2017/05/22

「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り



5/20(土)に小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負しています。(注)当初は50名を上限としていましたが、参加希望が多かったので上限を上げました)。


5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による
英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。


主催した側としては、この企画の知見を少しでも言語化し分析しなければと思いますが、言語化はいわゆる「研究者」の専権事項ではありません。参加者の皆さんにも「よかったら言語化して、それを共有させてください」とお願いしたところ、本日時点で3名の方が文章をお寄せいただきましたので、ここで共有させていただきます(書きたいと思っているがまだ書いていない方があれば、遠慮なく柳瀬にお送りください)。






さて、最初に紹介する文章は学部4年のTK君のものです。彼はメールで「久しぶりに振り返りを言語化しましたが、やはり言葉にしないとわからないことがありますね。言語化することの重要性を再認識しました」と書いてくれていましたが、たしかにその通りで、感性のレベルで経験したことを基に、それを逆に損ねてしまうことなく、丁寧に言語化することは、文章を書く本人にとっても、文章を読む読者にとってもとても貴重なことだと思います(特に、感性レベルの経験は月日が立つと文章化しにくくなることが多いのでまさに「貴重」だと思います)。



■ 学部生のTK君

 私は今回、広島大学で開催された小口先生のWSに参加させていただきました。それを通して感じたのは、小口先生は「人を育てる先生」だということです。

 WSで行われたのは、劇を通して英語を使いながら、みんなで一つの物語を完成させるという形式の活動です。2時間という長い時間、初対面の人たちと何か一つのものを作っていくというのは簡単なことではないはずですし、小口先生の手法がそれを簡単にしてくれる、魔法のような手法というわけでもないと思っています。「体と心を同時にアクティブにする」。明言されたわけではありませんが、これが小口先生の行う授業の目的であり、効果なのではないでしょうか。

 参加したのは大学生から現職の先生方まで、幅広い背景と年齢層の方々でした。行われた活動は、初対面の人と手をつなぎ、体を動かし、動きを考え、最終的に一つの劇を作るというものです。正直なことを申し上げますと、最初は恥じらいを感じ、早く終わってほしいと思ってしまいました。きっとそう感じていた人は少なかったと思います。しかし、そんなことお構いなしに小口先生のWSは進んでいきます。そして最後までやりきったときに気づきました。楽しくなっていたと。最初に感じていた恥じらい、不安などはなくなっていました。これはなぜなのだろうとWS後に考え、辿り着いた結論は、「小口先生によって、自然に心を開かれていった」ということです。気が付けば恥じらいはなくなり、不安も消え去り、終わった後に残るのは爽快感と達成感。少しずつ周りの人への信頼感が高まり、協力できるような関係になっていくのを感じました。

 私は小口先生の手法の神髄や、理論について深く理解できているわけではありませんが、これだけは言えるのは、「頑張って、一生懸命なことが恥ずかしくないと気づかせてくれ、そしてそれが当たり前となる環境を作る」ことが、この手法、そして小口先生の素晴らしい力だということです。

 「発言できない生徒へのアプローチ」。これは私が教育実習を通して感じた、学校の授業における大きな困難点の一つです。発言ができない生徒が当たりまえのように教室にいるなかで、先生はどう接すればいいのでしょうか。発言できないのにはいくつか理由があると思いますが、その中でも「間違えたら恥ずかしい」というのは大きな理由の一つです。これは先生に対してよりも、自分以外の生徒に対するものだと思います。誰かが「そんなこと思わなくてもいいよ。自信を持って!」と口で伝えて解決できるものではないというのは、私でもなんとなく理解できることです。しかしそうなると、どうやって解決したらいいのか。この疑問に対する答えを示してくださったのが、まさしく小口先生です。小口先生は、自分がとにかく情熱を示し、芯のある声で話し、一生懸命に私たちと接する姿勢を貫いていらっしゃいました。その姿勢、そして接し方に、気づけば影響を受け、私たちは初めて会った人達と一緒に劇をやりきることができました。

 シンポジウムでお話があったように、このやり方をすぐに普及させ、学校教育に浸透させていくことは簡単ではありません。なぜなら、経験者がほとんどいないから。しかし、逆に言えば経験した人なら、この手法の凄さに気づき、自分なりの解釈の上で実践につなげていけるのではないでしょうか。もちろん、小口先生のやり方をそのままコピーして他の人が実践しても成功はしません。ですがその本質を理解し、先生自身が体と心をアクティブにすることができれば、子どもたちもついてきてくれることでしょう。そして子供たちを成長させていくことができるのではないかと思います。

