2017/01/30

ヨーク大学大学院MA in TESOLでの生活


ヨーク大学大学院修士課程に現在留学中のAさんから留学記を送ってもらいました。



関連記事: 
教英の大学院に在籍しながからの英国私費留学(修士課程2年生Aさん)
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2016/08/2a.html



元気に活躍しているAさんの表情が目に浮かぶようで、管理人としても嬉しい限りです。

留学に興味をお持ちの皆さん、ぜひご一読を!





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ヨークに来て4か月、第1タームの4000語エッセイ2本と期末試験を終え、先週から第2タームに入りました。今期も授業が中心ですが、現在の課題は修論のテーマ決めです。息をつく間もなく、幅広く文献にあたる日々が続いています。

MA in TESOLは150人程度が在籍し、今年は私含め3人を除きすべて中国人学生です。毎年多いと聞いてはいましたが予想以上でした。学部卒の学生が多く、現職の方は意外と少ないです。授業は多くを教育学、応用言語学専攻の学生と合同で受けます。それも何班かに分かれての講義やセミナーが中心のため、同じ専攻でもいまだに面識のない人もいます。上下のつながりはほとんどなくゼミも個別なので、教英の文化がよく懐かしくなります。




必修授業は言語学や研究法などです。院から院へ行っている身としては2~3度目の学習になる内容もありますが、噂通り予習復習に多くのリーディング課題があります。ただ、読むこと自体を改めて負担に感じることは少ないので、その点は広大の院で鍛えられたのだと思います。また、驚いたのが図書館の便利さです。年362日24時間開館、1人75点まで8週間貸出可、飲食可能な自学スペースが多くあり、ノートパソコンを4時間まで借りることもできます。期末の大変な時期を過ごすにつれ、環境が恵まれている理由が何となくわかってきました…。

休日は街中で散策や買い物をします。観光名所は何と言ってもヨークミンスターです。ヨーク大学の学生は、通常9ポンドのところを無料で入場できます。その他にも市の美術館、博物館、教会なども学生証一つで無料になるのは大きな魅力です。先日はエディンバラに行き、教英留学でお世話になった先生やホストファミリーのもとを訪れました。なかなか学生と再会できないらしく、私の訪問をとても喜んでくれました。私自身も当時はこのような形で再会できると思っていなかったので、成長した姿を見せることができて嬉しかったです。



困難を感じる点は、月並ではありますが、日本について伝えることです。寮や多くの授業では日本人が自分だけであり、正確な情報を伝える責任を感じます。聞かれる範囲も言語、歴史、風習、娯楽など非常に幅広く、答えたものの後で調べ直すことがよくあります。自分が日本にいない間も当然色々なことが起こるので、SNSを利用してニュースについていけるよう努めています。

現在のところホームシックは一度もなく、とても充実した毎日を送っています。教英ブログを通して、院生や後輩の皆さんの様子に刺激を受けています。これからも記事を楽しみにしています!







2017/01/27

翻訳あそび:井上陽水「少年時代」


小野章先生と学部生有志による翻訳あそびの第4回目です。今回も、管理人の拙訳を追加しました(今回はメロディを知っているので、そのメロディで歌えるような英訳を管理人としては目指しました)。

どうぞ皆さまも翻訳を通じて、英語と日本語の理解を深めてください。言語に対する深い理解が適切な言語使用を生み出す源となりますから。



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翻訳あそび4回目(2017年1月26日)です。

今回は井上陽水の「少年時代」の冒頭部を英語に翻訳してみました。




夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれにさまよう
青空に残された 私の心は夏模様





翻訳の遊び場から見える青空(冬模様)




翻訳者K

A thistle is blooming alone.
Who are you waiting for?
I’m lonely too, but I’ll wait for you.



翻訳者T

The best summer has gone.
The wind is blowing flowers.
The wind is blowing anyone who is wishing for the summer.
The summer still remains in my heart.
The best summer I recall repeatedly.



翻訳者H

I can’t still forget you.
You’ve left me and I’m alone.
I’m still in memories with you.
My head knows it but my heart doesn’t.



翻訳書N

My summer flied,
Leaving me alone.
The lonely thistles were trembling
In the wind.
Who were you waiting for?
Under the blue sky,
My lonely heart missed my summer.



翻訳者O

Summer is gone
Thistle is wavering in the wind
Wandering in someone’s dream
Left in the blue sky
My heart is still hovering in summer



翻訳者M

Approaching autumn, thistles blooming
Wandering in recollections for a long time.
Without clouds in the blue sky, summer has been still in my mind.



翻訳者Y

The end of summer, felt in the wind
For whom, my mind, wandering around
Alone in the blue sky hovers my mind
Left in the summer gone, my lonely mind



2017/01/24

入試や評価についての学生さんの感想



学部3年生向けの授業「コミュニケーション能力と英語教育」で以下の記事を題材にして、コミュニケーション実践と客観性について討議しました。


■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


以下は、その感想の一部です。入試や評価については小手先の改善ではなく、根本的に考え直すことが必要だと管理人は思っています。 小さな疑問を声に出して、対話を重ねながら大胆に行動を変えることが重要ではないでしょうか。




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■ 授業中に日本の大学入試について少し考えるところがありました。大学入試はAO入試や推薦入試を除くと、センター試験と二次試験の2つん試験を受けます。広大を例にすると受けたい学部によってセンターの科目を選び、その学部に指定されたいくつか科目の試験を受けるわけです。

さて、ここで見られる多元性といえば、センターでどの科目を選択するか、学部によって課される科目は何か、くらいです。学部をまたがっても科目の試験の問題の内容は同じですし、得点配分が少し変わるぐらいです。どうして学部によって試験の内容を変えたり、せめて問題だけでも変えたりしないのかなといつも思っていました。なんなら筆記試験以外の試験のあり方もあっていいかなと思います。

僕がフィンランドに行っている時、大学入試について話を聞く機会がありました。もちろん受ける大学や学部によって違うのですが、その試験の内容が大きく異なります。ある科目では試験の数日前に本が指定され、試験ではその本についてまとめたり、自分の意見を書いたりします。その後面接試験に進むことができれば、教育学部なら直接現役の教師と面接試験を行い、自分がこれまで教育に関してどのようなことを行ってきたか・考えてきたか、大学入学後にどのようなことをしたいか、などを聞かれます。

客観性という点では保障されているかどうかはわかりませんが、多元性の面では習える部分もあると思います。試験をする以上完璧なものなどないのかもしれませんが、数値に傾斜しすぎた試験にこだわりつづけるよりはもっと大学がほしい生徒を見極められるような、そしてなにより生徒がここにいきたいと頑張れるような試験のあり方を見直していくべきだと思います。




■ テストの貨幣化についてですが、あるショッピングモールで買い物をしていた時のことですが,なにやら特設ブースがあり,そこに多くの人が並んでいました。英会話の○○が,「特別割引」とか「初月無料」とかいう宣伝文句を掲げて,今なら授業料がとても安いというキャンペーンをしていました。TOEICのL&Rのテスト対策コースが特に入会の大チャンスらしく,人を集めていたのですが,値段を見てびっくり,なんと週1回50分のクラスで,いまなら14000円!!!というのを大々的に旗にプリントしていたのです。

私も含めて,教英生であれば,この値段を高すぎると感じるのは当然のことでしょうが,業者はこの値段を安い!!という風に宣伝しているし,実際に多くの人が入会しようとしているようでした。これほどまでにテストは貨幣化しているし,テストの結果が一つの大きなステータスとなっているんだと感じました。

また,某国立大学では,TOEICの点数に応じて学生に給付型の奨学金を給付しています。TOEIC650-750で5千円,751-900で2万円,901-で5万円というものです。おそらく,学生の英語力が上がると,国から予算が下りる,とか大人の事情があるのでしょうが,初めてこの制度を知ったときは,非常に驚きました。

