2017/10/31

中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである

以下は、授業でデューイの『民主主義と教育』を読んでいる大学院生の授業振り返りの一部です。私も思うのですが、英語の授業って惰性でやっているだけの活動が多くありませんか?





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 次に、「習慣」について述べられていた。中でも、知性のない習慣は悪い習慣になってしまうということが特に印象に残っている。

 教育の場において、このような場面は良く遭遇するものだ。悪い習慣というのは、例として著性のないルーティーン化したものが例として挙げられる。今回の講義でも、その一例として「英語の授業内容のルーティーン化」が挙げられた。

 思い出してみれば、私が中学生の頃にもこのような習慣を体験させられていたことがあった。授業で新たな単元に入る際、毎回新出単語の発音練習をしていたが、これが本当に意味のあるものか疑問に思ったことがあった。というのも、中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである。その後に毎回行う「列対抗単語意味当て競争」も「最後まで経ち続けるのが恥ずかしいから」という、全く知性に欠けた活動も同じく、悪い習慣をただただ刷り込まれていたことを思い出した。

 ただ、2年生から担当の先生が変わって、「毎回の単語の確認と練習がこんなに意味を持っていたのか」と気付くことが出来るようなやり方に変わり、私自身の悪い習慣が浄化された。よく考えれば、その悪い習慣を取り入れていた教師は、私と同じく悪い習慣を刷り込まれてしまって今に至ったのだろうなと今に思う。そして、そのやり方を教えた教師も、悪い習慣を刷り込まれたために、そのやり方しか分からなかったのだろうと思う。

 まさに、英語教育における負のスパイラルだと思った。どこかでその負の連鎖を途切れさせることが出来なかったのも残念であるが、その本人が負に感化されて何も気づけなかったという点が一番残念でならない。

  そもそも、このような悪い習慣となるのは、何の見通しもなく無知性で意味のない、つまり何も考えていない (理解していない) ということが原因である。教育は、子供たちが成長するために色々な意味あるあ環境を与えなければならないと私は考える。知性を伴った、先の見通しがある教育が出来るように、私自身よく考えて行動しなければならないと改めて痛感した。




2017/10/26

今の方がspeakingを求められている時代なのになぜしっかりとした発音を教えないまま「話す力を伸ばしましょう」なんて言っているのだろうか、無責任だなと思いました

以下も学部一年生による授業感想の一部です。このような当たり前の疑問を大切にして英語教育を改善しなければと思わされます。


 


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 今回は発音を丁寧に教えてもらって、発音の難しさを久々痛感しました。中高では一度も発音記号について教えられることはなく、発音がわからないときに単語帳の下に書いてある発音記号を見てわからないのは調べる程度の発音記号の知識だったので今回とても細かく知れてまだたくさん改善しなくてはいけないと思いました。

 この授業を聴講している院生さんがおしゃっていましたが少し前と今の発音教育は違い、今の生徒は先生の発音をしっかり教えてもらう機会はなく、向上心のある生徒が先生の口を見て真似るぐらいです。

 私が不思議に思ったことは、今の方がspeakingを求められている時代なのになぜしっかりとした発音を教えないまま「話す力を伸ばしましょう」なんて言っているのだろうか、無責任だなと思いました。

 (様々な理由があるにせよ)だからこそこれから教師を目指す私たちがしっかりとした発音教育をしたり、「コミュニケーション」の授業を本当にコミュニケーションをとる時間にするなどして、生徒たちが英語を話す機会を増やしていくことが求められているのかなと思います。勿論、教科書の指導などもあるので教科書をうまく使う訓練も必要になってくると思いますが。 

 今回の授業は自分の発音を見直すきっかけとともに、将来の英語教育(発音を中心にして)を考える機会にもなりました。



私は教英生だ!という謎の根拠から、自分は英語が得意なのだと思い込み、自身を磨く努力を怠っていた

以下は、学部一年生による授業の振り返りの一部です。大学入学はゴールではなくスタートだという当たり前の事実を大切にしたいと思います。





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今週の振り返りの提出義務はなかったと思うが、あの時感じたことを忘れないでいたいので、ここに残しておくことにする。以下、英語の発音・学習を継続する方法の2つから私が考えたことである。

 今回の授業を通じて、自身の努力不足を改めて感じた。というのは、私は教英生だ!という謎の根拠から、自分は英語が得意なのだと思い込み、自身を磨く努力を怠っていた一面を見たからである。

最近、私はとりわけ英語学習に関して、自身に胸を張れた試しがない。大学から始めた言語系のボランティア活動では、外国人が他学部の友人の発音を褒めているのを横から見たり、相手の英語のスピードについていけなかったり、と悔しい思いを何度もした。それと同時に、自身の英語の能力と他人のそれとを比べて、落ち込んだ末に焦りをも感じた。私は長年英会話教室に通っており、そこでの発音の指導は厳しいものだった。

しかし、振り返ってみれば、会話については「お客様」扱いだった。先生から話しかけてくれるうえ、私の英語がどれほど遅かろうが間違えようが、最後まで聞いてくれた。だが、英会話教室という場を離れた途端、私の英語の自信は揺らぎ始めている。半端な努力では、相手と対等になれないのだと日々痛感している。このままではいけない、足りない。ネガティブな感情が学習の動機になるのはよくないことなのかもしれないが、それでも私の英語学習への原動力にこれらが少なからずあるのは事実だ。

しかし、すべてがネガティブなわけでもない。もちろんポジティブなものもある。授業中にK君が言っていたように、好きなことと結びついた動機である。英語学習ではないが、私は第2外国語としてフランス語を学んでおり、これを嫌に感じたり、止めようと思ったりしたことはない。なぜなら、私の大好きなお菓子作りの世界とフランス語には深い関係があるからだ。レシピで知った単語がフランス語の授業中に聞こえた時、私の心は躍る。逆に、授業で学んだ単語をレシピで見つけた時にも、学んだことが自分の生活につながっている感覚を覚える。そして、フランスで買ったレシピ本を読める日を夢見て、学習を継続したいと思う。

英語学習の際にも、疲れたら料理の分野で英語に触れるようにすれば、私は学習のモチベーションを高められるのではないか。これが今回の授業を振り返って得たアイデアだ。

2017/10/19

塾での資格試験面接対策について


以下もDeweyを読んでいる院生の授業用書き込みです。私(管理人)の授業では、本で学んでいることと学生さんが実生活で経験していることをできるだけ結びつけるように勧めています。




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今回はDemocracy and Educationの第3章を読み、その後最近自分が考えていることを書いてみた。本文と以下の内容では直接対応している部分が多いわけではないが、第3章を読んでいたとき以下の経験が思い浮かんだので、ここに書いておきたいと思う。以下は塾でアルバイトをしていたら誰しも経験するような内容になっていると思われる。

 私は最近、塾で英検の面接対策をすることが頻繁にある。私が高校生のときと比べると、やはり受験しようとする生徒が多いと思う。生徒たちもそうだが、親御さんたちや学校、塾の先生の熱気も非常に強い。小学生から高校生まで、皆揃って受験している。彼ら彼女らの進路に有利ということで、卒業までに特定の級の取得を学校側が求めることが多いようだ。