 この度はこのような貴重な経験をさせていただきありがとうございました。



次は、以前に小口先生のワークショップを経験した高校英語教師のMMさんによる文章です。「役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう」といった認識から、「良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。(中略) 生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか」といった考察を経て読む最終段落は非常に重要な提言をしていると私は思います。丁寧な分析と考察に感謝します。


■ 高校英語教員のMMさん


 最初にこのような機会を作ってくださった柳瀬教授を始めとする科研の先生方に心から感謝をしたい。

 私が小口真澄先生(以下真澄先生)に出会ったのは10年以上も前である。出産をきっかけに学校という職場を離れ、子育てをきっかけに児童英語の世界に足を踏み入れたばかりの頃だった。真澄先生のレッスンを拝見し、英語ではない「何か」に惹かれて我が子を先生に託した。世の中を席巻している「英語ができる子になってもらいたい」という抽象的な欲求や、「自己主張ができる子に」などの欲求でもなかった。どちらかといえば、私自身が教師として、このような指導者の元で子どもがどのように成長するのかに興味を持ち、実験台として送り込んだと言う方がスッキリくるように思う。

 真澄先生ご自身が表現者としても一流である。役者として数々の舞台も経験されている。役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう。今回のワークショップ中も、真澄先生はディレクターであり、役者であった。私たち観客は笑い、聞き入り、説得された。

 さて、我々教師を振り返った時、自分は生徒という観客の前に立つ演者だという自覚がある教師はどれくらいいるだろうか。教師の仕事の大部分は「語り」である。しかしそれができる教師は少ないように思う。「思わず聞いてしまう」説得力のある「語り」は、教員養成の過程においてもあまり重要視されていないように思う。

 真澄先生が長きに渡り全国各地で指導者へのワークショップをされながらも、同等の指導者が生まれていない要因は複数あると考える。

 まず受講者の演劇に関する知識・技術・経験が圧倒的に少ないこと。教育に携わる人で、同時にドラマや演劇を専攻した人は少ない。学生時代演劇部に所属した経験があるとしても、本格的に学んだ人は希少である。元々演者としての才能を持つ者もおり、それが学校という場で開花することもあるが、それでも技術や知識がなければ、相手の感情を引き出すことや心を動かすことは難しい。しかし学校行事において、舞台発表は欠かせないものである。そこに「ドラマメソッド」が活かされれば良いが、それができる教師は少ない。その点においては、幼稚園保育園の先生方の方が、長けている方が多いように思う。

 次に、ディレクターとしての勘と経験値の少なさがある。真澄先生は、経験的にも本能的にも、感情感覚のどこが絡まっているのかが分かり、それを解く天才である。ワークショップの中で何度も人が変化していく様を目の当たりにし、私自身も変化してきたのだが、何度見ても自分が習得できるものではないように感じる。真澄先生が言語化できるのであれば私たちも学ぶことができるのだろうが、その人その人に合わせてその場で感じるものを元に指示されているので、本人が言語化できるものではないだろう。教員や英語講師達が生徒を通して発表する舞台は、保護者や関係者という非常に守られた空間である。観客は知っている子どもを見ることが目的であり、「観客として楽しむ」ことが目的ではない。しかし真澄先生が関わってきた舞台は違う。料金も発生しており、観客はそれに見合うエンターテイメントを求めてくる。厳しい条件の元、多くの感動を作り出してきた真澄先生とは、経験値が違いすぎるのだ。


 さて、本題に戻る。我々英語教員、英語講師は舞台人を育てようとしているかといえば否である。私たちはあくまで「生徒が英語をより円滑に習得できるためには何が大切か」を考えている。言葉の特性上、感情を無視するわけにはいかないので、 真澄先生のように感情を伴った「言葉」を教えられれば、もっと子どもたちは本質的に英語を習得するのでは、と考える。しかし現状は「文字情報」を伝えることで精一杯。演者としての技術もないため、その英文が持つ「ドラマ性」を伝えることも難しい。感情を持って「言葉」を教えることは、感性を鍛えなければならないことが多すぎて、教員自身がよほどの熱心さを持っていなければ手をつけられる部分ではない。「受験に合格させる」ことが仕事であり、知識が重要で、感情や心は点数にならないので重要視しない。教科指導の観点で捉え、英語という文字情報を押し付けることに努力する。