このようなことを考えていると,私たちのように一つ一つ再考して,深い思考をとっている人はほとんどいないのだろうなという感じがしました。大勢が,何の疑問も抱くことなく,時代(裏の権力者と言ってもいいのでしょうか)の流れに合わせています。


■ お話の中で、TOEICやTOFELなどの換算表についても触れられました。私自身、この換算表についてはおかしいと思ったことがあります。

私はIELTSを受験し、そのスコアを使うことがあったので、TOEFLやTOEIC、英検に換算するとどれくらいである、というのを見ていましたが、私がTOEICで取った点数からIELTSを見てみると、かなり高いスコアが取れることになっています。逆に私が取ったIELTSのスコアだと、換算されたTOEICの点数は当時受験したTOEICの点数よりも150点近く低いものでした。

IELTSは四技能、TOEICは二技能を測るテストと違った種類のものにも関わらず、換算表にしてしまうことに私は抵抗があります。(もちろん、「それぞれのテストは方式が違うために、本来、同一に比較することはできません。あくまでも目安としてお使いください。」という注意書きはありますが。)

また、四技能を測ったテストにおいてトータルのスコアを出すことにも少し違和感を感じました。こういった試験ではトータルのスコアが出て、そのスコアを資格として用いることが多くあります。先生が授業中おっしゃったように、TOEICだとリスニングとリーディングを一緒にして点数を言ってしまうことで、曖昧さが生まれてきます。極端にリスニングの点数が良い人もいれば、両方同じくらいの点数の人だっているはずです。

四技能を測るテストだとさらにその境界線がぼやけてきてしまいます。四技能のうち、どの技能を重視するかは人によって、目的によって違います。トータルのスコアを出すことで、その人の大体の、本当にぼんやりとした能力は見えるかもしれませんが、はっきりとした能力は見えないでしょう(そもそも英語能力はこういった試験で本当にはっきりと見えるはずのないものでしょうが。) そういったぼんやりとしたスコアで入試や就職、昇格が決まってしまうと思うと、少し怖くなりました。



■ 二年ほど前に母校を訪れた時に、広島大学の教育学部に行きたいという後輩がいたので、「広大について何か聞きたいことはある?私も教育学部だから、学べることとか教えられるよ!」とワクワクしながら尋ねたのですが、その子の口からは「先輩が高校二年生の時の模試の偏差値はどれくらいでしたか?」という質問しか出ませんでした。

確かに、自分が今どのくらいのレベルにいるのかを知り、その現状に合わせて勉強をしていくということは、受験という戦争の中で生き残るために必要な手段かもしれません。しかし、それはあくまで手段であって、偏差値は全てではありません。大学を偏差値という数値的価値だけで判断するのではなく、その大学では自分の興味のある分野について十分学ぶことができる、など個々にとっての価値で判断している受験生が、果たしてどれだけいるでしょうか。


■ 授業前半は客観性についてでした。数直線的客観性は貨幣経済の視点からすれば当たり前のことであるがそれをそのまま人間や教育に当てはめることはおそろしいと感じました。英語教育を数直線的客観性で測るならばTOEICや英検などの資格を基準として測られると思います。しかしTOEICの点数だけで測れない能力があることやTOEICの点数も正確ではないことがあります。

先日私もTOEICの点数に幅が出るということを身を持って知りました。大学で受けたIPテストとその1週間後に受けた公式テストで約100点の差がありました。(高かった方の点数が自分の本当の実力だと言い張りたいですが、低い方の点数が自分の実力だと思い勉強したいと思います。)センター試験の方が受けるたびに点数が違うことは少ないかもしれませんがやはりひとつのものさしだけで判断することの不平等さを改めて感じました。やはり一元的客観性で考えることのほうが簡単なのでその方向性がなかなか変わらないのだろうと思います。


■ 私がこの講義を受ける中で最も違和感を覚えたのは、生徒の学力を数値化してしまうこと自体ではなく、それが昨今の日本の教育が目指していることと矛盾するということです。

この頃の日本の教育のキーワードは、思考・判断・表現、PISA型学力、コミュニケーション力などで、単に学力を数値化することをまさに止めようとしているのです。例えばセンター試験の廃止がそうです。廃止の理由の一つは、センター試験のために受験勉強というある意味特殊な学習に特化してしまい、思考力や表現力が養われないからというものです。また、生徒にアクティブラーニングをさせようと試行錯誤している先生も多いと思います。

しかし、英検準1級を持っている生徒はセンター英語200点とする案があることを聞いて本当に驚きました。高校と大学の接続を考えた入試改革をするには大学側の努力も必要だと思いますが、これではセンター試験勉強をする高校生が英検対策をし始めるくらいで、結局重要なところは何も変わりません。




■ 授業中に出ていた、中学校の英語の授業後に生徒に振り返りの時間を持たせるときに数字でつけさせる例が多いというお話について自分なりに思うところがありました。自分自身について振り返る習慣自体をつけさせる初期段階では、数字というスケールを与えることは必ずしも間違った方法ではないと思いますが、その後のメタ認知を高めるための他の手立てがないならば生徒たちは数字以外で自分を評価する術をもつようにならないと思いました。

教師が客観性についてどんな理解のしかたをしているのか、またその上で自己を客観的に見る目を養おうと思ったらどんな方法を取るのか。この授業を受講していて常に感じるのは教師の視野が狭い、または世界に対する理解が浅いと生徒の感性や能力が育つチャンスを根こそぎ奪ってしまうことにもなりかねないということです。客観性と言う概念ひとつとっても、言えることです。教師を目指す上で一生世界を広げ続ける努力をしようと思えていること自体にも大きな意味があるのではないかと思っています。



■ 「生徒の英語力が落ちた」とある人が言い,「どの局面からそれを言っているの?,いやそれはこの局面から考えたらおかしくない?」と誰かが二次観察をして,それに対してまた別の誰かが二次観察をすることで,どんどん二次観察がつながっていき,永遠と議論が続くことで新たな視点がどんどん増える,これが語り合うことの醍醐味だと感じました。

語り合うことこそが,我々にとっての客観性ですが,実際の教育現場では,この語り合える雰囲気というものが必ずあるとは言えないようです。ベテラン教師の言うことに違和感を抱いても,二次観察はできたとしても,それを伝えることができないということを聞いたことがあります。もし伝えることができても,なかなか認められないそうです。また,教員の多忙がやっと,頻繁にニュースに取り上げられたりするようになりましたが,多忙がゆえに二次観察をしようとしなかったり,できないのかなとも感じました。




2017/01/23

翻訳遊び (Falling in Love with Love)


今回も小野章先生から、「翻訳遊び」について寄稿してもらいました。例によって管理人も拙訳を追加しました。皆さんも翻訳をお楽しみください。




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今回(平成29119日)は,岩波文庫から出ている『アメリカ名詩選』(亀井俊介・川本皓嗣編)中の(歌)詩の翻訳です。なお,同詩選には次のような簡単な紹介が載っています。




「作曲リチャード・ロジャーズ,作詞ローレンツ・ハートという名コンビが1938年に作ったミュージカルの傑作,The Boys from Syracuseからの歌。のちジャズやポピュラーのスタンダード・ナンバーになった。」







Falling in Love with Love


Falling in love with love is falling for make-believe.

Falling in love with love is playing the fool.

Caring too much is such a juvenile fancy.

Learning to trust is just for children in school.

I fell in love with love one night

When the moon was full.

I was unwise, with eyes

Unable to see.

I fell in love with love,

With love everlasting.

But love fell out with me.