 しかし、英検の対策を塾で補っているということは、学校がサポートしきれない部分が大きいということだろう。そういった英検取得を求める学校は、学校内でも補習に回す時間で英検対策を実施しているところがあるが、それでも英検に合格できるほど十分ではないらしい。その結果、塾に通える子どもは対策の時間が各段に増えるものの、通えない子どもは泣き寝入りするしかない、というのが現状であると思う。

 それでは、塾に通える子どもは英検面接が十分にできて一件落着かというと、現状はそれほど楽観できるものでもない。多い生徒で週2~3、少ない生徒で週1回あるかないかの頻度で対策を進めている。さらに、一日に英検対策に回せる時間にも限りがあるため、生徒一人に対して使える時間は一日20分そこらである。面接対策が始まるのは一次試験が終わった直後から二次試験当日までの4週間ほどなので、少ない場合だと合計で2時間にも満たない。しかし、そのような状況でも、生徒たちは学校や親御さん、塾からの熱い期待のまなざしを受け、面接対策を受けに今日も私の前にやってくる。

 面接対策をしていてやはり気になってしまうのは、面接中のやりとりが決まったパターンの繰り返しになってしまうことだ。面接官がこう言ったら、こう返す。学校などで面接対策を既にしていて慣れている生徒に、むしろこうした傾向が強いと感じている。自分の発話に意図があるとかないとか関係なく、相手が言ったことを自分が記憶しているパターンのリストと照らし合わせ、それに合うパターンの発話を返す。

 一見コミュニケ―ションが成立しているように見えなくもないが、実際のコミュニケーションとの違いは歴然だ。それは、こちらが少し発話のパターンを変えると、たちまち生徒たちに焦りが見え始めるという点だ。この点については、生徒に責任があるのではなく、私たちのような塾や学校での対策のやり方に責任があると思っている。限られている時間の中で効率的に合格を狙うのであれば、パターンを刷り込むことは効率が良いとされている。理屈はいたってシンプルだ。しかしシンプルなだけに、そのようにして固定したパターンから抜け出すのは困難だ。

 面接官の言ったことに出来るだけ早く正確に反応していく。自分の記憶している定型文を相手の言ったことに合わせて当てはめていく。実際のところ英検準二および二級あたりまではこの手が通用してしまう。二級を卒業までに取得するよう促進している高校が増えてきたが、定型文を正確に産出するやり方で通用してしまっている以上、実際のコミュニケーションにはさほど近くない会話テストを奨励していることになってしまう。

 世間一般ではそれで会話ができるということになっているのかもしれない。それだけ英検の影響力は強くなっている。けれども、仮に英検面接で見られるこのようなやりとりをコミュニケーションと呼ぶにしても、この特殊なコミュニケーションは英検面接に関わる人々の中でしか通用しないことが多い。英検面接の世界でのコミュニケーションだからである。たしかに、コミュニケーションの目的も、手段も、英検面接の共同体の中では共有されているかもしれない。しかし怖いのは、この共同体から一歩外へ出て、外の世界から実際のコミュニケーションを基準とした評価を受けるときだ。英検〇級というステータスが重圧になることもあるかしれない。 

 塾で英検対策を受けられない生徒にとって、英検の特定の級取得を進学の際に有利なものにしたり、大学の受験資格にしたりすることは格差を拡大させることにつながる可能性がある。一方で、英検対策を受けられる生徒にとっても、こちらはこちらで既に上で述べたような問題が生じる。私個人は、今のところ塾に通える子どもと接することがほとんどなので、英検対策も十分にできて、なおかつ、英語を使った実際のコミュニケーションってどんなものだろうか、と生徒が考えることができるような機会を提供していきたい。塾で講師をしていると何かと難しいジレンマにぶつかることが多いが、講師よりももっとジレンマを抱えているのは生徒たちだと思う。そうしたジレンマを少しでも解消できればと思う。



子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない


以下は、DeweyのDemocracy and Educationを読んでいるある院生の授業振り返りの一部です。


この画像は下の院生とは異なる院生の予習ノートです。


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 デューイによると教育は、学習者集団の中で生まれる共感を通して達成されるものである。ここで注目すべきは、教育は、集団がそこにあるだけでは成り立たず、そこに共感が不可欠であるということである。この違いを際立たせるためにデューイは、「教育」と「訓練」という言葉を用いている。つまり、前者が、異なった背景を持つ個人が、自らの思考と意思に基づいて共感的集団をなして、ある概念を獲得しようとしている学習状態を指す。これに対して、後者は、異なった背景を持つ個人が思考と意思を持たずに、個の集合体をなしてある概念を記憶しようとしている学習環境である。

 以上を基に、英語教育の現状についても考えてみたい。現在、英語科においてCEFR等の枠組みに沿った英語力の向上が急がれているのは広く知られているだろう。つまり、より多くの英語の知識・技能を効率よく定着させることが直近の目標として掲げられている。しかも、その目標は、授業時間数への配慮などがされないまま小中高ともに大きく引き上げられる見通しだ。そして、その成果を一般的な英語の技能試験で数値化しようとする動きすら見られる。このような状況に置かれる学習者集団(教師・生徒)は、デューイが言う「教育」・「訓練」どちらに進むのだろうか。私は、その答えは明確であると思う。

 もう一点私が感じていることは、そもそも今掲げられている目標は、本当にこれからの未来を生きる子供たちの為になるのだろうかということである。AIの機能が日々向上していくこの時代に、子供たちが今「訓練」されている力が人間にしか持つこの出来ない固有の力と言える時代は、そう長く続かないような気がしてならない。もしそんな時代が来たとしたら、彼らには人間固有の言語力として一体何が残るのかを、今一度私たちはよく考えるべきではないだろうか。子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない。


2017/10/18

人工知能、メディア、身体、美といった論点を英語教育と絡ませながら共に考えました。


以下は、学部1年生向けの授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の振り返りの一部です。この日の授業では、人工知能、メディア、身体、美といった流れで講義をし、折々に学生さん同士での話し合いの機会を設けました。





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■ うかうかしていられない。前半のAIに関する講義を受けて私はこのように感じた。
AIの導入が本格的に始まるにつれ、人間の職は無くなっていく。AIがさらなる進化を遂げれば、より一層人間の職は無くなる。こうした循環の中、我々に一体何ができるだろうか。

これを考えたときに、私の脳内に浮かんだのはAIでもできるような単純な情報提供ではなく、生徒の複雑かつ人間的な感情を理解し、親身になって寄り添うという事である。

AIというのは莫大な量のデータを集約したものであるから、そのデータに基づき、最適な情報を提供することはできる。しかしAIは、人間が抱える本人にとってすら漠然とした感情に対する対処法は知らない。なぜなら、そういった感情を経験したことがないからである。

そのため、人とかかわる職に就こうとしている身として、今のうちにたくさんの経験をして、感情の豊かな人間になり、AIには対処できない部分を磨いていきたいと思う。


■ 授業中に先生が発せられた「AIが進出して人々の職を奪うような世の中になった時に、自分たちが教師としてどのような教育(キャリア教育)を行ったらいいだろうか」という問いに対して、正直自分には明確な答えが思い浮かばなかった(人間と機械の違いは感情を持っているか否かだと漠然とは思ったが)。グループでの議論や、先生や皆の話を聞く中で、やはり対話が人間にはできると思った。先生の話にもあったように、例えば勉強意欲がわかないような生徒に対して寄り添って話を聞くというのは今の段階ではAIでも厳しいのではないかと思う。