 だが、教室は舞台である。教師という役者と、生徒という観客で成り立つ。外からの介入を受けない独立した舞台で、観客の心を捉える教師が生徒と共に感動する場所である。心が動かなければ、意欲が生まれない。感動は葛藤の解消から生まれる。日々の授業に葛藤の解消があれば、新たな意欲が生まれてくるのではないか。

 我々が体験したワークショップの中にも、幾つもの葛藤があった。「暗闇のワーク」では、条件の厳しさが葛藤を生み、それを解消することで心が動いた。心が動くことで信頼や安心が生まれ、体が緩んだため、歌声が大きくなったように思う。心が動きにくい場合は、あのような非日常的な場面設定を演出することも大切なのではないか。これは役者を養成する分野で多くあるワークであり、このような手法をより多く教師が持つことで、生徒の心をより動かすことができるのではないかと考える。

 良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。例えば、今回のワークの中で真澄先生から何度となく「表現」を求められた。しかし私たちのほとんどは固まってしまい、何をしていいのか分からなくなった。カメラを構えた時の「ピースサイン」のように、ガッツポーズや手を広げるなどのありきたりのポーズで答えてしまう。これは自分たちが本来自由である発想を縛ってしまっているからだと考える。生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか。

 英語DEドラマのようなワークを体験することで、発想の柔軟さを鍛え、役者として自分を解放することを訓練する。このことがまず、教師という人前に立つ仕事に必要なことだと考える。そのまた一歩先として、ディレクターとしての視点で生徒の心を意図的に動かすこと、感情のもつれを解くことを技術として身につけていくことが、これからの教師に大切になってくるのではないだろうか。教師としてそのような基礎を持っておけば、英語だろうが社会だろうが教科に関わらず教室には感動が生まれると思う。

 「文化」が生活から遠くなり、スマートフォンの普及で生活体験が減り、静かな時間が奪われ、心が動きにくい世の中になった。だからこそ、教育者は心を動かす存在でなくてはならない。そのためには技術が必要で、自身も表現者として自分を高める必要がある。ICTなど舞台道具は増えても、教室という舞台で感動を生むことができる表現者は教師であると考える。




次は、ラボ・パーティで指導をしているKRさんの感想です。ラボ・パーティの実践については、私は非常に興味をもち、その縁で以下のような講演もさせていただきました。


ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、
およびそこでの私の講演スライド



KRさんは、上記のようなラボの活動を日頃指導しているテューターとして小口実践について振り返りました。

以下のようなことばは私にとってはとても印象的でした。

「文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です」。

「とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています」。

今回の企画で参加者が経験したことは、「小口実践」や「ラボ実践」という個別の枠組みを超えて、「英語教育の身体性」あるいはそれに類する一般的な枠組みで考え、学校英語教育の改善に貢献したいと私は考えてます。


■ ラボ・テューターのKRさん

 お世話になります。昨日参加させて頂いた ラボ・テューターの梶山と申します。

 これからの世界に羽ばたく子どもたちを育てるには、子どもたちも、子どもの教育に関わる大人(教師、大人、コミュニティ)も、人間としての基礎、土台として、しっかり心を耕す体験を積む必要があるということを、改めて確認し、また、それを、参加者の方々と共有できたことが、励みになりました。ありがとうございました。

 昨日、受講したような演劇教育や物語で心を動かす体験は、自分の心や頭の中で感じている感情や気持ちを引き出す、人と関わりながら考え、他人の考えというエッセンスを受け入れることで、自分自身の中の気持ちを掘り起こすことができる、人が人として生きていくうえで大事な力を養う活動だと考えます。

 特に幼いうちからこのような体験ができる環境にある子どもたちは、自己肯定観を高め、心が豊かになり、自分自信も深みのある人間として成長し、その結果、相手も受け入れられる人になるでしょう。

 一方で、まだ多くの保護者(特に我が子への教育に熱心な人ほど)は、幼少期より英語検定で高いレベルの合格を目指すために、PCなどで単語やフレーズを叩き込ませたり、結果がすべてですからと、上記のような心を耕す活動に寛容になれない現状もあります。実際、我が子が私立進学高校に通っておりますが、国公立大学に進学のために、一日7時間授業の中で毎週テストに追われ、〇進ハイスクールでは、1800個の英単語を、入学したての高1の子たちに1カ月で暗記するまでテスト。センター試験対策には、単語を覚えることで長文のわからない箇所がクリアになるので、これが一番の近道ですと保護者を集めて指導されていました。

 文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です。中3の次男もやむを得ず塾に入れました。小学校でも、宿題がどんどん増えているそうです。全国学力到達テストなどが始まり、管理が厳しくなっているからだと思います。

