報道機関が言うことなんて放っておけ。国をうごかすやつらや物見高いやつらの言うことに耳をかすな。母国がそうだと決めたからって,それが本当に真実なのか。
この国は国民のもつ,ある際立った信条によって支えられているのだ。
それはつまり,後からついてくるものになど目もくれず,自分の信じて疑わないものをつらぬくことの必要性だ。
やつらはお前に言うだろう。「お前は邪魔だ」と。だが,お前がなすべきことは,自分の信条を胸に抱き,そこから一歩もしりぞかないことなのだ。そしてやつらにこう言ってやれ。
「邪魔をするな,そこをどけ。」


翻訳者O

マスコミも,政治家も,下々(しもじも)の奴らも全部無視だ。
たとえ国中が黒を白だと言い張ったところで,無視すりゃいい。
この世で大切なのは,結果を恐れず,己(おのれ)の信念を貫くことだけだ。
もし世界中の奴らから「動け」って指図されても,真実の川のほとりに立つ木よろしく,その場を動かないことだ。逆に世界に言ってやれ,「動くのはお前の方だ」と。


翻訳者Y

マスコミが何を言おうとも、表や裏の権力者が何を言おうとも、そんなことは関係ない。
たとえ、すべての世論が虚偽を正しいと信じこんでいても、そんなことは関係ない。
アメリカがアメリカであるのは、他でもない、たった一つの筋が通っているからだ。
どんな困難や結果にぶつかろうとも、自分が信じていることのために立ち上がる。これだけだ。
裏社会の権力者とマスコミが、いや全世界が、「お前、どけ」と言おうとも、お前は筋を通せ。
真実の川のほとりに立つ木のようにまっすぐ立て。そして全世界に対して言い放て。
「断る。お前らこそ、どけ」と。




(2)ふたつ目は,米作家J. D. Salingerの小説The Catcher in the Ryeのタイトルの翻訳です。





O『麦畑で追っかけっこ』

K『もし僕がライ麦畑で捕まえたなら』

T『たった一人のお兄さん』

M『ライ麦畑の保安官』

N『ライ麦畑の子守番人―子どもたちを見守って』

H『若きライ麦』

Y『ライ麦畑で君を守る』







2017/02/07

田尻悟郎先生のスピーチ実践 (6-Way Street) を見た学生さんの声

この記事は、前の記事(ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す)の続きです。


この授業(後半)では、


アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析


などを参考記事としながら、6-Way StreetのDVD (上巻その2)の田尻先生のセクションを視聴して皆で考え語り合いました。


DVD: 6-Way Street



私自身の考えを忌憚なく言うと、よい英語教師になるために重要なのは、常識、愛情、英語力の三つです。それらを一つにまとめるなら感性です。

感性の働きとは関係のない豆知識ではなく、人々が共有するあらゆる種類の感覚 (common sense) が私のいう「常識」です。教条的な善意に基づく一方向の働きかけではなく、社会的動物としての人間が本能的にもつ温かな心(あるいは「惻隠の情」)が私のいう「愛情」です。限られた知識・技能だけを測定する資格試験の高得点ではなく、その人とその場に即した形で発露されるのが私のいう「英語力」です。

若い世代が、下で語られる田尻悟郎先生のように、自らの感性を信じて学校教育の新しい形を開拓してくれることを期待しながら私は大学で授業をしています。


「こんな先生に出会いたかった! ~豊かな人生を送るために子どもたちに伝えること~」




*****


■ 田尻先生の実践されたスピーチの授業のビデオはとても印象的でした。あのビデオを見て一番に感じたことは「自分が本当に何かを伝えたい時、自然に顔は上がり相手の目を見るし声に力が入り抑揚が出る。だから、声の大きさとかアイコンタクトとか評価する必要がない。」ということです。

この授業でも行われていたように、評価ではなく感想にすることで、自分の言いたいことがどう相手に伝わったのか、感想を書く側も自分の気持ちをスピーチした人に伝えることができ、お互いの気持ちを共有できると思います。スピーチだけど、そこには聴く人がいて対話が生まれるのだと思いました。


■ 授業の後半では、田尻先生の実践をハンナ・アレントの枠組みで考えようとしました。

スピーチをしているのを見た時に、初めて見た私にも彼らの人格が分かるような気がして、それは彼らが借り物の言葉ではなく、自身の気持ちを伝えるために英語を使っているからそう思えるのだと思いました。なんと言葉にしてよいかよくわからないのですが、楽しそうでした、スピーチをする方は聞いてほしいと思っているし、クラスは彼らのスピーチを聞きたいと思っている。たとえ音声を消したとしても、表情が、からだがもうしゃべっている、というような印象でした。

このスピーチが生まれてくるまでの田尻先生のバックアップはどんなものだったのだろうと気になるます。彼らが自分の気持を話したいと思うのはトピック設定や進行過程がふさわしいだけではないのは当然のことです。普段から、少しずつ自分を安心して開示できる場をつくっていき、語りによって自己開示できるようになっていったのだと思います。

スピーチを終わるときの彼らの嬉しそうな顔がまだ忘れられません。言語だけに囚われず、コミュニケーションを取る力をつけられるように、というのを肝に銘じておきたいと思います。


■ 授業内でも様々な視点からの田尻先生の授業への感想がありましたが、いままで見てきた授業との違いが一番大きかったのが、先生がどのように生徒と関わってきたのかが授業を見ただけでわかることができたという点です。

たった十数分のビデオだったのに、先生がいかに生徒のことを思っているか、生徒同士の関わりが充実していたか、ということが伝わってきました。これも田尻先生が生徒をテストで点をとらせるように育てるのではなく、人間として成長させようとした結果だったのではないかと思います。

これはスピーチにおいて3人目の生徒に「思い」を伝えさせるように内容を変更させた点からも見受けられます。多くの教育現場でこの授業を真似して失敗してしまった例があったといいますが、この実践方法のみが重要のではなくて田尻先生の生徒を思う気持ちが本当に大事だったから、そのような接し方ができていなかったらうまくいかなかったのだと思います。先生と生徒が、または生徒同士が人間として関われるような場を作れる授業があのような場面を生むことができたのだと思います。


■ 田尻悟郎先生の授業動画を視聴して感じたことが大きく2つあります。

まず一つ目に私が中学生の時に受けたスピーチの指導では、ナンバリングや、声の大きさ、発音、スピード、姿勢等に関することでしたが、本当に伝えたいことを伝えている人と、それを一生懸命聞いてくれる人がいれば、そんなことは本当にちっぽけなものにすぎないのだと感じました。しかし実際には多くの学校で、スピーチを聞いた後にチェックリストを用いて友だちの発表を評価しています。