いずれ人生相談のような類もAIはできるようになるとゾッとしたが、それでもやはり心と心のコミュニケーションができるのは人間の大きな長所だろう。それに関連して、表情についての話があったが、人間が気持ちを伝える上で表情は大きなウエイトを占めることを再認識した。予習課題でもあったが、SNSの多用により面と向かった、表情を使ったコミュニケーションが少なくなっていると自分でも実感するため、少し話はそれるが、表情を用いたコミュニケーションをしていくためにも、SNSに依存することなく、うまく活用できるようにしていきたい。


■ キャリア教育に関しては、大半の仕事がAIに奪われるという将来があり、そんな未来で人間がAIと違うことが「感情がある」ことだけだとしたら、残るのは情緒あふれるもの、伝統的な技術を必要とするものだろう。教室でロボットとの会話は無機質でおもしろくなかったと言う人が多かったことを考えると、きっと感情に訴えかけるもの、エンターテイメントの需要が今よりも高まるのだと、私は思う。そうなると、英語教育に演劇をとりいれ、表情豊かに英会話ができることの必要性も高まるかもしれない。どちらにせよ、コミュニケーションにおいては、棒読みは、いくらそれが母語ではないにしろ、良いことでもない。いくら文法や語彙がよくてもそこに感情がないのなら、それは完ぺきな他言語使用とは言えないと思う。




■ まず、前半のAIについて。今回の授業で、AIの発展に伴い、英語教育やキャリア教育の内容に変化が生じることは間違いないと感じた。そして自分なりには、英語教育は、現行の英語を学ぶことを主目的とした内容から、理論の組み立て方 (英語圏の人々の思考は、日本人より理論的だと耳にしたので) やディスカッションにおいての自分の意見の伝え方等の、英語をツールとして使いこなす練習を目的とした内容へと変わっていくのではないかと考えた。

キャリア教育に関しては、良くも悪くもAIの影響によって将来の職の選択肢が激変しているであろうから、予想すら立たなかったのが正直なところである。しかし、自分が高校で受けたキャリア教育の一つにあった課題研究というものは、かなり有意義だった。これは、自分が興味のある分野の現状を知り、問題点を見つけ、自分なりの答えを出すという内容で、主体的な行動力や思考力なしには成立しない。そして、グループで書き上げた論文を大勢の生徒の前で発表する頃には、将来のビジョンを鮮明に描けている生徒も数多くいた。AIが発達した社会で生き抜くには、思考力や創造力が大きな鍵となると授業で学んだので、この課題研究という活動は将来のキャリア教育にも通用するものだと感じた。

 また、有用性以外を目的とする学びについても考えた。とても抽象的な例になってしまうが、誰でもある点までは達することができても、そこから先に進める人とそうでない人が出てくることがある。その違いは、有用性以外の学びの有無 (自分の言葉で換言するなら、どれだけ寄り道や回り道をしているか) にあるのだと思う。

 そして最後に、シンギュラリティの話題から、AIの発展について考えた。AIの行き過ぎた発展により、人間が機械に支配される社会はもちろん恐ろしいものだ。しかし、私はそれと並ぶ程に、理系があまりにも注目されている (文系学部への予算が減らされているのは、理系への期待の裏返しだとも捉えている) 今日の社会を怖く感じている。AIを含む技術の発達によって、確かに生活は豊かになり、救える命は増えるだろう。だが、その技術が悪用された時に適用される法律は十分に整っているだろうか。また、クローン技術に代表されるように倫理的なジレンマは存在する。それなのに、今の社会はリスク<効率と結論づけて文系をないがしろにしているように私は思える。文系と理系の二院制がこの先続くのかが不安でならない。

 次に、後半のメディアについて。英語学習と音の結びつきをグループで話し合った際、英語劇や感情を込めた音読等、さまざまな経験が出てきたが、その一方で本気を出すのは恥ずかしいことだという教室独特の雰囲気は、どのメンバーも共感できた。授業を通じて言語的な身体の獲得を目指すためには、まずこの雰囲気をいかに取り払うかを考える必要があると再認識させられた。

また、私の場合は、長年校外で英語を教わっていた先生が特に英語の音を大切にされていて、その先生のことが思い出された。彼女は、単語の意味が分かっていても正確な読み方が分からなければその単語を知らないのと一緒だ、と私が教わり始めた頃からおっしゃっていた。他にも音読の際には感情が入っていなかったら何度でも読み直しをさせられた。このような彼女の教育によって、何かを得られた感覚はずっとあったが、それが何なのか、今回の授業を通じて少しずつ言葉に表せそうだ。

 もう一つ印象的だったのが、美についてである。授業中にも美に対する考え方が個々で違っていたように、美しさを感じる対象は人それぞれで幅があってもいいのではないか、というのが私の考えである。しかし、以前に比べて各々の美の感覚に自由度がなくなってきている、または他者ありきなような気がする。これは私が前々から感じていたことなのだが、フォトジェニックやおしゃれコラージュという語を頻繁に耳にする現象が物語るように、近年のSNSユーザーの中には他者から「いいね」をもらいたい一心でフィルターやコラージュアプリを駆使して「美しい」作品を仕上げる人も少なくない。

しかし、「いいね」の数が果たして美しさの指標なのだろうか。同じ花火を見ても、SNS用の写真撮影に夢中でレンズ越しにしか花火を見ない人と、パンという破裂音の響きを体で感じながら一瞬しか咲かない花を自分の目で眺める人とでは、後者の方に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。私は決してそのようなSNSユーザーを否定したいわけではない。ただ、他者の反応ありきで成立する美は、自分の心に基づいた美なのかと疑問に感じる。自分の信念を貫いた美こそ、多様性や創造力の根本になるのだと私は思う。

 この点で、有用性以外の学びは大切だ。「私は画家になるつもりはないから、美術の授業は要らない」などと言っている場合ではない。私は今までに同様のことを何度も聞いたことがあるし、実技教科が軽視される傾向は多くの教育現場でも見られると思う。しかし、そうではないのだ。今回の授業、そして授業後のお話を振り返ってかみしめたことである。





■ 最初の話題である、人工知能について。人工知能が今後さらなる発展を遂げ、人間を凌駕する労働力となったとき、人間にできる仕事は何か、AIには不可能で、人間には可能なこととは何か、そのような未来で私たちの生徒や子供たちが生き抜いていくために私たちができることはなにか。なかなか難しく、90分の授業で簡単に答えを見出すことのできない問いかけではあるが、そもそも予想される未来に真正面から向き合い、考えていくことが大きな第一歩なのではないかと感じられた、そんな授業だった。

個人的には、「こういう教育をしたらいいのではないか」「こんな授業をしたら」とみんながいろんな案を出した上で、先生がおっしゃった「そのような授業を受けていない君たちがどうやってそうしていくのか」という言葉が胸に刺さった。