恋をした (翻訳者M)


恋に恋をする。それはもの思いにふけること。

恋に恋をする。それは愚かな行為だ。

依存なんて子どもじみたもの。

人の愛し方だって子どもですらわかるのに。

月が満ちた日

あやまちをおかした。

思慮に欠け恋に溺れた。

恋に恋をした。

一生終わることのない時間のはずだった。

残るのは虚しさだけだった。







恋をする (翻訳者T)


恋をする。だまし,だまされ,それでもふたり

恋をして。あなたとわたし“変”かもしれない。

気にかける。時にやりすぎ,こどものように。

疑わず。大人になればむずかしい。

ひときわきれいなあの夜に

わたしはあなたに恋をした。

どうしてあなたに,なぜわたし。

答えは2人もわからない。

恋をした。明日2人はふたりきり。

なぜあなた。そんな期待を裏切るの。







僕は名俳優 (翻訳者K)


愛しい人と恋をしても周りが羨ましがるだけ。

恋なんてものはいわば二人で作る舞台。

悩んで苦しみもがくような恋は,そうだったら良いなっていうみんなの夢。

信じることを覚えても,だまされて終わりさ。

光でいっぱいの夜,ぼくは自分すら完璧にあざむいた。

見えないふりをして,精一杯の演技をした。

どうやらぼくも本当の馬鹿だったみたいだ。







恋に恋して (翻訳者N)


恋に恋するとは,みかけにだまされること。

恋に恋するとは,道化を演じること。

恋人を気づかいすぎるのは,若者が抱く幻想のようなもの。

誰かを信じるようになるのは,それこそ無邪気な学童のすること。

それなのにあの晩,私はあなたに恋した。

満月のあの夜に。

目がどうかしていたのね。

よく見えなかったの,月が明るすぎて。

私はあなたに恋をした。

永遠に続く恋だと思ったのよ。

でも,あなたとは仲違いすることになってしまった。







愛と恋の考えの違い (翻訳者H)


恋に傾倒するなんてまるで幻想に夢中になるようなはかないもの。

恋に傾倒するなんてまるで道化を演じるようなむなしいもの。

恋にのまれ,見えなくなった恋に気をもむなんて,まるで子どもの絵空事。

人を信じるなんてこと子どもが学校で学ぶことだ。

満月の夜に私はその人を愛したんだ。

青二才な私には何もみえてなどいなかったけれど。

私はその人を愛していたんだ。

とわに続く愛に。

だけど愛は私から去っていったんだ。







恋に恋して (翻訳者O)


恋に恋するのは落ちるふりをするようなもの。

恋に恋するのは一人芝居を打つようなもの。

好きになり過ぎるのは単なる若気の思い込み。

信じようとするのは学童くらいなもの。

僕はある夜恋に恋した

それは満月の夜だった。

愚かにも,目を開いたまま僕には

何も見えていなかった。

僕は恋に恋した,

永遠の恋に。

でも恋の方が僕に愛想を尽かしてしまった。







愛を信じてみたかった (翻訳者Y



愛を信じてみたかった

愚かに信じてみたかった

少女みたいに恋をして

子どもみたいに甘えたかった

あの夜、愛を信じたの

だって満月だったのよ

でも何も見えていない

私は愚かな一人の女

私は愛を信じたかった

いつまでも続く愛

でもそんな愛なんて






             こんな感じで翻訳で遊んでいます

2017/01/20

教英イギリス留学プログラム説明会を行いました

本日、業者の方に来ていただき、教英イギリス留学プログラムに関する手続き等の説明会を行いました。



平成2年にスタートしたこのプログラムには、これまでおよそ600名の教英生が参加してきました。さまざまな留学プログラムの中でも、長年の実績があるプログラムだけにいろいろな知恵が集約されています。

今回は、エジンバラ大学に11名の学生(新2年生)が留学を行います。これから留学に向けて本格的に準備をしていくことになります。様々な体験をして、大きく成長して帰って来てくれることを期待しています。




2017/01/17

「コミュニケーション実践と『客観性』」についての学生さんの予習書き込み

コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、コミュニケーション実践と「客観性」という講義を本日これから180分の前半部分で行います。予習では以下の記事を読んでおくことを求めました。


■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


完全な親バカ状態ですが、予習段階で学生さんは既にいろいろなことを考えているようにも思えました。以下に、その一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。





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■ 「数直線的客観性」、これに私たちは支配されています。資本主義社会においてあらゆる商品はその質と関係なく「貨幣量」という指標で表される。また、教育の成果は数値で示される。確かに、数値化することで具体性が増したり目標が明確になったりすることもあります。

 最近、ある授業で他人の解答を採点する機会がありました。こちらが設定した採点基準に沿って相手の解答を数値化します。しかしその時に採点対象となるのは回答欄に書かれている文字のみであり、その人の思考プロセスなどは考慮されません

 アクティブラーニングの推進により、単なる一問一答形式の思考は以前ほど必要とされなくなると思います。そうではなく、以前取り上げた新井紀子さんの言葉を再び用いるなら「物事の意味を理解し、思考し、表現できる力」がより大切になってきます。その時に依然として数値化に拘っていては、点数を取ることが勉強のモチベーションであることはずっと変わらないだろうし、思考することの意義を理解できる生徒は生まれないと思います


■ 客観性によって私たちは物事の区別をより明確にしてきたのだと今回の予習を通して感じました。黒字/赤字もそうだしテストによる学力の測定も”できる””できない”を明確に区別するために採用されてきたのです。

あらゆる物事においてこの「客観性」が使われ、区別されているわけですが私たちはもっとこの事実に対して慎重になるべきであると思います。そもそも区別する必要があるのか?客観的だと思っているものは客観的なのか?客観性を保証するものは十分なのか?特に教育という分野において考えるとこのような一方向の直線上での客観的評価が権力を浮き彫りにし、本来権利を与えられているはずの学習者がその権力に抗えない状況を創り出しているように思われます


■ 今回の予習記事では主に「客観性とは何か」についてでした。現在の教育研究においては客観性や再現性が求められており,それに対する答えとして現在用いられているものは英語能力を測るテストのスコアを教育目標として設定したり,対照実験的に授業方法の良し悪しを測ろうとしています。以前の授業でも先生がおっしゃっていたことですが,教師・生徒・教室・その日の天気,気温など本当に様々な要素で構成されている教育というものを一元的な客観性でみようとすることに疑問を抱くのは私でも理解できます。教育だけでなく,そもそも,一次元的な客観性を用いることが妥当であるものは本当に少ないように思えるのです。

 私が興味を持っているコンピュータの性能の話をすると,コンピュータの性能というものはベンチマークソフトが充実しているので,簡単にCPUやグラフィック描画の性能を数値化して測ることができます。コンピュータなんて一次元的な物差しの塊みたいなものだと思われるかもしれませんが,実はCPUの性能ですら一次元的な物差しでは測れないものなのです。例えば動画編集をして,それを出力するときに必要な性能と,ゲームをするときに必要な性能というものは違っていて,それはベンチマークの数値だけではどちらがいいのか判断がつかないことがあります。グラフィック描画を担当するGPUというパーツにおいても,3DCGを制作するためのものとこれまたゲームをするためのものでは単純にベンチマークのスコアの差ではわかりません。

 私たちは物事を見る時に,安易に「これに換算して」という方法,つまり一次元的な尺度で物事を測りがちです。これは例えば英検準1級はTOEFL iBT換算でどのくらいのスコアになるのかということや,この敷地は東京ドーム換算で何個分であったりとか,ということです。ただ,コンピュータの性能での例の通り,本当に一次元的な物差しが妥当であるものは稀であり,無理矢理に数直線的な物差しに落とし込もうとすると色々と不都合が出てくるはずです。実際に,TOEICの900点がTOEFL iBTの101点ほどであるなんてことを言っているサイトを見ましたが,両方受験した自分からすれば違和感ありまくりです。