今回の映像の中で2番目に登場した男の子のパフォーマンス?はそういったジェスチャーやポスチャーを遥かに超えたところにあったと思いますし、3番目の男の子も滑らかさや発音などで評価されてしまっては、あまり良い評価にはならないでしょうが、多くの人の心を動かす素晴らしいものでした。この授業は「からだ」から出た「ことば」をみんなが「からだ」で感じ、それをまた「ことば」にして感想を書くという言語の力を話しても聞き手も感じられるものだったと思います。

2つ目に感じたことは、授業でも発表させていただきましたが、スピーチも一種のやりとりと捉えることができるのではないかということです。今までスピーチというと基本的には個人で、または団体で行う一方通行的な発表だと感じていましたが、スピーチは聴いてくれる仲間がいるからこそ成り立つのであり、今回の映像の中で言うと、練習の段階から先生のサポートがあり、先生だけに限らずクラスメイトの協力・演出があり、決して一人で成し遂げられるものではなかったと思います。聞き手が目を合わせてくれる、頷いてくれる、自分の発表を聞いて涙を流してくれる、これらすべてを含めて彼のスピーチが成り立っているように感じました。

この授業を見て、教育実習などでライティング活動をする際に今回はこういう場面設定で、みんなはこういう役ということにしよう、と現実味のない架空の設定を生徒に押し付けていたのではないかと反省しました。今まで私は英語を使わないといけない場面、状況はどんなときだろう?とばかり考えていましたが、そうではなくてもっと英語という言語、教科だからこそ生徒たちができることを考えていかなければならないと思いました。





■ 授業の後半は前回の授業、そして前半のアレントの意味論を踏まえ、田尻悟郎先生の実践をみました。三人の生徒が自分の宝物について英語でスピーチをする映像を見たのですが、これは本当に圧巻でした。それぞれの発表時間はおよそ三分弱ほどだったと思うのですが、その時間で十分彼らの性格を理解、ないしは想像することができました。これは本当に驚くべきことで、他の普通の中学校で、英語で自分の宝物を紹介してもらっても恐らく、「全員同じ」に映るのではないかと思います。生徒がみな自分の身体感覚にぴったり来る言葉を選んで使っているからこそ実現していることだと思います。

田尻先生は「コミュニケーションの仕方を教えるのが英語の授業」というふうにおっしゃっていました。これは多くの先生がわかっていることだと思います。しかし、実際に行動に移す人はすごく少ないのではないかと思います。田尻先生はこの考えを実践しています。田尻先生の実践では、「英語でスピーチをする」ということが最終目標となっておらず、「自分/他人を知る」ということが最終目標になっているように感じました。英語のスピーチはそのための「手段」といして機能していたのではないかと思います。加えて、どの生徒も自身を持って自分の宝物を発表していました。これは学級内に信頼関係がないとできないことだと思います。教員がまずすべきことは「学級という生徒の居場所」を作ってあげることだと思いますが、田尻先生の素晴らしいこと、これを「英語教育」をつかって実現させたことだと思います。

   
■ 後半では田尻先生のスピーチの授業を見ました。あの風景を見て考えたことは、教室空間の中で「人間の複数性」と「独自性」を持つことが許されており、それを生徒が説明できなくてもしっかり感じ取れているからこそ、自分と相手の個性を尊重し「聞く」といった姿勢が作られているんだなということです。

本来英語で自己表現することは、日常生活で必要ないことにもかかわらず泣く生徒が現れるほど、そのスピーチの「意味」は語られており、教室がある意味人間らしい意味世界の縮図になっているからこそ成り立つ活動だと思います。

また、一つのものがもたらす意味はそれぞれの人が持つ経験によって変わるものだと生徒が学ぶことができる授業だとも思いました。さらに、実習において私たちはやはり教科指導を主軸においていましたが、現職の先生方はこのようにしてい学級経営も同時にこなしているのだと勉強になりました。言語という強みを生かして、生徒が安心できる居場所づくりに少しでも貢献できるようになりたいです。


■ 今回の授業で、学校で授業をすることの意味をふまえて英語の授業について考えることができた。学校は複数性が当たり前の社会である。一人で考えることや知識を得ることは学校でなくてもできる。しかし、教室で学ぶからこそコミュニケーションで使えることを実践しながら習得できる。複数性があるからコミュニケーションの必要性も自然と感じるだろう。田尻先生のスピーチの実践でも相手に向かって話すことを意識において話し方はもちろん内容も工夫がされていた。スピーチというといやがる生徒も多くいると思うが、それを授業実践として成功されている先生は本当に生徒からの信頼も厚いのだろうということが伝わってきた。

教科の指導と生徒指導を一体化するのは自分も受けたことがなく教科のことだけ専念してしまいそうだ。だが、結局は生徒指導がうまくできている先生の授業が学ぶことの多い授業になると思う。今は方法論を学ぶことも大切だが、しっかり考えることや最低限の英語力をまずは身につけるように努力したい。


■ 今回の授業では田尻実践を見てみたが、あの素晴らしい実践の裏には、生徒が「英語を使う意義」を感じていることと、「日ごろからの信頼関係の積み重ね」の二つが大きな要因としてあると感じた。

まず、「英語を使う意義」について、生徒は「英語科の時間に英語を使うことでクラスメイトに何かしらのメッセージを伝えられる」という意識が生徒の中にあると感じた。つまり、英語を使うことを目的として、表面的に英語を話しているのではなく、何かしらのメッセージを伝える手段として英語を活用していると言える。そのためにも、日ごろからauthenticで、生徒に話したいと思わせるような言語活動を行っていると考える。このような活動を続ければ、生徒のうちには「しっかりとメッセージを伝えたい。」という話者としての意識や、「相手はメッセージを伝えようとするのだからしっかり受け止めないと。」という聞き手としての意識を身に着け、教室が徐々に心地よくコミュニケーションをとることのできる場所へとなっていくのだと考えた。

2つ目の「日ごろからの信頼関係の積み重ね」は、生徒間と、生徒と教師間の2つについてである。生徒間については、先述の通りで、しっかりとメッセージを聞き取ってくれる相手としての信頼感があるからこそコミュニケーションに積極的になれると考える。生徒と教師間の信頼関係については、まさに3人目の生徒とのやり取りが示す通りで、普段から生徒を観察し、また、生徒も「この先生になら心のうちを話せる」という信頼関係がなければ、あのような発表を強いることは大きなリスクを伴うはずである。