たしかに、「学習の目的を変える」という意見において、私のこれまでの学習スタイルを照らし合わせると、中学生のときは内申点が受験に響くから1年生のころから授業を真面目に受け、高校生のときは内申点が受験に関係ないから3年生だけ必死に受験のための勉強をして、先生方からもそれを望まれているように感じていたし、その期待に応えることが目的になっていたところもあり、将来これから実践していきたい教育を受けたことはないし、望ましい学習姿勢をもったこともない。

これまで教えていただいてきた先生方のせいにするわけではないが、「生きるための力」をつける、もしくはその重要性に気づかせられるような授業を受けた記憶はほとんどない。その経験がないのにどうやって自分が教える、教育する立場になればよいのだろう、と心が不安感でいっぱいになった。

ただこれに今気づかせられてよかったのだと思う。正直、私はこの授業を通して、今までの受けたことのある授業が、どんなに受け身な授業だったかを思い知らされている。この授業では、先生が問いやテーマを与えてくださり、私たちが主体的に考えることのできる授業形式になっている。こういう形式の授業を昔からずっと受けていたら、私の想像力、思考力等はもう少し高い水準にあったのかもしれないと感じる。先生の授業を通して、授業の内容も広く深い学びであると感じるが、授業の仕方も同時に学べているのではないかと受けるたびに思わされている。


■ 今回の授業を受けて、自分が得てきた知識よりも感覚の方がより良いものを生み出すことがあるのだと感じた。これまでは無難に人並みな意見を出して、目立たずに授業を終えようと考えていることが多かった。無感動に知識を詰め込むことに慣れてしまっているのだろうが、無感動よりも疑問を持ち、驚くような発見をすることでより学びは楽しくなるだろう。将来英語の教員になるのだからこの知識はいらない、なんて思わずにたくさんのことに触れて自分の感性を磨いていきたい。




■ マツダのデザインなどを例にとった「アート」の話題に関しては、「身近に感じた美」という難しい事項について考え、意見を交換したが、「美(アート)」について考えれば考えるほど、アートが軽視されており、受験に向けての勉強のみを重視している現在の日本の教育形態が浮き彫りになり、馬鹿馬鹿しいと思った。前半のAIに関する授業を踏まえても、これからの社会で重視されるべきは受験学力などではないはずなのに、未だにこのような形態をとっている日本の教育機関を恨めしく思うとともに、いかにしてそれを変えていくことができるか、われわれも考えていくべきだと感じた。


■ もう一つ印象に残った内容に”美意識”についての話がある。私は最近自分の周りにいる人として尊敬している人の多くが自分で絵をかいたり写真を撮ったりと創作活動にも熱心であるという共通点に気づき、それがなぜなのかしばし考えていた。前回の授業でアートと人のかかわりを知って私はずっとわかりそうで分からなかった答えに辿り着いたような気がした。自分独自の美意識や感覚、あらゆることを見極める目は、アートから培われ、そしてその力がその人自身を形成していくのだ。私自身を振り返ってみると昔は熱心に取り組んでいた絵画や読書などから”時間がない”と錯覚して遠ざかっていたが、これからはアートの世界に積極的に飛び込み、自分独自の美的感覚を磨いていきたい。


■ 今回の授業で私の班内でディスカッションが盛り上がったのは、「教育の現場における『美意識』とは何か」というトピックだ。一言に『美意識』と言っても、クラスメイトが持つエピソードはどれも多種多様で、大変興味深かった。私の持っていた視点とは違った角度からのアイデアは、私にとってより深く「美意識」について考える良いきっかけとなった。よって、今回の振り返りはクラスメイトが発表した「美意識」の視点から私なりに思考を広げてみようと思う。

まず「美意識は人によって異なる」といった定義づけについて、私もその意見に賛成である。しかし、私たち昨今の若者の間では、画一化された美に翻弄されたり、逆に多様な美の形を知り自尊心を取り戻したりといった二極化した風潮がネット上で顕著に見られるようになった。グローバル社会・高度情報社会は経済界に於いてだけでなく、私たちの「美意識」にも大きな影響を及ぼしたと考える。

SNSにのめり込む若者は、自分があげた写真についた“いいね!”の数を自分自身の価値とイコールで結びがちだ。人気アイドルやモデルの外見に似ていれば「かわいい」と友達からたくさんの“いいね!”をもらえるが、彼女たちが本当に欲しいのは“自信”なのではないだろうか。今にも倒れそうな自尊心を、有名人の真似をすることで得た高評価で極めて一時的な“自信”を作り、何とか保っているのではないだろうか。整形依存の人にも同じことが言える。

一方、SNSのポジティブな面については、やはり多様性に満ちた美の形を知ることができる面ではないだろうか。例えば、日本で醜いと見なされがちな太った体は、インドでは富の象徴として、また南米ではセクシーとして好意的に見られている。話は少し変わるが、私は人生の最大のゴールの一つに「自分自身を愛せるようになること」をあげている。画一化された美によってコンプレックスの塊となってしまった女性たちに、そのような形でSNSの恩恵を受け、無条件に自分を愛せるようになって欲しいと思うし、私もそうなりたいと思っている。





■ 機械やAIなど技術の進化によって、教師の役割はどうなるのか?この問いの答えを考える前に、まずAIにはできず、人間だけができることを考えてみる。私が思いついたのは、新たなアイデアを生み出すことや、相手の気持ちに共感することである。 AIには身体がないので、仮に人間が経験したことを大量に集めて、人生相談をすることができるとしても、こういうことがあったという”事実”は伝えることができるが、その時その人がどう思い、どう考えたかということは伝えることができない。対して人間である私たちは、自らの身体で経験したことを伝え、子供の学習へ対する意欲を高めることができるのではないかと思う。また、AIは過去のデータを元にして全てを考えるが、人間は未来を想像することができる。この想像力こそが人間をAIと根本的に分けるものではないかと思う。楽観的な考え方だが、仮に人間がドラえもんのような人間を超えるロボットを生み出してしまっても、その時にはその問題を解決する発明がされているかもしれない。結論として、教師の役割は、この想像力を育成することではないだろうか。

役に立つ以外の学びの意味とは?この問いに対する私の答えは、未知なるものと出会う機会を与えるということである。私自身も感じていたが、学校での学びでは、誰しもが”やらされている感”を感じながら勉強したことがあるのではないだろうか。しかし、この”やらされている”ことによって、子供の将来の可能性は広がると思う。どういうことかと言うと、食わず嫌いと同じで、「数学は難しいから嫌いだ」という風に最初から決めつけて、ある教科に苦手意識を持つ生徒は多いと思う。しかし、その教科をずっとやらされている中で、ふとそれを学ぶことの楽しさにふれ、この分野についてもっと学びたいと思うことがあるのではないだろうか。つまり、学びが次なる学びへと導き、その個人の性格を形作る知識の一部と出会う手助けとなると私は思っている。