■ 予習記事には大きくは「客観性」と「再現性」について書かれてありました。私の中でよく理解できたところは数直線的客観性の例です。資本主義の中ですべての商品を貨幣量という一本の数直線上に配置している、そして黒字/赤字を二値的コードに分けているものを客観的指標として使用されているというものがありました。このシステムの仕組みの“客観性”に私自身少し騙されているということに気がつかされました。さらにそれが教育の世界でも絶対的な指標として使われようとしているということへの疑問を理解できました。

前回までの授業で各種資格試験では一部のものははかれても、あらゆる技能やコミュニケーション能力をはかることはできないということを痛感してきました。今回の予習の中の「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という記事でもよくわかりました。リーディングとリスニングは一つの正解しか認めないから、含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができない、そしてスピーキングとライティングは「よくある話」を適当に産出しているだけという言葉に悲しいけどそうなっているという事実があるなと感じました。

そして評価も誰がやっても同じ評価になるような標準化をしないといけないと思っていたので、確かにそれは自分たちの管理のための簡易化になってしまうかもしれないと感じました。なぜ評価するのかということの本質的な意味を一度問いただせたので良かったです。多元的客観性の必要性を強く感じました


■ 前半部分の記事では「客観性」や「再現性」を英語教育に絡めながら説明がありました。読んでいる中で、どんどん現在の英語教育の問題点が浮き彫りになり、今まで深く考えることのなかった学校での英語教育の仕組みというものがどのようなものであるかがはっきりと見えるようになってきました。何箇所か気になった部分をピックアップします。

 「テスト得点の貨幣化」という表現がとても印象的でした。この授業の中でもよく英語の技能を測る試験の話が出てきます。確かにその得点を貨幣化してしまって、それだけの貨幣(ある程度の点数)と引き換えに、単位であったり、点数であったり、受験校への合格であったり、留学の切符など、様々なものを私たちは得ることができます。確かにそういったテストの得点は「客観性」に基づいたものかもしれませんが、一元的客観性に分類されます。数値的な一元的客観性だけでは英語能力を客観的に見ることはできません。数字が全ての指標ではないことを十分に理解した上で多元的客観性を用いて英語教育は推し進めていくべきではないか思った一方で、コミュニケーションといった二度と同じ会話や場面などがあり得ないような流動的なものを一般化して測るには、やはり数値化されるような英語能力試験などが必要にもなってきて、英語教育の中でもある程度の権力は維持されてしまうのではないかと思いました

 「現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。」この文章の中の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない、というところがとてもわかりやすく、コミュニケーション能力を測ろうとしているテストの是非を論じる際にぼんやりしていた部分を明瞭にしてくれました。全く意味が無いわけではないと思う、という私の考えがこの文章を見て「こういうことだ!」と上手く自分の中でまとまりました。


■ この授業で何度も話がでてきているが、教育における評価も科学知におけるものに一元化されて、他の様々な複合的な要素を捨象してしまっている現状が問題視されている。評価・テストが一元化されるために、指導も一元化されるという負のbackwash effectが起き、自分の意識を介さない、可能性を無視した現実性しか生まない人材をつくりだしてしまう可能性がある。極論ではあるが、皆が同じことばを話す社会は、まるで全員がAIのようであるように感じる。

教育の研究やSLA研究においても、この視点というものは大切で、一部分だけを見つめて、科学によってこのように証明されました、皆さんご参考にどうぞ、というのは危険な発想であると感じた。特に教育の現場というのは、普通の学級であるならば、30人程度の生徒と教師がいる。それに加えて、人間関係やその時の身体状況など様々な要素が絡み合って、教室というものは成立している。この複合的要素を見落としては、全く現場に沿っていないものとなってしまう。将来日々学習し続けなければならない教師も、この複合的要素を頭に入れて、生徒との対話を続けていかなければならないなと感じた。


■ 客観性とは何か、再現性とは何か、意味とは何か…。次々に問いただされていく言葉たち。私はこの授業を受けるようになってからこの「そもそも」ということを自然と考える癖がついてしまったように思う。

生活の中では、私たちを視覚的にも聴覚的にも溢れんばかりのことばが取り巻いている。それは当たり前のことで、一つ一つのことばをいちいち気にしたりはしない。しかし、これは前回の授業の内容に関連するがそのような日常に溶け込んでしまっているものというのは自分の興味のないものであり、それ故無意識のうちにスルーしているのである。今までは情報として判断していなかったものが浮かび上がるようになったのは、自分のアンテナの及ぶ域が広がって反応しなかったものに反応するようになったからなのかもしれないなどという気がしている

教科に関係なく教育は、多元的客観性でもってそれを遂行するべきだという考えがあった。特に評価することについては、一元的に数値化することで満足してしまうことほど恐ろしいことはないように思われる。一体誰のために勉強しているのか?ということになる。もちろん、国のためでも学校のためでもなく自分自身のためである。この世界に身を置く唯一無二の「私」が学習するから意味があるのであり、それはここにいる「私」と「私」の目の前にある現実世界の関わりがあってはじめて成立する。それなのに今の四技能テストで点数をとることが目先の目標になってしまえば、そんな学びの価値などどこかへ行ってしまいそうだ。広島大学が掲げる「学問は、最高の遊びである。」という言葉は外からの評価ではなく、自分自身が感じる学ぶ喜びに価値を見出そうとしているように思えた。


■ 数直線的客観性は、資本主義社会における商品の価格で説明されていてわかりやすかったです。あらゆる商品の質ではなく、商品を価格という一つの数直線上に配置します。この価格という数値が資本主義社会の客観的指標として使用されています。しかしこれを教育で同じことをしても良いでしょうか。

現代の教育界では、テストの点数という指標で客観的に生徒たちの英語力などの力を評価しています。記事には、一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されているとありました。資本主義社会において、価格という指標に統一することはむしろ便利であると思います。しかし教育では点数という数値で測ってしまうべきではありません

この授業で、評価、テストの話がよく出てきます。例えば、面接において話した内容が事実でなくてもミスをせずに英語を話せば高得点を獲得できますが言語に多少のミスがありながらも本当に伝えたいことを伝えようと一生懸命話している生徒はどうでしょうか。教育における指標が点数、得点であるがために生徒たちはその得点を取るために学び、教師でさえも受験のための授業をします。このままでは本当に生徒たちが学ぶべきことを学べません。「得点」という客観的指標では英語力は測りきれていないと思います。


■ 高校の修学旅行で姉妹校の外国人生徒と交流しました。その時、英語の文法があっているか気にしてなかなか言葉をつなげることができない日本人生徒よりも、ジェスチャーや表情でどんどん相手に何かを訴えようとする日本人生徒のほうが、最後には外国人の生徒と仲良くなっていたように感じました。しかし、学校における英語教育ではできるだけ正しい文法を使って自分を表現するほうが与えられる評価が高いように思います。もしジェスチャーや表情で意思を伝えることが点数化できたらどうなるのでしょうか。点数化できないだけで、非言語のものにも重要な価値があります。

そもそも学校の教育という視点を離れると、本来の、何のために英語を学ぶのか、によって何を評価するかは変わってくると思います。世界中の人と友達になるために、外国語の論文が読めるようになるために、洋楽が上手に歌えるように。中学生の時、高校への進学は内申点が大きく関与してきました。しかし学校のレベルによって内申点は様々です。異なる人々が多様な環境でそれぞれ違う経験を積んできたのだから、誰が見ても同じ、いつでもどの状況でも同様の結果が得られる、ということは難しいと思います。人によって重要とするものやその基準は本来異なるものであるように思います。サークルのオーディションでは、数人の審査員がそれぞれの観点をもって審査を行う、という形式がとられたことがありました。わからないところがたくさんあるので授業で理解したいです。




野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り

コミュニケーション能力と英語教育」という学部3年生向けの授業で、野口三千三さんの身体論・言語論を講義したところ、(親バカなのかもしれませんが)学生さんたちなりによく理解してくれたのではないかと思います。