英語教育について学び、教育実習などの実践を通して「英語力」「コミュニケーション能力」といった「能力」を育てるためにどうすればいいかばかり考えてしまいがちだったが、それ以前に「人を育てる」ということがあるはずである。コミュニケーションツールである英語と「人間関係」や「信頼づくり」は切っても切り離せないものなのだから、そこに今一度意識を戻すことで自然と英語教育に適した雰囲気や環境は作れるのではないかと考えた。


■ 田尻先生の授業では「英語科」というものが英語を教えるだけの教科学習になっておらず、学級経営、学校経営のようなものの手段の一つとして英語を使っているという感じがして、この実践での一番の成果は生徒と生徒の心がつながったことであり、その生徒同士のコミュニケーションの媒介として英語が使われているというだけで、生徒からしたらとても自然な形で英語が身についているなと感じました。

聞き手からしたら英語のスピーチとなると日本語によるスピーチと比べてより一層聞き流してしまいそうなものだが、ここでは「伝えたい」「受け取りたい」という本当のコミュニケーションの姿がみられて聞き手の生徒からも意欲的に対話しようという姿勢が見られました。スピーチにおける「1対多」という物理的な形式を感じさせない「1対1×多」を感じられるような場面でした。

教科学習を超えたこの授業において一人一人の生徒を評価しようだなんてことは確実に不可能だなと感じました。

田尻先生の実践の真似が横行したということについて、例えば教育実習で1か月程度だけあるクラスに放り込まれた時に実習生が田尻先生の授業を模倣してもそれこそ単なる猿真似に終わってしまうと感じました。というのも映像で見たような場面に至るには先生と生徒、そして生徒と生徒間の深い人間関係を築くための長い期間とかかわりが必要だからです。あの実践の心臓は先生と生徒、生徒と生徒の開かれた人間関係にあると思います。ここからも教科学習を超えた実践であったということが言えると感じました。



■ 前回の授業ではハンナ・アーレントの複数性という考えを学んだ。我々は物事を評価する時にその価値をひとつの視点からのみ考えがちだが、アーレントは複数の、様々な視点を持つことが必要だと主張していた。これはまさしく教育の場においても言えることであると思う。前々回の授業とも被ってくるが、数直線的な見方しかできていないようでは、そもそも英語力の評価そのものがナンセンスなものになる。一見当たり前のように思えるが、それがしばしばまかり通ってしまうのが今日の英語教育の現状である。

僕が中学生の頃の英語のテストは教科書の本文を暗記するだけで点が取れた。それさえしていれば成績は5段階で5がついた。この数値だけを見れば、この生徒は英語が良くできる、とみなされるのだろうが、実際はそうはいかないのは明らかである。その時の5を取った生徒の中で流暢に英語を話せる生徒は何人いたか、他人の心を動かすようなスピーチができる生徒が何人いたか、と考えると、その数は限りなくゼロに近かったと思う。仮にいたとしても正当に評価されることなく、テスト至上主義に埋もれてしまっていただろう。生徒の英語力を測る物差し(視点)はテストの点数しかなかったのである。そして、そのテストの実態は、教科書の本文をただ暗記するだけである。

このような実例は全国探せばいくらでもあるだろう。テストの点や資格試験が、その人の英語力を評価する唯一の存在になってしまっている。そもそも評価する必要があるのか、という意見もあるがそれはとりあえず置いておいて、英語のレベルに関わらず誰もがそれぞれ個々に評価を受けるにはどうすれば良いのかを考えた。そうずれば貨幣化した点数や資格試験に縛られることなく、学習者が伸び伸びと英語を勉強できるからである。その答えに対するヒントのようなものを得たのが、田尻先生の授業からであった。

田尻先生の授業では、それぞれが自分の特性を活かし、心の底から自分の言いたいことを発表していた。英語のできる子はきれいな英語で話し、ユーモアの好きな子はそのユーモアを活かし、最後に登場した、一見朴訥な印象を受ける子からは、自分が本当に伝えたいことを話しているのが見て取れ、涙を流す生徒も出てくるほど彼のメッセージは心を揺さぶるものだった。なかなか実践例のない授業だろうが、生徒の技能評価に囚われない授業を目指し、自分自身も勉強しないといけないなと感じた授業だった。






■田尻先生の授業から僕らが勘違いしてはいけないことは、「田尻先生は生徒の心だけを大切にしていて、現代の英語教育で取り沙汰される正確な英語の運用能力を完全に無視している」わけではないということです。映像は1年間365日のうちのほんの一瞬でしかありません。その見えない時間に、先生がどんな指導をされているのかわかりません。ですが、少なくとも言えるのは、田尻先生と生徒の間には、確かな尊敬と信頼があるのだということです。

きっと教員になって最も悩むのはこれです。もちろ授業が当たり前のように上手くできるだなんて思っていませんが、その大変さの中には関係性づくりも含まれていて、これこそが大部分を占めるのだと思います。一人一人別々の感情を抱えた生徒を30人と、暴力以外の方法で関係を作っていくのは、想像もできないほど難しいことです。僕は塾講師をしていますが、塾にも多種多様な生徒たちが通ってきてくれます。そんな生徒たちと、学校のように30人を同時に相手にすることはありませんが、それでも一人一人と正面から仲良くなるのはいつも難しいです。しかしそれぞれの個性を考えてんか良くなっていくのは楽しいです。どうやったら笑うのか、何が嫌いなのか、考えた上で毎回接するようにしています。


■ 今回の講義では前半にハンナ・アレントの意味論について考え、後半に田尻先生の授業実践を観て考察をした。

前回は客観性、今回は意味論を考えていったのだが、まず最初に思ったのが前回の講義で学んだ多元的客観性というのが今回の意味論と似ているように思った。様々な観点からある対象を見て、多面的に考えていくことによって客観性を構築していくのが多元的客観性であるのに対し、今回の意味論では、複数性を前提として、複数の視点・観点から出てくる意味を擦り合わせていく、という点が類似しているように感じた。両者共から、「複数性/複数の視点から物事を考える」というキーワードが伺えた。publicという一つの単語からその複数性が伺えたように、ある単語一つ一つや、ある方法や意味を一つに決めつけてしまうことは恐ろしいことで、現実性、意味を見出すために複数性が必ず介在しなければならないことを学んだ。

では実際の英語教育でその「意味」というところを子どもたちは考えることができているだろうか。教師は考えさせることができているだろうか、と考えてみると、成る程イエスとは答えられないであろう。子どもたちは「意味」を考えることもなくI’m fine thank you and you.という決まり文句を言い、普段の会話では考えられないつながりの教科書の英文に気づくことなく音読をしている。何を問われても皆と同じような答えをしなければならないと感じ、それができないために英語に不快感を感じてしまう、苦手意識を感じてしまう、と思ってしまう子どもたちも多いのではなかろうか。英語教育はもっと生徒一人ひとりの複数性を重んじ、一つの型にすべての生徒を当てはめようとすることをやめなければならない。「複数性を認めてあげる環境づくり」を教育者はしていかなければ、「個性」「社会性」を育てることはできないのではないかと思う。現実的に複数性を重んじることは、非常に大変なことだというのは想像できるが、それをやってのけたのが田尻先生であった。