身体から意味(情動)が生まれてくるということには、なるほどと思わされた。英語落語で先生が演じられていたように、離れた場所から声をかける場合や、ささやき声で話す時、その状況や場合に応じて、実際のコミュニケーションでは言葉より体が先に動くことがある。やはり英語の授業においては状況設定を行い、実際のコミュニケーションに近づくようにしないといけないと思った。しかし、意見があったように、現在の英語の授業の多くでは、生徒は恥ずかしがったり、周りを意識して、自分自身の持つ優れた発音を隠したり、感情をこめておおげさに会話をすることは少ないと思う。そこで、教師が自ら実践することはもちろん生徒が感情を豊かに英語を話すことができる環境づくりを日頃から行うことが重要になってくると思う。また、ボランティアでも感じたが、アイスブレイクの効果は絶大だと思っている。授業についての知識だけでなく、授業をスムーズに進めるための、教科以外の知識を今のうちに学んでおかなければいけないと思う。柳瀬先生のお話の中で、周りを全く見ておらず、潜入した先生に気づかない教師がいたとあったが、目線を合わせる、周りを見れるかどうかは教師としてとても重要なことだと思う。これらのことをしなければ、教師から生徒への一方的な指導になり、機械が授業をしているのと相違ない。人間の教師であるからできることを、意識しながら、授業を行わなければいけないと思う。 

美とは何か?美とは言葉では表せないものだと思う。私の場合、”美”と言われて考えるのは、大自然を見た時に感じる感情と、なにかをやり遂げた時に感じる喜びに似た感情である。美の定義は人によって違うものだと思うが、私はかねてよりどんな人間でも、何か美しいと感じる瞬間はあると思っている。多くの国があり、様々な問題があるこの世の中だが、言葉で表せない”美”は世界共通のいわゆるメディアで、この美を感じることができることは、とても重要だと思う。生徒がこの美を豊かに感じさせることができる教師になるために、いろんな経験をつんで、様々なものを見ていきたい。





2017/10/12

私は「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、現職教員の方が大学院に学びに来てくださると大学院の学びがより現実的になりますので、本当にありがたいです。





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今日の授業を振り返り,これまで私が使ってきた「コミュニケーション」という言葉は,一体何だったのだろうという気持ちでいっぱいになった。「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれたら,「人と人とが関わり合うこと」という程度のことしか答えられなかっただろうし,「コミュニケーション」について深く考えることもなかった。

しかし,今日の授業を通して,「コミュニケーション」について私の考え方が変わったことは確かなことだ。これは,私にとってDewyの言う”renew”なのかもしれない。今,「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれれば,「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう。これは,Dewyの言う”To be a recipient of a communication is to have an enlarged and changed experience.”を私なりに解釈したものだ。

 これを踏まえて,教育現場での教師と生徒間の「コミュニケーション」について考えていきたい。教師と生徒は,学校という同じ空間の中で多くの時間を共有しているが,「コミュニケーション」に費やしている時間はいったいどれくらいあるのだろうか。1日の流れをざっとではあるが挙げてみると,朝のSHR,授業,帰りのSHR,クラブ活動と教師と生徒が接する時間は長い。しかし,この大半が「情報の伝達」に終わっているのではないだろうか。

 例えば,朝のSHRと英語の授業について考えてみる。朝のSHRでは,簡単な挨拶をして,1日の連絡事項を伝える。ここに,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,次のように変えてみるとどうであろうか。朝のHRでは,挨拶を交わし,連絡事項を伝える中で,生徒の顔を一人ひとり確認して,いつもと違った様子はないかを伺う。ここで気になる生徒がいれば,後で話をする。話をすることで,生徒は内に溜めていたものを吐き出し,気持ちを楽にして,1日のスタートを切ることができるかもしれない。

次に,英語の授業について考えてみる。単語を覚えることや,文法を覚えることに重きを置いた授業展開は,まさに「学びを記号で伝える」ことに他ならなない。ここにもやはり,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,同じ単語や文法でも,その単語や文法を実際に使える場面を増やすような授業展開を行うことで,生徒にとって,その単語や文法は記号ではなく,自分のリソースとしての英語になるのではないだろうか。

 教師が,生徒が必要とするものに目を向け,そのために行動すれば,生徒は変わる。つまり,教師による働きかけで,生徒は成長するのだ。しかし,ここで成長するのは生徒だけではない。教師もまた,成長しているのだ。これが,今の私が考える教育現場における「コミュニケーション」である。

帰国してからは、いかに日本がコミュニケーションのない一方向の教育をしているのかを痛感した。


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、他大学から教英大学院に進学してくれた人がどんどん教英を活性化することを私は望んでいます。






ちなみに以下の文章の最後の方に出てくる「byではなくinの関係性」というのは、Deweyの以下のことばを基にしたものです。

Society not only continues to exist by transmission, by communication,
but it may fairly be said to exist in transmission, in communication.


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第1回目を終えて、正直かなり難しかったが、今回の講義を経て私が考えたことや感じたことをまとめたいと思う。

 今まで、教育と民主主義を関連付けて考えたことがなかった為、Deweyの考えを読んでもいまいちピンと来ていないのが現状だ。ただ、1章を読み終えて何かが私の中で引っ掛かっており、きっと何か私の中で共感したのではないかと思っているところだ。

 今回の章で特に印象深かったのは、コミュニケーションというものが社会や教育の中でいかに重要な役割をしているかに気付けたということである。これは、先生が授業中に仰っていたことなのだが、「日本の教育目的は個人主義的傾向が強いが、外国の場合は民主主義的な教育目的も多く見られる」という言葉に強く共感した。というのも、私の経験を振り返ってどう思う節が多々あったからである。

私が高校1年生の時、幸運なことにアメリカの高校へ約1ヶ月交換留学に行くことがあった。そこでは、現地の生徒に交じって一緒に授業を受けていたのだが、日本の教育とは異なり、現地の学校では授業の方法から教師と生徒の関係性まで目を疑うほど異なっていた。というのも、私の母校はバリバリの進学校で、「授業中は教師の言うことは絶対」「授業はひたすら先生の言うことを覚え、何も口出さない」というような学校であり、授業中に何かを相談したり、教師と議論したりといったコミュニケーションはほぼ無かった。

 しかし、アメリカの高校では生徒と教師が互いに意見し合い、授業中に生徒同士で考え、目標に向かって取り組む姿が数多く見られた。授業に参加してみて驚いたのは勿論であるが、初めて授業を楽しいと思った瞬間であった。クラスにおける教師と生徒の立場はほぼイコールで、授業内にはコミュニケーションの場がいつでも設けられていた。縦のみならず、横のコミュニケーションも取れていたため、クラス全体で1つの同じ目標に向かって歩んでいる印象であった。初めて、クラスという社会集団のなかで私が存在していることを実感したのである。

 帰国してからは、いかに日本がコミュニケーションのない一方向の教育をしているのかを痛感した。高校のみならず、大学でも同じような状況であった。大学に関しては、特に自分の進路に向けて選択した学校なので、自分と似たような目標を持った学生と、それをサポートする教員の関係性が出来たものだと思っていた。しかし、実際は教員のやりたいこと専門分野を扱った授業に、ただ耳を傾け、ノートをとり、単位のために受講するようなものばかりであった。期待していたものの、残念ながら教員と学生の間にコミュニケーションはなかった。ただ、唯一「一集団で一目標に向けて全員で働きかけている」と少人数のゼミではうまくコミュニケーションが作用し、教員と学生が繋がっていた。この時から思っていたが、いかに日本が一方向な教育をしているか、双方向の教育をすれば互いに高め合えることになるのになぜ実践しないのか疑問であった。