 そんな現実があっても、私が信じているのは、その子どもたちが家庭やそれまでの教育の中で心を耕した経験がしっかり土台にあるかということです。この体験がその子の伸びしろの支えになっているということです。

 とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています。

 子育てをしながら、ラボ・テューターという活動を通じて、試行錯誤の毎日ですが、やはり、ラボ教育活動が大事にしているのは、心の土台を育てる部分だと実感しています。そこに英語力が結びつくということを、もっと、ラボ教育センターも理論的に言葉にできなければいけないし、活動自体も研究していきたいと思っていますので、今後ともこのような機会にぜひ、参加させて頂き学ばせて頂ければと存じます。よろしくお願いいたします。



 お忙しい中、振り返りを共有してくださった上の三名の方、そしてもちろん、本当にお忙しい中、科研予算・大学規定での交通費・宿泊費・薄謝しか出せなかったのにこのような企画にご協力いただけました小口先生に厚く御礼を申し上げます。

 私としては今回の経験をできるだけ分析・言語化することで、小口先生からのご厚意に応えたいと思います。他の参加者の皆さんも、よかったら感想をお寄せください。







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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。






また、このコンテストの授賞式
最優秀論文に基づく対話の集い
7/23(日)
公開企画として開催します。
ぜひお越しください!







2017/05/19

教英生が米国ウェスタン・カロライナ大学学部生とスクラブルで交流

以下、深澤清治先生からの報告です。

教英は積極的に外部との交流を図っています!





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5月19日、アメリカ・ノースカロライナ州にあるウェスタン・カロライナ大学から学部生6名と日本語プログラムの小野由美子先生が広大を訪問し、教英学部生や教員と交流を持ちました。

学生によるキャンパスツアーのあと、C-620教室で一緒にスクラブルなどを楽しみました。時には教英学生がアメリカ人学生に英単語を教える場面もあり、和やかな雰囲気で楽しい時間を過ごしました。

西日本3大学コンソーシアム留学制度によって、教育学部生はノースカロライナ州の3大学に半年~1年間留学できます。ふるって応募してください。



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10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための声をぜひきかせてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
(執筆言語は日本語です)
締切は6/23です。
ぜひご応募をお願いします!!!










エラスムス交流協定でスペインの Rovira i Virgili大学からRomero Joaquin先生が来られました


以下は松浦伸和先生による報告です。

広大は積極的に海外展開を図っています!





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5月15日から18日までの1週間、スペインの Rovira i Virgili大学からRomero Joaquin先生が来られました。ご専門は英語教育、とりわけ発音指導です。滞在中に、教英の4年生、大学院生、さらには文学部の大学院生を対象に4回講義をされ、多くのことを学ばせていただきました。先生も、英語で意見を述べたり議論するなど活発な学生たちで意欲も高く、 たいへん楽しく講義ができたと高い評価をしていただきました。

先生は、ヨーロッパで歴史のあるエラスムスという交流協定で本学にこられました。

そのため、学部、大学院に関係なく数人の学生たちは無料で先方の大学へ留学できます。

英語教育に関する1年間の大学院プログラムをうまく活用すれば、ダブルディグリーも可能になると思われます。詳細が決まればお知らせします。 





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(執筆言語は日本語です)
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2017/05/18

卒業生のTSさんがASさんになって、教職説明会講師として広大に来てくれました


3年前に大学院を卒業したTSさんが、現在勤めている県の教職説明会での講師として広大に来てくれました。説明会までちょっと時間があったので、しばし教英図書室でお話をしました。




「ずいぶん落ち着いた雰囲気になったなぁ」と思ったら、なんと最近結婚して、姓がTからAに変わったそうです。道理で!

ASさんは、勤めている高校の実情に合わせた英語教育を模索しています。とても生徒思いであることは話の端々から伺えます。同僚にも恵まれているようで、なかなかいい教員生活を送っているようです。そういう卒業生の話を聞けるのは、大学教員としての冥利に尽きます。

卒業生の皆さん、それぞれの場所で人生を充実させてくださいね!




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(執筆言語は日本語です)
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2017/05/12

卒業生との偶然の再会

以下は築道和明先生からの投稿です。

教英の卒業生は大半が教員になりますが、民間企業や公務員になる人もいます。
下のI君はこの3月に卒業して、ある民間企業に入った例です。

偶然の出会いというのもいいですね。

卒業生の皆さん、それぞれにお元気で!