田尻先生のスピーチ活動の動画を観たが、スピーチをする生徒一人ひとりの個性が垣間見れた授業であった。クラスの雰囲気は非常によく、クラスの生徒それぞれが他の生徒のことを理解しているようにも感じた。ではなぜそのような複数性がいい方向に作用するクラスになったのかと考えたところ、田尻先生は「複数性を重んじる環境づくり」という課題をその人と為りをもって解決していったのではないかと私は考える。生徒一人ひとりをしっかり観察し、たくさんコミュニケーションを取り、生徒のために汗水たらして働くことを惜しまない。そういった先生の人と為り、人間性が生徒の心・信頼を掴んだのではないかと思った。田尻先生の授業は生徒発信で、生徒さんたちは英語を学んでいるのというよりも、英語で色んなことを学んでいる姿が見受けられた。

実際の英語教育ではこの視点がずれているのではないかと思う。この文法を教えたいから、この語句を使わせたいからその方向に仕向ける。そのような教えたい知識からの始動ではこのように自分らしさ表現したり、興味を持ったりすることも難しいのではなかろうか。進んで学ぼうとする時というのは、何かを伝えたいけど伝えられない、こんなことを表現したいなどと思った時に初めて出てくるものではないかと思う。田尻先生のように、生徒の人間らしさ、人間的な成長を促す一手段として英語教育を捉えていくことが、これからの英語教育にとって重要ではないかと考える。

これだけ現在の英語教育について批判していながらも、自分が田尻先生のような、生徒の個性を育てながら英語の能力も付けさせることができるかと問われたら99%できないとは思うのだけれど、田尻先生のような効率の良い英語の教授法のモデルを知れたことは、今後の自分にとって明らかにプラスになったと確信している。


■ わずか中学3年生にして,ましてや使い慣れていない第二言語の英語で,あれだけのスピーチができることに驚きを隠せません。A君が,涙をこらえてスピーチをしていましたが,口から出ているのは英語で,でも,心でその英語を噛みしめて,その意味を感じているのだと,まさにこころとからだで英語を使用していました。生徒の伝えたい,という気持ちを引き出すような内容を選ばせる先生もすごいですが,別に伝えたくない内容だったらスピーチをする意味がありません。Speakerと聴衆の,目に見えるコミュニケーション(聴衆のリアクション)であったり,見えないコミュニケーション(聴衆のこころに何か影響を与えること)であったりがあるからこそのスピーチだと実感しました。

田尻先生の実践をまとめた,『生徒の心に火をつける』という本を以前購入し,読んだことがあります。今日の授業で扱ったスピーチ実践についてもたしかこの本に書かれていたなと思い出し,本棚から取り出してみました。印象的だった部分を引用させていただきます。


「スピーチの評価に関しては,内容,態度,発音,声の大きさなどでは評価しない。それは練習段階で教師が指導するものであり,教師と生徒,あるいは生徒同士が苦労し,協力して準備したものであるので,減点法で評価することは私も生徒も好まないからである。また,リハーサルの段階で,英文をすらすら言えるだけでなく,意味を分かったうえで聴衆に語りかける口調でできなければさらに練習を課すので,本番を迎えたときはかなりのレベルに達している。したがって,本番を迎えた時点で満点を与えるようにしている。」


もし,評価論の授業で今日見た3人の生徒の評価をしてくださいと言われたら,1番目の女子生徒は英語も端正で,聴衆にアイコンタクトもとっているし,非常に堂々としているからA評価,2番目の子は,英語を使っている時間よりも体を使ってパフォーマンスをしている時間のほうが長いからB評価かな,とかそういうふうに考えてしまいます。非常に恥ずかしくなりました。

本番で満点を与えるためには,練習段階ですでに満点の状態にしなければなりませんが,本によると,まず原稿をALTや先生に読んでもらって添削してもらい,それを発音してもらい,先生はそれをMDに録音して渡したそうです。生徒はそれを何度もシャドーイングしたのち,100回自分で音読,read and look upで暗記できたら放課後に先生にリハーサルを見てもらい,ここで及第点に到達すればあとは本番のみですが,改善点のある生徒にはさらに課題を出して,何度も何度もリハーサルに付き合います。先生もなかなか合格は与えません。先に合格した生徒は先生役に回って,なかなか合格できない生徒を一生懸命支えます。

これは生徒同士,先生と生徒のコミュニケーションであり,英語教育を使って生徒指導をしていると言えるでしょう。英語教師に必要な3要素として,常識・愛情・英語力がありましたが,この愛情の部分が,生徒の「伝えたい」を本気で支える,先生の献身的な姿勢に現れていました。












ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す

以下は管理人が担当している「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、ハンナ・アレントについて講義した際の学部生の書き込み(予習・振り返り)の一部です。

授業(180分)では、前半でアレントを扱い、後半でその枠組を使って田尻悟郎先生(現在は関西大学)の中学校での実践を見て討議したのですが、後者のトピックについては次の記事で扱うこととして、以下はアレントについて学生さんが考え書いたたことを掲載します。

学生さんはまだ学部生であるということもあり、自分の小中高時代の経験をよく覚えています。その記憶、感性を失わずに、学校教育を改革していってほしいと切に願っています。





*****予習*****


■ 英語科が何を教えるための科目かということについては、英語科学習指導要領に「コミュニケーション能力」とはっきり書いてあるものの、実習の時にはそれが分かってはいても”かりそめの言葉”になってしまっていたように思います。

確かに言語材料がないとコミュニケーションは面白くならないのだけれど、教師があまりにも近視になってしまうといかに言語材料を教えるかのみに終始してしまうという本末転倒になってしまうのです。


■ 英語教育では、ペアやグループ活動を推進しており、多くの教師が、生徒同士が関わりあう活動を取り入れつつある。この事実に私たちは英語教育の改善を見出してしまいそうだが、実際やっていることはただの意味のない、意味交渉のない会話ということになってないだろうか。

習った文法、表現を使うためだけに紡ぎだされる言葉が生徒のからだを通して生み出されたものではない。アレント的にいうなら、活動ではなくただの制作になってしまっていることが多いのではないかと学生の立場ながら考える。自己表現という言葉について、私たちはもっとよく考えなければならない。昨日やったことを言わせたり、ディベートで反論をさせたりして、「はい、自己表現できました」と簡単に考えてはいけない。自己表現というものは、自分自身のからだ、こころとの語り合いによって生じるものあり、自分が伝えたい、聞いてほしいといった思いとともに自然に思いうかぶものではないかと思う。