 一方向な教育と双方向な教育では、全体が一集団となれるか否かに違いがある。それを左右するものが「コミュニケーション」であると私は考える。ここでも述べられていた通り、コミュニケーションや伝達をbyではなくinの関係性を保つことがポイントとなるのではないだろうか?コミュニケーションをとることで、お互いに共有するものや違う考えを理解し受け入れることが出来、それを認識しながら一集団で生きることが、現代の日本の教育においてかけている部分ではないかと考えた。


英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。若い人の批判的思考によって、しっかりと英語教育が改革されることを私は望んでいます。




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今回は、デューイの「コミュニケーション」観(一部から解釈)と英語科のコミュニケーションを比較し、この比較について私自身の考えをまとめ講義の復習とする。

 まず、デューイの「コミュニケーション」観の特徴を私は、参加者の内的変容を促すものと解釈した。ここで言う内的変容とは、参加者の中で、新たな知の獲得、既知の事項の捉え方の変化等が起きることを指す。例えば、ある事項について、コミュニケーションの中で、他者の異なる考え方に触れ、それを自らの考えと併せて新たな価値観を得ることなどが、ここでいう内的変容であると考えている。つまり、デューイが言うコミュニケーションが成立する条件は、参加者がその中で「本音」、あるいは「実体験」を他者とやり取りすることではないだろうか。なぜなら、本音や実体験を抜きにして、コミュニケーションの参加者の内的変容など期待することが出来ないからである。

 次に、英語科で見られる「コミュニケーション」とは、どのような特徴があるだろうか。現在、英語科では、コミュニケーション活動の充実が叫ばれているが、こうした活動の実態は、事前にインプットされたテキストの内容や教師が指定(誘導)した内容を英語に乗せることにとどまっているのではないだろうか。こうした実態を踏まえると、やはり先述のデューイで見たような「コミュニケーション」とは、無視することが出来ない隔たりがある。ましてや、このような入念に仕組まれた活動の中で、相手の話に反応(驚き、アイコンタクト、相槌)を示すように指示された時の生徒たちの戸惑いは容易に想像できる。

 以上のように英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない。勿論、到達度目標の著しい引き上げを受け、効率的に言語知識を定着(暗記)させることは、現場の事情として十分に理解できる。しかしながら、そこであきらめてしまっては、EFL環境にある日本の子供たちの貴重な第二言語に触れる機会をあまりにも味気ないものにしてしまうのではないだろうか。私自身、教員を志すものとして、将来出会う生徒たちにほんの少しでも多く、本当の意味での自己表現・他者理解を伴ったコミュニケーションの機会を提供できるよう努力したい。

教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能である


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。このような文章を書く院生を頼もしく思っています。





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さて、ルーマンの用語を借りて説明するなら、Deweyは生きることは絶えざるautopoiesisだ、と述べました。機械が外部からパーツを付け加えて機能を発展させていくような形の成長は生命体、人間には不可能で、私たちは食べたものから得た栄養素を何か別のものに変化させるかたちで、つまりはインプット(身体に入れたもの)とは全く違うアウトプット(身体になるもの)を得る形で自己を成長させてゆきます。教育についても、もしくはDeweyも言うようにコミュニケーションについても同様のことが言えるかもしれません。教師Aが頭の中にある知識や技能そのままを生徒Bにコピーするという教育観、話し手Aが「伝えたい事」をそのまま聞き手Bにコピーするようなコミュニケーション観は、理論としては成り立ちうるでしょうが私たちの経験的な実感からするとどちらも実際には起こりえない、もしくは可能であってもそれを理想の教育/コミュニケーションであると断じることはできないと思います。

 教育においてもコミュニケーションにおいても、伝え手が頭の中で思ったことや知識をそのまま表現して受け手に与えることができる、ということは無くて、言語を媒介したり、身振り手振りや、図表を媒介したりする中で「そのままの伝えたい事」はいくらか変容して伝わります。だからこそ、伝えたい事を媒介してくれる言語や身振り手振りに気を付けること―情報を圧縮したり、伝える順番を変えたり、たとえ話を挿入したり、イントネーションまで変えて見せる―ことが伝え手の妙技になるのだと思います。また、受け手(たち)はそうして媒介され変質した伝え手の「伝えたい事」を、それぞれ異なる経験してきた事を下敷きに受容します。ここでも変容が起こっているのではないでしょうか。つまり、伝え手が「伝えたかったこと」は言語やその他のものに媒介されて変容し、受け手がそれを自分の経験をふまえて受容する際にも変容する。教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能であるということが言えると思います。

 しかしこれが教育/コミュニケーションの面白いところで、生徒は教師が教えてもいないようなことを学ぶことができるかもしれないし、伝えたつもりではないことが伝わってしまったりします。もちろんこれはDeweyの話とはずれてくるものですが。

 教育/コミュニケーションにおける「伝えたい事」の二重の変容、そしてそれがもたらす受け手の側での「伝わったこと」のほとんど無限と言っていいほどの振れ幅のために、教師はあらかじめ決定された「最も良い指導」を覚えればいつでも最良の授業ができる、ということがあり得ない仕事です。もちろんある程度のレベルまでは「良い指導」や「伝わる話し方」を技法として身に付けることができるとは思いますが、それは伝え手側の側面、言語やほかの要素による媒介の技法のみしか、見ることができていません。教育にもコミュニケーションにもそれ以上の道があり、そこに向かうためにはそれは受け手側の側面、個々の受け手がどのように「伝えたいこと」を理解するかに思いを馳せること、それを適切に想定したうえで伝え方を変えていくことが必要なのではないか。と考えました。



最も大きな違和感の元は、誰もall Englishの授業が最も理想的であることに対し、納得のいく説明を与えてくれなかったことだ。



以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。このような文章を書いてくれる大学院生を私は誇りに思っています。






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今回印象的だったのは、一つ目に「生きること」とは自分以外のすべてのものと相互に関わることによって、自分を自分で変え続けていくこと、二つ目に「社会」がtransmissionやcommunicationそのものであるということ、三つ目に「社会」は単にそこに属する人々が共通する目的を持っているだけで成り立つものではないということだ。この三つの点は密接に関わっている。

「生きること」は、さらに生物的な意味での「生きること」と社会的な意味での「生きること」を分けることができるかもしれない(もちろん人間にとってはこの二つはほぼ不可分である)。社会的な意味で「生きている」生物は他にもいるかもしれないが(群れで生きている哺乳類やハチやアリなどの社会性昆虫などもいるので)、最も社会性の高い生物は人間である。厳密な意味で言語を習得できるのが今のところ人間だけであることも、人間の「生きていること」が持つ社会的な意味が非常に強いことから考えると納得できる。

個人が「生きること」により他人と関わる際に与える影響は一方通行ではない。この関わりに参加した両方、関わった人数が多ければその全ての人間が影響を受ける。このように個々人が「生きること」によって他の人間に影響を与え与えられる関係が「社会」であり、コミュニケーションの場である。

こうした意味での「社会」を本当の意味での社会だとすると、一般的に社会として捉えられている集団の中には社会として成り立っていないものもあるかもしれない。学校の教室で頻繁に会ってはいるが、お互いにあいさつ程度しか関わりが無い生徒同士はどうか?普段頻繁に関わりがあるわけではないが、会うと必ずあいさつして、学校のことなどを聞いてくれるご近所のご老人との関係性は?色々な関係性を「社会」という観点から見直してみると、漠然としていた関係性が明らかになるだろう。