ここでは身体論(意識と非意識)、言語論(ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階)についての振り返りの一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。





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■ 前半の授業で野口三千三さんの「こころにとっては非意識こそが本来的であり、意識は必要に応じて非意識が出現させるものに過ぎない」という言葉を読んで、実際の生活の中で具体的にどのようなことがこれに当てはまるだろうかと考えてみました。

1つ思いついたのが、今住んでいるアパートのオートロックの鍵番号です。アパートのオートロックを解除する際、もう完璧に覚えているのでいちいち鍵番号を確認したり、唱えながら押したりはしません。ですが先日出先で鍵番号を思い出そうとした時、とっさに思い出すことができませんでした。そこで目を瞑り、頭の中でオートロックを解除する情景を思い浮かべ、右手を空中で動かしてみると、やっと数字を思い出すことができました。いつも鍵番号を打ち込む時は「非意識」で、それを出先でなんとか思い出そうとした時に「意識」を出現させたのだと思います



■ 今日の授業を振り返って,私は「意識的なもの」というのは人間の中身のほんの一部が表出したものに過ぎないということ・人間のほとんどが非意識によって支えられているということを知って正直驚いた。

しかし、スポーツに例えてみると、確かにそのことは明確に当てはまる。私は小中高と剣道を続けてきたが,剣道の技の中に「返し技」、いわゆるカウンター攻撃のようなものがあり,相手の繰り出してくる技に対して,それを利用してこちらが仕掛けていくのだが,それは意識すればするほど,相手の動きを見すぎてカウンターの態勢に入るのに数秒遅れてしまいうまくいかないことが多かった。逆に,返し技が成功した時は,いつも気づいたときにはもう終わっていた。授業スライドの中で「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という記述があったが,まさに意識的に正そうとするよりも,準備を整えることの方が重要だと今思えばとても実感できる


 このことは子どもの学習にも効果を発揮すると考えられる。子どもに意識させる指導も大切ではあるが,「気づけばできるようになっていた」という体験をさせるために、いかに授業の中で仕込みをしておくか,どのような学習の環境下に置くことで子どもたちが「好ましい適切な自動制御能力を発揮する準備」を整えることができるかを考えることは大切だと感じた。そのことは言語教育にも共通していて,言葉の吟味においては,子どもたちが「どうしてもこのニュアンスを言葉で表したい!」と思わせるような授業づくりや活動の設定が不可欠である。気づかぬうちに夢中になっていたことが学習につながるほど素晴らしいことはないと思った



■ 「意識で把握できることはほとんどわずかなことにしかすぎない」という言葉がとても印象的でした。私もどちらかといえば人は意識で動いていると思っていましたが、まずは無意識で動いていてそれを意識的にしていると脳が錯覚を起こしているというのには驚かされました。もともと意識で制御できるように人間の体はできておらず、だからこそ意識しすぎると逆にうまくいかないということが起こりうるのかと、大いに納得しました。

まさに、英会話がそうだと思います。何を話すか何を聞こうか準備して望んでも思ったように話すことはできないし、イレギュラーなことに対応できなくなってしまうという経験をしたことがあります。会話をしなくては!と意識しすぎるのではなくいかに自然体で“おしゃべり”を楽しめるか、というのが大切なのだと感じました。

これは授業づくりでも同じで、生徒がどうしても話したい内容があって相手に伝えたいと思えば、なんとかして身振り手振りも交えて相手に伝えようとするでしょう。そういったトピックを授業に取り入れることができればなあと改めて感じました。不自然なジェスチャーを叩き込むのではなく、生徒から自然に湧き出てくるジェスチャーを大切にしてあげたいです


■ 言語と非意識についてまとめると,母国語に関しては意識せずとも表現が口から出てきますが,外国語に関してはなかなかそうとはいきません。ただ,一度だけ自分でも驚くほど意識せずとも英語がスラスラと話せたことがありました。それは留学中に開催した日本文化を現地の人に紹介するイベントのでの出来事でした。いくつかの企業にスポンサーとして協賛してもらっていて,そのスポンサーの方がイベントへ来た時に自分が説明しなければいけませんでした。英語で日本文化を紹介しなければいけない,なかなか難易度が高いシチュエーションだったのですが,不思議と言葉に詰まることなくスラスラと説明することができ,相手もよく理解してくれていました


この時私は「意識の中でできることと,人間ができることとの間には乖離がある」ということを身をもって体感することができたように思います。その時私が意識していたことと言えば何を話そうか,どういった説明の仕方をすれば伝わるのかと言ったような内容に関するものばかりで,英語の表現に関しては一切考えていませんでした。普段英語を話している時とその場面とで何が違ったのかを考えると,責任感や話す内容が私にとって馴染み深いものであったことなど様々考えられますが,一番はやはり伝えたいという気持ちが極限まで高まっていたことだと思います。自分が一生懸命に考えたイベントをどうにかしてスポンサーに人にわかってもらいたい。この気持ちこそが言語を使用する時に最も大切な要素であることは重々理解していたつもりでしたが,言語を非意識のうちに使うためにも大事であると今回わかりました。


■ 前回の授業で学んだことのひとつに、無意識に体が反応することが、言語を生成する時にも起こっているというものがある。我々が日本語を話す時は言いたいことがすらすらと出てくるが、英語を話す時はそうはいかない、と、外国語を学ぶ人は思っている。しかし、私の経験を踏まえて自分が本当に伝えたいと思うことを話している時は英語であっても言葉は無意識に出ていることがある

この度学科の行事で英語を話す機会があったが、みんなにこれだけは分かってほしいと願うような内容は無意識に言葉が出てくる。もちろん、文法ミスは発音のミスはたくさんしている。しかし、自分が本当に言いたいことを言っている時、言葉につまってしまうことはなかった

それに対し、文法にこだわって話している時は全くすらすらと言葉が出てこない。例えば、明日の予定を言う時に、「未来のことだからwillか。いや結構近い未来やからbe going toかな。いや、明日ってことは近接未来やから現在進行形でもいいかも。あ、でも確定した未来の予定を表すには現在形でもいけるって最近習ったな。」などといちいち考えていては何も話せない。笑い話のように思えるが、同じようなことはあちこちの学校で教えられている。現に僕が予備校で受けていた授業はこういった形式で行われていた(予備校の目的が受験で勝たせることなので当然のことではあるが)。


■ 今回の授業では日常で特別意識しないような「当たり前」のことを、新たな角度から再認識することが出来た。「人は意識があって反応する」という考えが一般論であり、私もそれを信じていた者の1人であるが、実はそうではないらしい。

「心、からだ、ことば、声の全ては、からだの中身の変化である」、つまり非意識の変化が先で意識はその後に生じるということだ。確かに痒いと思う前に勝手に手が伸びていたり、熱いと認識する前にからだが動いていたりする経験から納得がいく。誰かに向かって何かを熱く語っている時、一体どこからことばが出てくるのか不思議に思ったこともあるが、これも同じ原理だと分かった。


 イギリスに留学中、何度かこの経験をした。各国出身の人と会話をしていると、授業内外問わず日本のことについて尋ねられることがあった。「日本ではどんな英語教育が行われているの?」「なぜ日本人は授業中消極的なの?」「日本語に興味があるから、漢字を教えてほしい」。日本ではなかなか質問されないような内容であったのと、ぜひ皆に日本のことを知ってほしいと思ったので、私はこれらの質問につたない英語で必死に答えた。語彙も表現も決して豊かとはいえない英語であったが、自然と英語が次から次へと出てきたし、その時ばかりは日本語ではなく英語で思考しているような感覚におそわれた。これはきっと意識して話そうとしたのではなく、日本のことをもっと知ってほしい、という私の中での動機が高ぶっていたからだと思う。