しかし、なかなか伝えたいというように思うことも少ないし、ましてや正しいか正しくないかだけで測られてしまう制作的空間においては、自分自身を相手にさらけ出すことは不安でもあると思う。そのような状況では、人間がもつ複数性というものが排除され、単一的な人間的ではないヒトが生み出されてしまいかねない。

この予習から教師としてすべきことはまず、前回もでてきたが、生徒のからだが反応してしまう、自然と話したい、伝えたいと思ってしまうような、課題設定を考えることである。生徒がこの感情をもたなければ本当の意味での自己表現は成立しないと思う。

次に、生徒が恐れずに自分をさらけだせるような環境づくりに徹することです。数値で測るようなことを続けていたら、正誤で判断されることを気にするあまり、無難な答え(内容)で済ませてしまう。生徒一人ひとりの複数性を認め、それぞれに良さを見出せるような環境をセッティングしていくことが必要だと考える。それだけでなく、予習記事にもありましたが、やはり英語を扱う能力というものも大切であるので、そこをないがしろにすることはよくないが、上記の2つを重要視していかなければならないなと思う。



*****振り返り*****


■ 私は今回アレントの意味論を学ぶ中で、アメリカの新大統領であるトランプ大統領のことが何回も頭によぎりました。アレントは、人間は一人ではなく、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間の中で生きている、ということを前提とし、人間についての学問、そして複数の人間がどういぇって共存してゆくかという政治は、あくまでも人間の複数性を前提とした上で考えなければならない、と言っています。この「人間の複数性」というのは、人数のことはもちろん、人種や宗教、個性など様々なことが当てはまると思います。

 しかし、トランプ大統領の発言を聞いていると、その複数性を無視するような言動がたくさん見受けられます。この前テレビでニュースを見ていると、リンカーン記念館の前でトランプ大統領の支持者と反トランプ派の人々が激しく言い争っている光景が映し出されていました。反トランプ派の人々は、女性や移民の人々、また黒人の方やイスラム教徒の方、そして同性愛者の方などいわゆるマイノリティの方が多い印象でした。

インタビューの中で、反トランプ派の人が「トランプ大統領は大統領に就任した翌日にホワイトハウスのHPのLGBT(性的少数者)コミュニティーの権利に関するカテゴリーを消していた」と言っていたのを聞き、アメリカがまたマイノリティに対して厳しい目を向ける国になってしまうかもしれない…と思い、ぞっとしました。Googleで検索してみると、その予想は現実のものとなりつつあるようでした。

トランプ大統領が当選してからというもの、イスラム教徒の女性を襲ってヒジャブと財布を盗むといった増悪な事件が頻発し、学校のトイレには黒人に対する差別用語が大きく書かれるなどの嫌がらせも増えていると言います。しかも、このような差別的な落書きの多くに、「#Trump」と添えられているようです。トランプ氏によって、人々の中に眠っていた差別心や自分と違う人間への恐怖といったマイナスの感情が呼び起こされ、トランプ大統領の名を借りることで、あたかも自分の行動はアメリカのためだと言わんばかりに暴走を正当化しているような印象を受けました。

 この状況は、日本で暮らしている我々からすると想像し難いことなので、今のアメリカの状況を日本に置き換えて、白人を我々日本人だとして考えてみました。

もし日本に様々な民族の人々が入ってきて、私たち日本人の職を奪い、日本語という言葉の存続も危うくなってきたら、少なくとも良い気持ちはしないでしょう。そこで、日本人が一番すごいのだ!日本人のための素晴らしい日本を作ろう!と言われたら、権力にすがって我々は日本人至上主義を唱え始まるかもしれません。

つまり、自分の身を守るため、恐怖から逃れるため、権力や暴力といった力で敵を封じ込めようとする人間の弱さが、一気に溢れ出るのです。双方いろんな理由はあるにしても、暴力や差別行為はいかなるときも正義にはなりえません。

 これまでの授業でも、権力が他者に与える影響の大きさを学びましたが、トランプ大統領は、自分の発言がどれだけ自国民に影響を与えているのかをもっと考え、アレントの言うように「現実はたくさんの観点や視点が存在して成り立つ」ということをもっと重要視すべきだと思います。

また、アレントは「人間が人間として人間らしく生きることに関しては、真理や客観性よりも、意味や現実を重視すべき」と言っていますが、これはアジア人、白人、黒人、といった客観的事実よりも、その人がどのような考え方や個性を持っているのかという現実をみることの大切さにも繋がっていると思います。人種などといった枠組みでしか人間を見なくなると、ドイツ人がユダヤ人に行ったホロコーストのような非人道的行いが生まれます。授業の中で、“We are different, but equal”という言葉がありましたが、ここで言う平等とは、人間の複数性を認め、一人の人間としてお互いを尊重し合うということではないかと思いました。


■ アレントの基本的な考え方である「複数性」というものについてですが、「互いに通分できないかもしれない観点と視点があるからこそ、この世には完璧な秩序は到来せずいつもゴダゴダが絶えません。しかし、だからこそ私たちは暴走せずにすんでいるのではないでしょうか。」というスライドの文章が印象的でした。

人間はみんな等質(same)ではなくdifferentなのであって、何か1つの「真理」を決めてしまうとその真理が絶対になってしまい、その真理とsameであることが理想の状態と捉えられ、それとは異なるものは悪や劣るものとして認識されてしまいます。するとアレントが経験したような戦争、ドイツ軍によるホロコーストのような悲劇が起こってしまうのだと思うと1つの物差しだけですべてを決めてしまう、「複数性」が排除されてしまうことはとても怖いことだと思いました。


■ 真理や客観性ではなく意味や現実が人間らしく生きるためには大切であるということを理解することができました。例えば、教育というのは間違えなく人間らしくあるべきものだと思います。生徒は学校生活を送る中で、異なった視点を持った人たちと語り合いを繰り返し、つまり現実の世界で生き、語ったり読んだりすることでなんとなく言葉にならない意味を見つけ出すことができます。

このように生徒側は人間らしく学校生活を送っているにも関わらず、今の教育では学力はもちろん生活態度までをも数直線上で「客観的」に評価してしまっています。そういう制度だから仕方がないと言われればそれまでだとは思いますが、多面的な視点を身につけている生徒を、凝り固まった視点から観察のみならず評価もしてしまっているのはなんだか皮肉な話だなと思いました。