以上を踏まえて、私個人の変容と、自分が所属して早5年目になる教英という集団について考えてみたい。


1.  自分自身の個人的な変容
(省略) 


2. 英語教員養成機関としての教英の変容

 英語教員養成機関として教英について考えると、自分が学部で受けてきた教育の中で違和感の残る点がいくつかある。また、その違和感の元が未だに批判的に検討されていないことが余計に強い違和感となっている。そのうち代表的なものとして、授業を英語のみで行えることが最終的には理想であると考えられている点である。私たち教英の学生は、入学当初にこの考えに触れ、驚き、その斬新さに憧れる者と違和感を持つ者がそれぞれ自分なりに考えてきた。私は当初、このいわゆるall Englishの考え方に完全に否定的だった。少なくとも自分が教育を受けた学校教育の現場で実行するにはイメージが全くわかなかった。それは自分自身が当時ほとんど英語をしゃべることができなかったことにも関連している。そもそも自分たちが上手く話す自身が無いのに、英語で授業を教えるという実感が全く無かった。この辺りは単に自分の主観に過ぎなかったのだが、当時は素直に拒否反応が出たのだった。

しかし、最も大きな違和感の元は、誰もall Englishの授業が最も理想的であることに対し、納得のいく説明を与えてくれなかったことだ。「文部科学省で決めたこと」「これからの時代はグローバルの時代だから」といった理由がだいたい説明に使われていたが、これがall Englishの授業実施の明確な理由になっていないことは明らかだった。数年後にお世話になった教育実習でも同じようなall Englishの授業を求められた。さすがに日本語の使用を完全に禁止する先生は現場にはほぼいらっしゃらなかったが、all Englishの授業を正当化する説明は聞けずじまいだった。

 私は現在all Englishの授業を完全に否定するつもりはない。英語に触れる機会が多いことが学習者にとって良い経験になることは事実であり、現に私自身が中学高校のときは英語をコミュニケーションに用いることが極端に少なかったので、それを踏まえると状況しだいで良い点も多い。しかし、all Englishの授業が「最も理想的だ」という考えには今でも反対である。そもそも学習者のL1を効果的に使用して学習を補助しようとする姿勢に欠けているし、母語話者の習得環境への憧れのようなものが無批判に存在していると感じる。

 こういった諸々の理由から、この授業方針に未だに十分な根拠を提示しない教員養成機関としての教英には不信感すら感じる。もちろん他の部分で優れた取り組みが為されていることが事実なのだが、自分が入学したときからこの状態が全く変わっていないのだとしたら、それは教員養成機関として「生きている」、また健全な「社会」として成り立っていると言えるのだろうか。また、次の世代の学生たちを迎えるに当たってこの状況は好ましいものなのだろうか。私個人としては、自分が所属しているこの教員養成機関としての教英が社会的な意味で「生きること」を経験するべきだと考えている。



2017/10/11

「私が目にしたアメリカの学生たちは将来の夢や自分がが学びたいことが何かということが明確でした」


以下は、ある授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の予習として学部一年生が書いた文章の一節です。

いかにして学生さんの世界を広げ、彼ら・彼女らの心に火をつけるかを考えながら授業をしています。

これをお読みの高校生および高校教師の皆さん、皆さまとも若者の好奇心や意欲を喚起するために連帯できればと願っています。





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私が予習課題を読んで特に気になったことが三つあります。

一つ目は自律的な学力が付いていないという問題についてです。私はSTARTプログラムでアメリカの大学に訪れた際、日本人学生がこの問題に直面していることを痛感しました。

すべての学生がそうであるというわけではありませんが、日本の多くの学生はこれまで志望校に合格することを目標に勉強してきました。実際に進学校といわれる高校のほとんどの授業が、受験のための勉強、であるように感じます。だから大学に入った今、何を目標にしたらいいのか、自分は何が学びたいのか、本当にやりたいことは何か、ということが分からず、なんとなく毎日を過ごしている人も多くいます。

しかし私が目にしたアメリカの学生たちは将来の夢や自分がが学びたいことが何かということが明確で、毎日平均5時間にも上る勉強をし、世界情勢に関心を持ち、学びに対してとても積極的な姿勢をとっていました。

自分が学びたいから学ぶのだという意識が強いアメリカの学生に対して、日本の学生は単位を取るために学ぶという意識のほうが強いような印象を受けました。だから私たちは考えるということをしなくなり、自律的な学力が欠如してしまうのだと思います。 (後略)





「最近の若者全員がハングリーさに欠けているとは思いません。しかし・・・」


以下は、ある授業の感想として書かれた教英学部一年生の文章の一部です。

授業の中では、Steve Jobsの "Stay hungry"(ハングリーであれ)の意味が、わかったようでわからない、という意見も出たりして、管理人としては、なるほど直接的な身体体験としての空腹をあまり経験したことがない人には、この比喩は理解しにくいものかとも思ったりしました。

だから「最近の若者にはハングリーさがない」というおじさん的一般論にも妥当性があるのか・・・と思っていたところにこの文章に出会い、少し納得できた次第です。





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私が前回の授業で一番印象に残っているのは最近の若者はハングリーさがないといわれているということです。

実は私の個人的な考えでは最近の若者全員がハングリーさに欠けているとは思いません。
確かに、何もない状態からこれほどまでに発達した世界を作り上げた昔の人々比べると今の人々は気力や行動力、パワーなど様々な面で劣っているのは事実です。しかし、私がこれまで会って来た人の中には明確な夢や目標を持ち、それに向かって一目散に、一生懸命努力している人、また努力してきた人が多くいました。だから、一概に最近の若者は、、、というようにいってしまうのは何かすっきりしない気持ちになります。いつの時代にもハングリーに物事に取り組む人がいれば、逆に無気力な人がいるというのは変わらないのではないでしょうか。

しかし私は今の社会の現状で特に気になることが一つあります。それは、一生懸命、熱く、ハングリーに生きる人々が疎まれる風潮があることです。実際に学校や職場でも、何かに熱く取り組む人を冷ややかな目線で見る人がいたり、めんどくさい人だなどと陰口をたたく人がいたり、、、この現状は頑張る人にとっていい状況だとはとても言えません。
ある意味、無関心に生きることがかっこいいと思われている、そんな風潮が少なからずあるように思います。

だからたとえ熱い気持ちを持っていても、それを周りに見せない、ハングリーさがあっても隠してしまう、そんな人が実は多くいるのではないでしょうか。実際に私もゆっくり話してみて初めて実は大きな野望を持っていたり、実際に行動を起こしていたりする人がいることに気づくことが多くありました。みんな、心の中ではハングリーに生きてみたいと思っているのに、周りが気になって、疎まれるのが怖くて、本当の自分が出せないでいるのだと思います。そんな若者の秘められたハングリー精神を引き出すために何をすべきかはまだはっきりとは分からないのでこれからじっくり考えていきたいです。


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Are you hungry?