 近年、英語の授業においてディベートやディスカッションの導入が注目を浴びており、それの実践には様々な段階が必要である。私自身実習中、議論する時に役に立つ表現や論の展開の仕方をどうやって指導するかばかり気にして、それに頭を抱えていた。しかし、今日の授業を受けて、生徒たちに必要なのは議論のための知識ではなく、心から「話したい」「伝えたい」と思えるような動機なのではないかと思った。こちらの示した何かが生徒たちの中で変化を起こし、それが強い衝撃、動機にさえなれば、議論は勝手に生じ、進んでいくのだと思う


■ こころとからだについて学びを深めることができたと思います。人間は非意識が主体であり、意識を作り出している。からだの状態が悪い時に、何でもネガティブにとらえてしまいがちになるのはこの一種でしょうか。スポーツに関して、僕はサッカーをしていたのですが、この話には大いに共感がもてました。一対一をするときに相手をだますフェイントをかけることがあるのですが、実際試合中対峙したときに、相手にこうフェイントをしようなどは考えておらず、身体が勝手に動いて気づいたら相手を抜いていたり、取られていたりします。試合中はボールをもっているときはほぼ無意識で動いています。またゴール前で急にボールが転がってきたときは、身体が勝手に“反応”します。習い始めの初歩的な時は、軸足の位置やボールのどの位置を蹴るかなど、しっかりと意識するのですが、徐々にしなくなり、非意識でそのように動きます。いちいち意識していたらコンマ一秒を争う競技では時間がないです


目の前にボールが転がってきたときに体が反応するというのは、私たちが目指したい教育と同じなのではないでしょうか。生徒に何らかを提示し、それに生徒の意識ではなく、非意識、身体が反応し、感覚・情動が奮い起こされ、こう言いたいという意識となり、さらにはことばとなって表出する。今回でてきた言葉で言うと、それぞれの生徒にとって情報が溢れている課題を用意してあげることが教師にとって必要なことではないかなと思います。



■ 意識と非意識についての話では、言語使用や教育について考えさせられました。「非意識が自己の総体の主体であって、主体が意識を創りだし、それを使い利用する」と野口さんの言葉にありました。確かに、日常生活で常に何かを意識しなら行動をすることはありません。日本語を使うときも意識よりも先に言葉が出てきますし、日本語とまではいかなくても、英語でも意識することなく口から言葉が出てくることもあります。

そう考えると、PPPとTBLTが咬み合わないというのはとても納得がいきました。ある文法を提示し、練習させ、それができるように何か活動する、といった授業では常にその文法、形式を意識しながら会話をしてしまいます。意識することによってその形式が使えても、非意識の中でその形式が使うことができるようになるとは思えません。無意識のところから英語が出てくるようになるための方法をこれから取っていく必要があることを実感しました。

また、ジェスチャーについても同じようなことを思いました。自分が中・高のときにジェスチャーをしなさいと教えられていたことや、授業観察などでもジャスチャーを指導しているのを見たことを思い返して、意識してジェスチャーをすることの不自然さを今回の授業を聞いていて感じました。おそらくジェスチャーをするように求められたり、教えられたりするのは、英語を話すときに言葉に意識を置いているからだと思います。「言葉を使う」ことに意識してしまっていて、「言葉を伝える」ことができていないのではないでしょうか。私は授業中に隣の人と意見を交わすだけでも、身振り手振りで話していました。ジャスチャーが自然と使えるようになるためには、やはり言葉を非意識の中で使うことを求められるのだと思います。


■ 野口三千三さんは、敗戦体験や自身の障害から、人生が一瞬で変わる経験をし、絶対的な価値観、絶対的基準は存在しないのだと考えました。そして、すべての基準は、自分自身の中で作り、そのつど更新していくものだと考えました。「もの・こと」が静かに語ってくれることを貞くことが大切で、そうすることが生きることなのだともおっしゃっています。五感があることで、感覚とは外界の情報を受け入れるものと思われがちですが、自分の内側にも感覚があり、それが感覚の本質であります。未知のものも含む無数の感覚が有機的につながりながら感覚として内側で機能している、という記述が気になり、からだのことやからだとこころのつながりについて少し調べてみたところ、人体の不思議さに思い至りました。「細胞一つ一つに意識がある」という記述も見つけました。


 こころの主体は無意識であり、意識とは無意識が作り出した道具ということで、授業中にも楽器の演奏と意識の在り方についての発言がありました。私は打楽器を演奏しますが、その中でも特にドラムセットや鍵盤楽器といった複数の打点を移動する楽器を演奏する際は、やはり意識しなくても手が動くまで練習します。打点を移動する流れを腕に組み込むようなイメージですが、最初は最短距離を効率よく移動するように、あるいは楽器の音がきちんと鳴るような向きで次の音を叩けるようにマレット(楽器を叩くもの)の動きを意識しながらゆっくり繰り返します。そして、だんだん意識しなくても動かせるようになるようにします。この場合も意識は、非意識の状態で新たな動きをできるようになるために、その動きを習得するための道具として働いているといえるのだろうと解釈しています。また、私は演奏会本番での記憶がいつもほとんどありません。ただ、いつもできないところができた、あるいはミスをしてしまったところは、急に意識が出現して、その場面のことはきちんと覚えています。だから、記憶がないときは、非意識の中で演奏していたということだったのだろうと思いました。


 さらにもう一点、楽器を通しての経験から意識/非意識について言及したいと思います。最近吹奏楽界でも注目され始めた指導法及び練習法で、アレキサンダー・テクニークと呼ばれるものがあります。昨年5月に講習会に初めて行ってから、少しずつ関連記事を読み、自分の演奏やサークル活動の参考にさせて頂いていました。「『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。」という記述がありましたが、アレキサンダー・テクニークはこの点を非常に重視した指導法だと思います。そもそも、人間の体のつくりや、脳の働きを考慮に入れ、効率よく体を動かすことを目指す指導法であり、音を出す前の姿勢の作り方や、なにを考えて演奏に臨むべきか、ということを考えます。例えば、「◯◯するな」という伝え方は逆効果であること、合奏で失敗して謝るのはおかしいこと、自然なからだの在り方が最高のパフォーマンスに欠かせないことなどがあり、吹奏楽に限らず、英語教育でも応用できると感じたのを思い出しました。結局吹奏楽の側面を重視して見ていたことが多かったので、改めて英語教育でも使えるように見直したいと思います。


■ 今回の講義の中で一つの柱であった意識の観点から二点についてまとめていきたい。

 まず意識の観点から一点目として、「非意識が意識を創り出しそれを使い利用する」という考えについて意見をまとめたい。正直なところ予習の段階では野口さんが何を言いたいのか自分の頭に上手く落とし込めていなかったが、柳瀬先生の「好きな人って意識しなくてもあらゆる感覚で探し当てて目で追ってしまっているでしょう」という具体例を聞いて即座に「外界の情報を基盤として無意識が意識を作り出している」ということを理解することができた。好きだと言う意識よりも先に勝手に目で追っていたり、知らぬうちにその人のことを考えてしまったりというような非意識に起きた現象が原因で、それが〇〇さんのことが好きだという意識を創り出していると考えることは確かにできると納得した。


 二点目は前述の意識の話に伴い、「『人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ』ということであり、『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに問題の鍵が潜んでいる」という主張について、私はサッカーという競技を通じて思う節があった。

サッカーという競技は意識と無意識が何度も行き来する競技で、例えばプレーをしている時に左右どちらの足で、どこにトラップすればシュートが打てる、などと意識的に考えながらプレーする時もあれば、非意識のうちに体が動いてプレーしている時もある。私は小学1年生の時からサッカーをしているが、プレーの調子が良い時というのはなぜ調子がいいのか自分にもよく分からないうえに、特にあれやこれやと考えている感覚もない。気づいたら身体が意識よりも先に動いて、意識が現れた頃には既にシュートを放っていて、ゴールの中に吸い込まれていく光景だけが目の前に広がっている。このような現象が恐らく、無意識が意識を作り出す前に行動に現れ、それを最高・最善の意識として生み出しているということなのだと思った。