■ 複数性に関して,ペアでも話したことが2点ありました。1点目は,いくら多くの人間が集団として存在したとしても,それぞれが個性を持つこともせず,自己表現をすることもしなかったら,語り合いはあり得ません。権力の強いものがあるとき,多くの人間は二次観察をすることなしに意味を定義づけてしまいます。新たな意味を明らかにしようとしない,というかできない状況に陥ります。意味の対象物の権力が強すぎる故,それに異議を唱える者はごく少数だと感じました。全国統一テストも,何らかの権力が裏にあるのかなとも思えてきました。

 2つ目は,小学校の国語の授業の話です。よく,詩を扱う授業がありましたが,私は一種のトラウマ的な経験があります。詩の内容は覚えていませんが,先生が,「この文はどんな意味かな?」と聞かれ,自分なりの考えを発表すると,先生の欲しい答えとは違ったのか,「うーん,それもあるかもしれないけど…他にはどうかな?」と言われました。そのときは単純に自分が間違った答えを言ってしまったんだと思いました。

また別の日の国語の授業でも,詩を扱って,「この文の意味は何だろう?」と先生が質問します。以前同じシチュエーションで間違えた経験があったので手を挙げなかったのですが,クラス誰も手を挙げておらず,先生は「間違えてもいいよーはい,だれか。」と加えます。私は手を挙げて意見を発表したのですがこれまた「先生の」答えとは違ったのか,困らせてしまったのです。その後,国語のテストで,授業で扱った詩の解釈の問題が出されます。次の選択肢のうちどれがこの文の意味として正しいでしょうか,といったものです。

今考えてみると,詩というものは特に,読む人によって意味が変わるもので,解釈は十人十色です。それが詩の醍醐味でもあるのに,答えを決めつけて,選択肢のテストをして…。学校は,人間が様々な個性を持っているということ,そしてその人間によって明らかにされる意味も同じく多種多様であるということを学べる場であってほしいと思いました。


■ 授業の前半ではハンナ・アレントの意味論についてのお話でした。人間が人間であるための条件は複数の人間の中に生きているということであり、人間が複数で存在するということは人間が語り合う公共的空間があることを必要とするというのがアレントの主張でした。

ここで私が思い出したのは、小学生の時のクラスです。小学校4年生くらいまでだったでしょうか、どの教科の授業でも、クラスのほとんどの児童は答えが分かったら先生に当ててもらおうと「はーい!」と大きな声で右手を挙げます。「はい!はい!はい!」と何度も叫んで主張する人もいました。そこに、間違えたらどうしようという不安や恐れはありません。しかし中学生になり、高校、大学と進むにつれ、私たちは自ら挙手して発言することはほとんどなくなりました。なぜこのようになってしまったのでしょうか。

 複数の人々が集まって語り合うことの意義は、一つの物事が多数の観点と視点から観察され、それに基づき人々が語りあえることだとアレントはいいます。だからこそいざこざもありますが暴走はないというお話でした。小学生の時は複数の人間が集まる開けた公共的空間が、無意識のうちに作られていたのだと思います。個々が認められるから児童ひとりひとりが伸び伸び発言できる空間でした。そこで小さないさかいはあっても、誰か一人の意見が暴走したり一つの考えに縛られたりすることはありません。

今、そのような空間が失われてしまったのは学校教育に一つ原因があると考えます。知識偏重の学力が良しとされ頭の良い子が褒められる、先生も知識を問うばかり。今思い出すとおかしなことなのですが、高校での国語の授業中に「ここはテストに出る」と先生が言った箇所を暗記し、テストでそれをそのまま書くということを皆していました。しかもそれは、登場人物の心情を記述する問題なのに、です。授業ノートに自分の意見を記述していてもそれを赤線で消し、テストのために先生の答えを書き取ります。今思うともったいないことをしてしまいました。今とは違う、高校生の時の自分の感性を生かし、もっと自分で思考して表現する訓練をしておけばよかったと思います。

話がそれてしまったかもしれませんが、人間が複数で生きている限り、たった一つの視点でしか物事を見られないというのはあまりに人間らしくありません。授業中にペアになった友人が附属校の先生に言われた言葉を教えてくれました。「知識は問うな。アイデアを問え」というものです。英語教育でただ一つの「真理」を問うてしまうと個々の感性を潰してしまいます。答えが複数考えられるアイデアを問えば、教室が真の公共的空間になるのではないかと感じました。






■ ハンナアーレントによると「複数性」というのが人間を人間たらしめるひとつの条件であるとありました。したがって人間の生活する現実では、意味が複数の異なる人々によって語り合われて形成されていくことになります。つまり「これはこういうことである」といったような一元的な定義付けがされるわけではなく、開かれた世界において各人がそれぞれにことなった位置から見たり聞いたりされることになるのです。しかし客観主義にたって物事をとらえようとする現代では、ひとつの数直線を用いて一元的に観察することによって「客観的」であるとするので、現実に必要な多様性や複合性はやがて破綻してしまいます。

学校教育ももっと開かれたに場(真の意味での公教育)にする必要があるように思いますが現在はますます閉じられた空間になっているような気がします。教師も交えながら生徒たちが1つの物事について語り合うことによって考えを深め、彼らが人間らしさを失うことなく成長を促します。しかし実際はテストの存在が大きくなりすぎているせいで、生徒もそこに目を向けざるを得なくなっており、語り合いによって得られる複数性などに何の価値も見出せなくなってしまっています。

自分の学習を振りかえってみても、点数などをほとんど意識してなかった小学校の頃はもっと活き活きした学習ができていたのではないかなと思います。テストが頻繁に行われるようになった中学校時代からテキストと向き合って重要語句を追いかけるばかりの学習が始まってしまったのだと思います。


■ アレントの言う複数性というのは、教育に携わるのであれば知っていなければならないのだと感じました。現実世界は多くの人がいて、決して単一の簡単から解釈することはできないし、しようとしてはいけないのです。僕らが目の前に抱える生徒というのは、もちろん個体の数的ににも単一ではありませんが、その外見、性格、感じ方ですら同じではありません。それを一括りにして、唯一の方法論で全員を扱おうとしてはいけない。

また、意味というのは経験から構成されるというのは、本当にそうだと思います。経験していないことは意味として正しく理解できない。これは当たり前のようで、あまり意識していないことだと思います。また、経験していても、「その文脈のその意味」が分からなければ、理解できません。

これは英単語学習を例にするとわかりやすいと思います。単語帳に書いてある意味をそのまま覚えるだけでは、実際に英文に出てきたときにその英文を正しく理解することは難しいです。単語帳に書いてある訳語は、英文に何度も出てくるその単語を、その単語の意味と正しく照らし合わせて日本語に訳す際に、高い頻度で現れやすいというだけだからです。つまり、単語帳に書いてあるのは「意味」ではなく、高い頻度で現れる「訳語」ということです。