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今朝八本松から広大までバスに乗ってまいりました。
バスの中には運転士二人の姿。一人は指導する側、もう一人は指導されている新人運転手のようです。

アナウンスの声が流れ、どこかで耳にした声だなあと思っていると「私は○○営業所の△△です」とのこと。そうです。この3月に教英を卒業生したゼミ生でした。

英語が駆使できるバス運転士を目指せと鼓舞しておりましたが、こんなに早く再開するとは。

安全運転に徹しており、普段なら10分程度でキャンパスに到着するのですが、今朝は15分、授業始まりにギリギリ間に合いました。

学校の教室だけでなく、このように社会で働く教英の卒業生の姿を見ると嬉しくなります。

Good luck, I君!




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2017/05/09

社会科教育の話を聞いた英語科院生の振り返り


前にも紹介しましたように、現在、修士課程の一年生は「教科教育学研究方法論」という授業で、10の異なる教科の教員・院生と共に学んでいます。

関連サイト
異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/index.html

前回の授業では、特に社会科の教員による問題提起が興味深かったようで、院生の皆さんもいろいろ考えさせられたようです。
以下、よかったら皆さんもお読みになり、これからの学校(英語)教育のあり方について考え直してみたらいかがでしょうか。






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■ 話を社会科の話題提供に移すと、私が改めて重要だと感じたことは私たち一人ひとりの主体性でした。中高生だったころの私は世の中に正解は1つしか無いと思っていたと思います。その正解は教科書や先生、メディア、もっというと国家から与えられていたものでした。しかし、そうした情報や視点に一端待ったをかけ、「正しい / 間違っている」という二択ではなく、「なぜ」「どのようにして」、さらには情報を鵜呑みにしていた自分を客観的に見る力を養うことが本当に必要なことです。教科書を批判的に読むという授業実践などもこうした力をつける一つの方法であり、これは私が中高生のときにはほとんど見かけなかった実践です。

ただし、以上のような批判的な視点を生徒に持ってもらう取り組みにも注意点はあります。中高生に限ったことではありませんが、唯一の正解が得られないことに耐えられない人は多いと思います。どの考え方、情報も絶対的に正しいわけではないと言われていると、やはり誰しも不安になってしまいます。何を信じればよいかわからずに不安の渦中に投げ込まれてしまうと、むしろ極端な意見や情報に流されてしまう危険性もあります。このような事態を防ぐために私たちに何ができるのでしょうか。この問題は社会科に限らず、すべての科目に当てはまります。私自身は今回の講義だけではその答えが出せなかったので、今後の課題に追加しておきたいと思います。



■ 社会科の方からのお話しが強烈で食い入るように聞いていました。何が一番自分の中に強烈だったかというと、「教えている内容を疑え」というメッセージに対してでした。教師にとって教科書は、教える内容はそこに書いてあるし、順序もそれに従えばいいしと、何かと教授には都合がいいものです。しかしそれには、何かしらのイデオロギー的要素や国家による情報統制に影響されてはないだろうか。そのような目で教科書を見たことはありませんでした。

確かに戦時中の日本で、英語の教科書における内容は軍事色が強かったものであったが、あれは国定教科書であって、検定制度に代わった今はもうないと考えていました。そのような統制された教科書あるいは教師によって育てられた子供たちはある程度画一化されてしまい、その教育に対してあるいは社会に対して違和感を覚えられる子が果たしてどれだけいるだろうか?ましてやグローバル人材を育成するなどと躍起になって盛り上がっているが、今の矮小化・多様化している世界で、“日本的”考え方をもった人が対応していけるのだろうかという疑問を持ちました。もし、違和感を持てる子がいたとしても握りつぶされるでしょう。(中略)

こういった状況の中で必要なのは、広い視野をもった教師の存在であると思います。アンテナを張り巡らし、得られた情報を客観的、批判的に鑑み、情報の取捨選択を行う。生徒には1つの考え方だけが正解というような提示の仕方ではなく、生徒に投げかけ考えさせることを行えるような教師像が今求められているのではないかと感じました。今日ではメディアも統制されているような認識があるので、日本のメディアだけに頼らず海外のメディアからも情報を得ることが大切です。


■ 社会科の話題提供の中で,「現実問題と教室の中で教わっていることには大きな隔たりがある」という話があった。子どもたちが「どうせ役に立たない」と思うことの原因の一つかもしれないと思った。また,学校での学びにおいて,「教師の判断基準」が目標・内容・方法を左右してしまう,「子どもの社会文化的状況」が質や量を左右してしまうという話を聞いて,教師が子どもたちに与える影響は計り知れないものがあるということを強く実感した。