2017/10/03

「国際学会での発表を振り返って」(IK君・修士課程二年生の感想)






以下は、この夏に国際学会で発表をしたIK君 (修士課程二年生) の文章です。



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 2017713日から715日に、インドネシアのジョグジャカルタで開催された「ASIA TEFL 2017」に発表者として参加させていただきました。今回、ここに国際学会での発表を通して、私が感じたこと、学んだことを文章にさせていただきます。



 今回の「ASIA TEFL 2017」での発表は、国際学会で発表をする初めての経験でした。インドネシアに到着して以降、今まで感じたことのないような不安や緊張を感じました。せっかく少し高めのホテルに泊まったにも関わらず、結局、発表が終わるまでくつろぐことができませんでした。このように、学会中、ほとんど地に足が着いていないような状態でしたが、改めて振り返ってみると様々なことを学ぶことができ、大変貴重な経験をすることができたと感じています。そこで、今回、私が学んだことや経験したことの中から2つを絞り、書きたいと思います。



 1つ目は、「英語で発表 (プレゼンテーション) をすることの心理的負担」です。最初に書いたとおり、国際学会で発表をすることは、今まで感じたことのないような不安や緊張を私に感じさせました。実際、ホテルで1人になったときには、発表に申し込んだことへの後悔を感じるほどでした。しかし、改めて自分の不安や緊張を振り返ってみると、英語の授業の中で、児童や生徒が抱く不安や緊張と同じなのではないかと思いました。英語でプレゼンテーションを行うことは、英語の授業でよく行われている活動の1つだと思います。(実際に私も教育実習の中で行いました。) しかし、生徒がインドネシアでの私と同じように、英語でプレゼンテーションをすることに対して不安や緊張を感じるとすると、それはとてつもなく大きな不安や緊張です。そして、その不安や緊張が大きすぎて、英語の授業が嫌になることも当然あるのではないかと思います。英語で発表 (プレゼンテーション) をする活動が悪いと思ったということではありません。英語で発表 (プレゼンテーション) をするための知識や技能の指導を段階的に行うだけでなく、生徒が自信を持つことができるように、やりたいと前向きに思うことができるように、心理面の段階を考慮することも大切なのだと感じたということです。そして、知識や技能面と心理面の両方で段階を意識する必要性は、生徒が英語を使う活動すべてに共通するものだと思います。



 1つ目として書いたことは、英語教師として働いたことがある人には当然のことかもしれません。しかし、今までそのことを意識したことがなかった私にとっては、とても重要な気付きとなりました。そして来年度から英語の教師として働く身として、現場に出る前に本当に重要な経験ができたと思います。





 2つ目は、「学会の雰囲気」です。今回、国際学会への参加そのものも私にとっては初めての経験でした。したがって、目にするものや雰囲気などあらゆるものが私にとっては新鮮でした。その中でも、特に驚いたことは、発表中の部屋の雰囲気です。今まで日本で見てきた学会では、プレゼンターとリスナーは1対1の関係であり、1対1の関係が部屋の中にたくさん存在しているという印象でした。つまり、プレゼンターが発表をし、質疑応答の時間では、プレゼンターとリスナーの1対1の質疑応答・意見交換が何度も行われるということです。(日本での学会参加経験も多くありませんので、すべてがそうとは言い切れません。) しかし、ASIA TEFL 2017では少し違っていました。プレゼンターが発表をし、質疑応答の時間があるところまでは同じですが、質疑応答の時間に行われることが異なります。1人のリスナーが意見を述べたかと思えば、その意見を踏まえて、別のリスナーが意見を述べます。そして、リスナー同士のやりとりが始まります。またプレゼンターもそのまま傍観しているのではなく、機会を見つけて、自分の意見を述べます。そうしていつのまにかフロアを含めたディスカッションが始まっています。それは、プレゼンターが自分の研究を報告しているだけというよりは、ディスカッションのテーマを提供している、リスナーは受付で配られた ”Participant” という名札通り、ディスカッションへの参加者でした。



 前者が日本の典型的な学会で、後者が世界のスタンダードということを言いたいわけでもありません。またどちらがより良いのかということもわかりません。しかし、リスナーがただ聞くだけで終わらないという学会の雰囲気は自分にとって新鮮でしたし、自分の学会への参加態度を見つめ直すよいきっかけとなりました。





 以上、ASIA TEFL 2017の参加を通して、私が主に感じたことを2つ書かせていただきました。最後に学会終了後の柳瀬先生とのメールを通して、気づいたことを書きたいと思います。



 それは「英語ができることの価値」です。柳瀬先生から学会後、『よく世間では「英語ができるといいね」と言いますが、入船くんも今回そう感じたのではないでしょうか?日本を始めとした非英語圏でやられていることのレベルは決して低くありません。でも英語でないと相手にされないんですよね。』というメールを頂きました。本当にそのとおりだと思いました。「日本のような非英語圏で行われていることは、英語で発信して初めて評価の対象として見てもらえる。そして、何より英語ができることで、日本人以外の人から意見をもらえたり、日本以外の国の教育について知り、視野を広げたりすることができる」これが、英語ができることの1つの価値だと思いました。





 お恥ずかしい話、今回ASIA TEFL 2017に参加するまでは、英語を勉強することの意味を感じたことがありませんでした。(実際、教採で聞かれたら、何と答えるか迷っていました。) しかし、ASIA TEFL 2017に参加・発表をすることでその意味を少し感じることができました。英語教師として働く前に経験ができたことは本当に良かったと思います。(英語教師が英語を学ぶことの良さを感じていないというのはいかがなものかとずっと思っていましたので。)



 大学院が終わり、英語教師として現場に出るまで半年を切りました。この時期になって、努力不足や知識不足、経験不足を毎日感じています。しかし、少しでも知識や経験を増やせるように、少しでも吸収して、現場に出ることができるように、残りの半年も頑張りたいと思います。



最後に、学会参加の経済的援助をしていただいた「グリーン・ウィング教育奨学金」・一般社団法人グリーン・ファミリー様にはこの場をお借りして、改めてお礼を申し上げたいと思います。





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グリーン・ウィング教育奨学金は、広島大学大学院教育学研究科、教育学部および特別支援教育専攻科の学生を対象として、学生の海外経験を支援しています。

昼休みを利用した読書会へのお誘い


広大学生の皆さん、

月水金の昼休みを利用した読書会(「昼読」)のお誘いです。
教育学部A210室で、月水金の12:05-12:45ぐらいにやっています。



各自、好きな本をもってきて個別に読み、最後の5-10分間で感想を語り合う会です。遅刻・早退あるいは昼食を食べながらの参加も自由です。

定期的な読書(日本語、英語、もしくは第二外国語)をする習慣をつけ、読書を通じた知的な対話を行うことが狙いです。

今、若い世代の読解力の低下が深刻な問題になっています。

またSNSなどの蔓延で、ある程度の強制的な習慣がなければ、読書をしないというのも、悲しいながら学生生活の現実です。

ぜひご参加ください。

みんなで学ぶ文化を育てましょう。

2017/10/03
柳瀬陽介


大学院新入生ガイダンスを行いました

学部に引き続き、大学院新入生ガイダンスも行いました。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! こちらは学部と違って、やはりみなさん大人の落ち着きがあります!学部から大学院にそのまま進学した人、一度学部を卒業してしばらく教員をしてから大学院に戻ってきてくれた人など様々です。各...