■ 人間が人間的であるためには複数性を前提とすることが必要です。人それぞれ違う観点、考え方を持っており、それを語り合うことで意味になるとアレントは主張しますが、僕も、個人が身体で物事を捉え、ある考えをもてばそれ自体で意味をなすというふうに考えます。それは自分自身との語りあい、つまり自分の身体、心との対話によって生まれるものだからです。そしてその個人でもった意味を他者との語り合いによってより高次的な意味へと作り上げていく。前の授業のことで考えるならば、多元的客観性に似たようなものです。これこそが、人間的な営みであると考えました。

そして、こう考えると、これを行うには様々な条件が必要であると思います。まず、自分自身と対話するための、みずみずしい身体、何かに反応して身体や心がざわめくといった感性が必要です。そしてその沸き起こった情動を頭の中で整理したり、ことばで表現したりするなどの知性、言語力が必要となってきます。その後、他者と語り合うための、社会性や言語力、思考力なども重要です。一言で社会性と表現しましたが、人と良好な関係を築く力や、他者の存在、意見を認める力(環境)などがあります。

考えてみると、この意味や現実を追求する人間的な営みとは普段我々が常にしていることであり、基本です。ただ、例えばみずみずしい感性が欠けていると、自ら意味を作り出すという経験が少なく、それゆえ他者と語り合うことも少なくなります。社会性がない人であったら他者と本心で語り合うことすら許されないかもしれません。それゆえ、これらすべてが関わっている活動であるとさえも考えました。

教育の場に話を移すとすれば、複数性、他者が異なる観点、考え方をもっており、それによって現実は構成されているのだという極めて当たり前かつ忘れがちな性質を前提としている教室で、教師は当たり前のようにテストでいい点をとれるようにという数直線的指標に従って授業を進めており、評価もあらかじめ決められた数直線的指標に従って遂行される。このような環境下では、個々の観点や感じ方はできるだけ排除され、意味がその指標に一元化されてしまう。さらに、それゆえ生徒は、「自分の個人的な意見や考えってどーせ受け入れられんし」と考え、無難な答え、いわゆる誰にとっても‘正解’を探し求めてしまい、個性がなくなり人間的ではない空間が生まれてしまう。このような状況になってしまってないかなと考えました。

田尻先生の実践にもあったように、それぞれの自由のやり方で自分の大切なものについて語っている姿はなかなか実現できるものではないでしょう。それには、教師と生徒、また生徒同士の信頼関係が存在し、それぞれが他者を受け入れるような環境があってこそです。

またこの実践を見て、ことば(非言語的も含む)の力ってすごいなと感じました。このことばは自らの身体や心から湧き出た言葉、表現のことを指すと思っていますが、これによって他者の身体になんらかの変化をもたらし、意味の語り合いが始まる。田尻先生の実践では、3人目のスピーチがそれぞれの人に意味を与えました。ある人には卒業が間近に迫った哀しさ、ある人にはこのクラスでよかったという安堵感という意味になり、涙、感動という形になって表れたのだと思います。

こういった経験は言語教育でしか果たせない宝だと思います。こういった経験を通して人間的成長を遂げ、それこそいろんな意味で味のある人間になっていくのではないかと感じました。


■ 後半の授業での、「良い英語教師に必要なものは常識・愛情・英語力」という柳瀬先生の言葉が個人的に強く印象に残りました。

私たちはプランニングや方法論などの授業で、授業構成や指導方法を学び、どうすれば生徒を引きつける授業ができるのか、どうすれば生徒の理解度を上げることができるのかといった点について考えてきました。しかし、これらの授業で学んだことはどこの学校でも通用するわけではなく、当然ながらそれぞれの学校の校風や学力などを考慮した上で、その場その場でベストな方法を選択しなければなりません。また、英語教育は絶えず変化し続けており、現在当たり前だとされていることが数年後には否定されている可能性も十分にあります。つまり、私たちは授業を通して授業構成や指導方法の数例のモデルを見たに過ぎず、見たものをそのまま応用することは不可能だということです。

そこで重要になるのが、常識・愛情・英語力を持っているかということです。いくら授業構成や指導方法に工夫を凝らそうが、生徒が「この先生についていこう」と思うにはこの3点が必要不可欠であり、1つでも欠けていれば、思わぬところで躓いてしまうかもしれません。逆に言えば、この3点が十分に備わっていれば、授業構成や指導方法に施した工夫が功を奏しやすいともいえます。愛情はともかく、常識や英語力は大学在学中に努力すればある程度身につくものなので、できる限りの努力はすべきだと思います。


■ 私は,普段何かのテーマについて話し合うとき,その課題をみんなで解決する手段を考えたり,何かに対する意味づけをしたりすることが多く,結論が出ないまま話し合いが終わると,自分の無力さを感じてしまったり,話し合いの効率を考えてしまったりすることがあったが,今日の講義を聞いて,「これだ!」という決定的な意味づけを行うことができないのは当然であり,そもそも語り合いの目的は,そこではなく「語り合うこと自体」に意味があるのだと知って,今まで自分が行ってきた話し合い(語り合い)はすべて有意義なものだったのではないかと感じられるようになった。

一元的に「これはこういうものだ。」と決めつけるのではなく,あらゆる可能性・観点・視点から物事を考え続ける,語り続けることこそがとても重要であると思うと,これからももっと様々なことに対して頭を悩ませながら,周囲の人々と語り続けていきたいと思う。


■ 心の動きが意味の創造に大きく関わっているのだとしたら、感動体験がなければ意味も何も感じることができなくなり、共有も難しくなってしまいます。子供が世界に豊かな意味を持てるように感動体験を与えるのも、教師の仕事なのかもしれないと思いました。


■ 真理や客観性よりも意味や現実を見ろと言うアレント。

「それってどういう意味?」

私たちはすぐに言葉を言葉で繕って、分かったつもりになろうとする癖がある。しかしアレントは、そもそも意味を定義できると考えることが間違いではないかと指摘した。じゃあ彼は”意味”についてその意味を定めないでどう捉えているのかといえば、”何って言っていいのか分からないもの”などと言うのだろうか。「意味」という単語は辞書に載っているけれども本当は、意味を定義することなく意味を明らかにして進む物語のように現れては消えていくもの。移りゆく心の動き。…と言いながら今こうして自分がアレントによる意味の意味を定義しようとしているのが何とも面白い。