また、文章後半の「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という主張についてだが、この、状態を準備するというところをサッカー選手はとても大事にしているように感じた。自分を含めサッカー選手は「調子」というものにとても大きく左右される。だがそれを完璧にコントロールできる人はいない。しかしながら調子を良い状態に保ち続けるために、サッカー選手は食事に気を使い、何時に寝るか考え、体のケアをし、本当に効果があるとは思えないけれど気休めになるはずだとルーティーンをするのである。プロに近づけば近づく程、これを大切にしているように思うし、大切にしているからこそある程度高いクオリティでプレーし続けることができるのだと思う。従ってサッカー選手は、無意識のうちにこの最高・最善の意識を産出する状態の準備というものを行っていたのである。

 そこでこの状態の準備というものを英語教育に当てはめると、非意識的に英語が口からでるという環境(状態)を教師が整備する必要があるということにつながる。その状態の整備というものは具体的に、英語を使うことの楽しさを感じさせること、失敗を歓迎する空気感、リアリティを演出することなどに終着するのではなかろうか。試合の前日にダラダラと過ごしお酒を飲んだりしていたら翌日動きが悪くなるのと同じように、文法説明を聞かせられた後に、急に英語を喋れ、などと言われても何の準備(英語を非意識的に発するための準備)もできていないのだから良いパフォーマンスができないのはもっともなことである。




■ 原初段階を大切にするということ -- 本日の授業で最も印象に残り、考えを深めるきっかけとなったお話です。原初段階とは、言葉を選択する以前の、何か言いたいこと、伝えたいことが心の中でもぞもぞしている状態のことだと解釈しました。現在の教育では、この部分を評価することはあまりないように感じます。(そもそも評価する必要もないのかもしれませんが)

それでは原初段階にはなんの意義もないのかというと、そうではありません。適切な言葉は見つけられなくても、何か言いたい、伝えたい、言葉にしたいと生徒が感じた瞬間にこそ学びは始まるのだと思います。僕らがこれまで大学の授業で学んだのは、生徒が何か言いたい、伝えたいと感じるような状況設定の上で言語活動をするということでした。この意味を僕個人としては「なんとなく、生徒がやる気が出て身につきやすいんだろうな」と考えていましたが、そうではないことに今日気づきました。英語の授業で上記のような指導がされたのは、「何か言いたい、伝えたいと生徒が感じたときにこそ心と体は密接に絡まりながらはたらく」からだと解釈しました。


もちろん評価の観点には関心・意欲・態度が含まれていますから、伝えようとする姿勢、意思も一応評価の対象にはされていますが、それでもやはり「できるようになったこと」に重点がおかれているように感じます。数値化されるものだけを見ていては、教育は現状維持。現状維持ではこのままAIに仕事を奪われていくことになるでしょう。意思、つまり心の働きを必要としない事柄についてはAIが担うことができるのですから。英語教師だけではなく、教育に携わるものとして考えなくてはならないことは、1人の人間が多くの子どもたちの成長に関わっていく中で何をしてあげられるのかということだと思います。もう4年生になりますが、しっかりと考えていこうと思います。


■ほんとうにことばを大切にするためには,ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。(野口 2003, 225)


『ことばを大切にするということ』から,S君が,自分たちは日本語でも,ことば選び(動き選び)を上手くすることができないと言ってくれました。そして私も,自分の本当に言いたいことを表現できない場面があるなあということを考えました。

私は,モーツァルトのレクイエムがとても好きなので,レクイエムのオーケストラDVDを見たり,モーツァルトの人生を描いた映画(アマデウス)を何度も見たりするのですが,1曲終わるごとになんとも言えない感覚に陥ります。これは素晴らしいTED Talksや合唱も同じで,プレゼンが終わってから拍手が起こるまでに微妙な間があります。そういうものを見たり聞いたりしたときに私たちは,「ためいきがでる」とか,「なんとも言えない」,とかいうあまりはっきりしない表現をとるように思えます

その「なんとも言えない」感覚は,なかなか簡単に言語化できないし,言語化しようとすると,すべてが陳腐な表現に思えてしまうのです。そしてうまくことば選びをしたとしても,私の感じた,その感覚は聞き手にそのとおりには伝わりません。

野口さんが言っているのは,「やばい」とか「すげえ」とかそういう言葉を使うなということではなく,たとえ最終的に「やばい」としか言えなかったとしても,その時言語化したかった感情をああでもない,こうでもない,と慎重にことば選びをして,でもやっぱり「やばい」としか言えない,このようなプロセスが大切だと言っているのだと理解することができました。そして,慎重なことば選びを介しても,うまく表現できないとき,うまく表現できないからこそ,私たちは話し手の感情を直接経験したいと感じます。これが歌舞伎や能などの日本伝統芸能や,世界的に有名なオーケストラのコンサートが長い歴史の中で観客を絶やさない所以なのだろうと感じました。





 




2017/01/09

「わからない」という感性を大事にできる学校を作りたい


学部三年生の授業冒頭で、私塾「松葉舎」を立ち上げた江本伸悟先生のことばを伝えました。

人々が当たり前だろうと思い込んでいる事柄に対して「わからない」と思える完成が、科学にとって(あるいは人生にとって)重要ではないかといった趣旨の文章です。


「わからない」という感性の重要性 -- 江本伸悟先生と学部三年生のことば
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html



それなりに教師志望の学生さんの心に響いたようなので、その感想の一部をここに紹介します。

「わからない」という感性を大事にできる学校を作りたいと思います。





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■ 「分からない」とは、「能力がない」「理解が不十分」ということで、テストで悪い点がついて、行きたい大学に行けないかもしれないし、将来就ける仕事も限られてくるかもしれない ーー そんな「分からない」観をもっていた高校生のわたしは急き立てられるように、いつも何かを理解したふりをして日々過ごしていたように思います。大学に入ると、英語は、世界はわからないことだらけだということに気づき、焦りを感じることが多くなりました。わたしの「分からない」観はほとんど成長していなかったように思います。

”分からなさを養う余裕” ーー いつか腑に落ちるかもしれませんし、わかったふりをしない勇気と瑞々しい感性は誇っていいものなのだと思うと、もっと色んなことを学んでみたいと思えてきます。

私は塾で講師をしていますが、生徒さんたちとお話しする中で「どうせやってもわからんけぇ、勉強するのやだ!」という言葉をよく聞きます。ふとその言葉を思い出して、もしかしたら彼らも以前の私がもっていたような「分からない」観をもっているからだろうか、と思いました。

教師になりたい自分にとって、「分からない」をどのように捉えるのかということは生徒に大きく影響を与えるのかもしれないと思うと、”分からなさを養う余裕”という考え方に出会えたのは自身の財産になるでしょう。


■ たまたま先日見たTEDの動画が、このことに少し関連する内容を言っていた。自分は分かっていると思い込み過大に評価してしまうことほど怖いものはない。むしろ無知よりも恐ろしいと。この考え方は、本当に分かっていない状態とは分からないことに気づいていない状態であるとし、自分の無知に気づいている「分からなさ」を肯定する。

勉強についてよく「分からないところが分からない」という声をよく聞くが、どこが理解できていないかを分かっていればそれはもう理解に近いところにいて、さらなる学びができるということだ。

生徒からたくさん質問が出た時教師は自分の授業が分かりにくかったと肩を落とすよりもむしろ、生徒が分からないところが分かるほどに理解していてもっと学びを深めようとしていると取るのがよいのかもしれない。質問が出ることを歓迎できるような教師が望ましいような気がする。