だが確かに、現実世界は複雑で”何って言っていいのか分からないもの”があっていいし、むしろそういった曖昧さというのは大事にしていかなければならない感覚だと私は思う。そのよく分からない部分に「人間らしさ」がある気がするからだ。そして一人一人が、交わらない固有の立ち位置をもてばもう現実は数えきれないほどの視点や観点で溢れかえる。意味など定義されるわけもない。もし一つの観点しか許されないとしたら、それは一色の世界のようにつまらないものになるだろう。

授業中に発言したことでもあるが「平等」について、それが等質だから平等なのではないということが私の中では非常に印象的だった。学校教育における教師の支援に関して、大学のある授業でされた話を思い出した。たしかこのようなものだった。「背の高い子どもと、背の低い子どもがいる。背の低い子どもは黒板の上の方まで手が届かない。その二人の子どもが前で板書をしようとしているとき、背の低い子どもに踏み台を差し出すことは不平等な支援だろうか。」この話で、背の低い子どもに踏み台を貸すことが特別な支援であるとは思わない。当たり前で、自然なことである。この例が適切かどうかは分からないがとにかく、必要とされる支援をすることこそが教育においては平等であり、支援が等質であることが必ずしも平等でないということだ。平等に、踏み台は貸さないということが本当に平等か?という話である。


最後に田尻先生の実践には本当に、言葉を奪われたような感覚だった。自分が島根県出身ということもあり余計に興味津々。たったあれだけの時間でこんなにも感動してしまう動画があるだろうかというくらいの衝撃だった。あの後、何も知らない友達に対して感動を伝えたくて仕方がなくて必死に話をしたが、動画を見ていない上に私が説明下手なのでうまく伝えられなかった。…

何一つ具体的な感想が言えてないが、田尻先生の授業は英語科の枠組みの中にとどまらない、まさに「教育」だと思った。英語科を超えているようで超えているとは、たぶん言わない。超えていると思うのならばそれはきっと、私自身が英語教育を狭い範囲でしか捉えられていないから。英語教師である前に一人の教師であるということ。その上で、外国語だからできる教育と、外国語だけどできる教育をしていかなければならないという気がした。

2017/02/03

翻訳遊び:渡辺和子先生の著作に関する英詩を日本語翻訳


小野章先生と学部生有志による「翻訳あそび」の第五回目です。ちなみにGoogle先生は、定型的な文章の翻訳は得意なのかもしれませんが、このような文章はどうもまだ苦手なようですね(もっとも今後はどうなるかわかりませんが・・・)




*****




今回は,岡山出身のM君所有の『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子著(幻冬舎)に関連する詩の翻訳です(同書に詩そのものが掲載されているわけではない)。

著者の渡辺和子さんは岡山の大学の(元)学長先生であり,M君も岡山出身であることから同書に親近感を抱き,購入したようです。最初の2連のみ翻訳しました(タイトルの翻訳は省略)。なお,各翻訳者の思いというか,翻訳しながら考えたことを「翻訳者のコメント」として付けています。







Bloom Where You Are Planted



Bloom where you are planted,

Shine where you are sent,

Know that God has used you here,

Just the way He meant.



Love where you are living,

Serve where it's His will,

Know that God has plans for you,

Only He can fill.



Grow where you are going,

Weep when you're in pain,

Know that God restores your soul,

Makes you whole again.



Pray when you are breathing,

Laugh when you exhale,

Know that God is near you,

Never will he fail.



Cherish all the memories,

Make a brand new start,

Know that God has placed you

Forever in our hearts.











翻訳者Kのコメント: “Let it be” をイメージしながら。




どこへ遣られようとも,邁進し,己を磨き,

君がなぜそこにいるのかを考えると良い。

それが君のいる理由。



どこに居ようとも,楽しみ,務め,

君が何をすべきかを考えると良い。

それが君の進むべき道。







翻訳者N:牧師さんがお説教している感じで。




置かれた場所で咲きなさい。

今いる場所で輝きなさい。

あなたは主に必要とされているということを悟りなさい。

あなたの行く末は主の思うがままなのだから。



今いる場所を愛しなさい。

主の御心のために奉仕しなさい。

主があなたの行く末を決めるということを悟りなさい。

主だけがあなたの人生を充足させることができるのだから。







翻訳者T:花をイメージしながら。




そこであなたの花は咲き,

そこであなたは光を浴びる。

神はあなたの種をまく。

あとはあなたで咲きなさい。



あなたをとりまく優しい草花,

十人十色,多種多様。

神はあなたに水をやる。

思い通りに咲けますか?







翻訳者H:「神様のみぞ知る」というメッセージを込めて。




置かれた場所で咲きなさい。

あなたの居場所で咲きなさい。

君にはここが選ばれた,

つまり神の思し召し。



自分の居場所を愛しなさい。

神の意向に応えなさい。

君の魅力が活かされる,

場所を神は知っている。







翻訳者M23行目に一番こだわりつつ,神様が見てくれていることを訳全体に込めて。




置かれた場所で咲きなさい。

神様がお与えになった場所で光りなさい。

そこに置かれた意味に気づきなない。

神の御意向を。



今の環境を愛しなさい。

神の御意向に添い,そこに尽くしなさい。

神様はあなたを見守っています。

神のみがあなたの輝ける場所を用意できるのです。







翻訳者O:行末に出来るだけ韻を踏むように。




与えられた場所で咲き,

遣わされた場所で輝き,

使命がこの場所にあると知り,

やるべきことを全うしなさい。



まわりを愛し,

まわりに尽くし,

なすべきことをわきまえて,

天命に我が身を委ねなさい。







翻訳者Y日本語訳の聖書のように訳してみました。ただ、この英文は渡辺先生の日本語が基盤になっており、私はその日本語をきちんと読んでいないので、それが気になって訳しにかったです。また、英文は数カ所よくわからないところがありました。




どこに植えられようとも花を開かせる植物のように、

あなたも輝きなさい。遣わされた場所で。

神がお定めになったのです。ここに必要なのはあなたなのだと。

御心のままに。



愛しなさい。今住んでいる場所で。

仕えなさい。神の意のあるところで。

覚りなさい。神にはご計画があることを。

それは神のみが定めることを。







翻訳者Google君(自動翻訳):トニカク,サクサク,ヤクシタヨ!




あなたが植えされているブルーム,

あなたが迷信されている磨き,

知っていることを神あなたはここで用いられて,

ちょうど方法彼は意味。



あなたは生きているが大好きです,

それは彼のだれますが機能する,

神はあなたのために計画したことを知っている,

のみ彼を埋めることができ。





追記

渡辺和子先生に対しては、広島大学教育学部は第24回ペスタロッチ教育賞で敬意を表しています。天国の渡辺先生、先生の心はこの「翻訳あそび」でも新たな生命を得ています。