■ 最初に「わからない」という感性の重要性について少しお話がありました。私はこれまで「わからない」ことはいけないことだと思っていました。考えても「わからない」だなんて幼稚な言い方をすれば「頭が悪い」と思われてしまうと考えていたからです。「わからない」までの過程が露呈することもあまり多くはありません。

「わからない」と言ってしまうと、深く考えてもわからなかった場合と、少しだけ考えて「無理だ!」と早々に諦めてしまってわからないと言ってしまう場合があると思います。私の文章を書く・考えをまとめる力がないからかもしれませんが、「わからない」と言ってしまうとどうしても後者で捉えられてしまうのではないかと怖がって「わからない」ことを表に出さないことが多くありました。しかし、そうすることで結局わかった気になっていたり、わからないままなかったことにしてしまっていたりしたことに気が付きました。

大学が「わからなさ」に向き合う場として最適な場所とありました。大学生になって「わからない」ことが恥ずかしいことではなくなってきたように思えます。「わからない」ことを大切にしつつ、それを何とかわかろうとする努力がさらに必要になってくると実感しています。


■ 今回の講義を振り返って,私は「わからなさに向き合う努力」が十分ではなかったと感じた。「リンゴが落ちる」という当たり前の現象に対して,ニュートンは「なぜ落ちるのだろう?」というわからなさに向き合ったため万有引力の発見につながったという例えを聞いたとき,私自身が「リンゴが落ちるのは当たり前だ」と思っている周囲の人々と同じだったと気づき,私がわかっているつもりのことにもっと目を向けていれば他にもたくさんの思いもしなかった発見があったと思うと,とてももったいない気がした。

また,今の私は「わからない」ことがあればすぐにインターネットや辞書を駆使して調べて解決しようとするが,これも「わからなさに耐える力」が不十分だからこそ,いろいろと試行錯誤したり考えを深めたりすることなく「これはこういうものだ」と決めつけてしまう悪い習慣だと感じた。

「わからないこと」を「わかること」にするためにいろいろと模索して解決しようとすることは良いが,決断を急がずにもっと深くじっくり考えて,本当に自分の納得いくような解答を見つけるために,もっと「わからなさに耐える力」を身につけていきたい。それと同様に,将来自分が受け持つ子どもたちにもその大切さを教えていけるような教師を目指したいと思った。


■ 「科学者の良心は”わからない”という感性の中にある。」額縁に入れてトイレにでも飾っていたいような言葉です。今回の振り返りはこの言葉について感じたことから始めようと思います。

まず、現代の人々がいかに「わからない」に寛容ではないかということです。問に対する答えに即時性を求めすぎているし、自分の中に「わからないもの」がある状況を異常なまでに嫌っています。スマホなどの電子機器の発達もその要因かもしれませんが、私たちは疑問に対する「間に合わせ」の答えをすぐに求めることができる社会にいます。何かわからないことがあればすぐに調べることができる。

ただ、ここでの調べるという作業は「わからなさと向き合う姿勢」とは言い難いです。なぜならもしその、「間に合わせ」の答えすら見つけることができなかったらどうでしょう?おそらく現代社会に生きる大半の人は「は?答えのってないわ。意味わからん。もうええわ」といってその問に関わることをやめてしまいますよね。

僕は、なにか問題が発生した時必ずしもその場で答えが出なければならない、とは思っていません。問題なのは、諦めて関係を絶ってしまうことです。「頭の隅に置いておけばいつかわかる日が来るかもしれない。」この考えが持てないことが問題なのです。

「頭のなかにおいておけば、」と言うのは本当で、ただそうしておくだけで答えがフッと湧いてくることがあります。不思議なことに全くそのことを考えていないときでも。先述した「わからなさと向き合う姿勢」と言うのは、なにも「目をカッと見開き、わからないことで頭をいっぱいにする」ということではありません。後に出てくるHolismではありませんが、本当に身の回りのことは全てつながっています。「当面は頭の隅に置いておいて、視野を広く、いろんなものを見てみよう。」この姿勢が肝要です。ただ置いておくだけなのですから、それくらいはできるくらいに寛容になりたいものです。


■ まず「分からない」を許容する力についてである。そもそも私は「分からない」のは、頭が悪いから、知能が低いからであり、「分からない」ものは勉強したくないと思っていた。

ではそれがなぜか。今までここを問い詰めたことはなかったが、講義を通じて考えてみると、「分からない」自分を自分自信が恥じてしまうこと、分からない状況に耐えられないこと、という「分からない」を許容できないことこそが勉強したくないと感じる原因であり、頭が悪いとか知能が低いとかいうことは原因ではない(多少は関係するだろうが)という先生の話はとても腑に落ちた。

それに伴い、「分からない」と感じて勉強を嫌になることと、「分からない」を解決して「分かった」という喜びを味わうことはたった一歩の階段を登れるか登れないかのことなのではないかなと思った。「分からない」ことへのプラスの捉え方、分からないを許容する力というものを植え付けさえすればその階段は登れて違う世界が見えるようになるのであろうなと思った。

ただ、肝心なのはその考え方、力を養うことは非常にタイトなことであり、それを身につけるように「分からないと思うのはいいことだ」と子どもたちを鼓舞し、子どもたちの「分からない」と思う感性を研ぎすませていくことが教育者の仕事なのではなかろうかと私は考える。


■ この授業の予習をしていると、分からないことが少なくありません。復習をしていても、また分からないことがでてきます。きちんと考えた結果として分からないのか、本質からさっぱり分かっていないのか、さえ分からない時もあります。しかしやはり、予習の段階で何が分からないか、どこで躓いたのかを理解しておくと、授業の中で得られるものが全然違います。''分かる''という感覚をいつもより大きく嬉しく感じることができますし、他の物事との繋がりが見えてくることもあります。''分からない''ということはそれだけその問題に向き合い思考していることなのだと思います。

そうはいっても、分からないことを分からないまま頭に留めておくのはなかなか気持ちが悪いものです。最近は新書や新聞をよく読むのですが、横文字や専門用語が多くなりがちで、分からないことを知らない言語で読んでいるような感覚になります。これを分からないなりに頭にしまえと言われても無理です。

そこで、本や新聞を読んで分からないことや、日常生活でふと頭に浮かんだことをメモするようにしてみました。私は忘れっぽいので、江本先生がおっしゃった「数年後くらいにふと、そういうことだったのかと腑に落ちたりする」ということが起きる前に忘れてしまうからです(笑)。

これは単に記憶しておくためのメモではなく、結局理解するのにも役立つことに気付きました。書こうと思うと、内容を簡潔に箇条書きにしようとか図にしてみようとか、自然と分からないことを自分なりに理解しようとする方向に向かうのです。読書メモは以前からも付けていたのですが、''分かったこと''を忘れないために書くという備忘録のようなものでした。これからは分からない箇所ほど重点的にやってみようかと思います。


2017/01/06

スクラブルの広島大会で教英生が優勝し、5人の日本代表に選ばれました


明けましておめでとうございます。今年も広大教英をよろしくお願いします。




さて、昨年末に「スクラブル」と呼ばれる英単語作成ゲームの広島大会で、教英生が優勝し、5人の日本代表に選ばれたとの報が、Katherine Song先生から入ってきたので、この場でお披露目をします。




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I am very proud to announce that on Saturday, Dec. 17th, Azumi Onari (教英26) took the first place at the 8th annual Hiroshima Inter-University Scrabble Contest.

  Six  Hiroshima University Scrabble Players (HUSPs) Aikokai competed at the event and placed 1st (Azumi), 2nd (Takuya Okuse), and 4th (Haruka Hirose, 4th year Kyoshin). 

Azumi will be one of the 5 players from Japan competing against players from Hong-Kong Scrabble Players Association next April.  The game will take place at Hiroshima International University's Hiroshima City Campus on April 1-2, 2016.

Katherine Song



「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

5/20(土)に小口真澄先生( 英語芸術学校マーブルズ 主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負していま...