 教師それぞれが持つ判断基準に統一されたものはないはずだ。しかし,だからと言って個々の教師が暴走することがあってはならないし,全員が杓子定規に同じ判断基準を持っていては,子どもたちが築く社会は創造的なものにはならないであろう。それゆえに,教師同士が互いの価値観や判断基準について議論する必要もあるし,子どもたちに対しては,自分で判断し,考えるような投げかけをしていく必要があると考える。


■ グループ内対話の成果を発表する際、これまでの授業では時間の都合から単に話し合ったことについての発表と、それに対する簡単なフィードバックが担当の先生より与えられるだけでしたが、今回はグループの意見に対して複数の先生が意見を述べられ、それに対し別グループの学生が意見を述べ、それに対し別の先生が…というような、大きな単位での相互交流が作動しているのが見られました。つまり、今回の授業ではグループという小さな単位での対話のみならず全体という大きな単位での対話が起こっていたのではないかと考えられます。

 なぜこれが面白いのかというと、学生たちがそれぞれの知見を活かして対話したことを共有するだけでも良い対話になるのですが、そのなかに学生たちよりもはるかに多くの知見を有する先生方が参与することにより、対話の深みがぐっと増していると考えられるからです。恐らくこの講義がより知的に面白くなるための要件として、先生方が適切なタイミングで対話を「ひっかきまわす」ことが重要なのだと思います。



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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
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締切は6/23です。










対話について学び続けています

以下は、学部4年生向けの授業「現代社会の英語使用」の受講者の感想の一部です。この授業では英語使用に関する話題を題材にして、スピーチと対話を実践し、それらの技術を高めようとしています。

この授業で身につけた技術が、将来に職場や日常生活で活きることを願っています。







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■ 「完璧な発言を続けていくことが目標ではない。」授業の最後に先生がおっしゃったことが今回の対話の反省を端的に表しています。

対話とは全員の意見をすり合わせていきながら一つの真実・目標に向かっていくものであるならば,いきなり一人の人がその真実に最も近づいたことを言うのは極めて稀であるはずです。ある人の発言に対して補ってあげたり,違う視点を与えたりすることが大切で,それが続いて初めて対話が成り立つわけです。なので,「完璧な発言をすることは目標どころかほとんど不可能に近い」という考え方をするべきではないでしょうか。

そして,その考えを持った上でとにかく発言をする。例えその発言に訂正すべき点が多くあったとしても,他の人がその意見を補ってくれるんだという気持ちを持っておくことが大事です。それをするために,いくつか注意しなければいけないことがあると考えます。


■ 小さな確認が重要であるように感じた。対話においては、他の人との意味がまったく同じではなくても、意味が類似すればいい。その意味の差異を見出しそれについて考えることで新たな発見が生まれる。しかし、確認なしに進む小さな認識のずれが、対話が進むにつれて大きなものになってしまうように感じた。

自分自身を振り返ってみると、歳を重ねるにつれて、「わからない」ということを「わからない」、と言う、大切で当たり前のことを欠いてしまっているように思う。わかったふりや、なんとなくわかった気になっていることはとても恐ろしいことである。自分が発話することについても、ときどき言葉を発するのが怖いと感じる。論点がずれ、話があちこちに飛び、筋道をたてて話すということが十分にできていない。しかし怖がってばかりいては何もできないし上達もしない。教師になって失敗するより学生であるいまのうちに多くの失敗と経験および反省とそれに基づいた実践をしていきたい。

今回の談話をする中で考えたことは、子どもたちに知識とそれに基づく思考力を、多くの失敗と挑戦を、と思う一方で、私自身はそれをできているのか、ということである。いまの思った通りにできないもどかしい気持ちを忘れずに、学生ではなく教師としての意識を持ち、子どもたちと接する準備を急ぎたい。


■ 今回はまるで反省文になりそうだ。はじめからそう思うとなんだか書くのも憂鬱なものであるがそんな回があってもいいだろう、成長のきっかけにすべくしっかり反省したいと思う。

 教師だって、人間だから失敗もするだろうし子どもの前に立つからと言って完璧であるわけもない。お手本であるべき必要性もあるが、それは完成した間違いのない形ではなく、むしろ完璧でない人間の姿としてのお手本であるべきなのだと思う。弱さだけじゃない、それと向き合う強さを見せるのであって強さだけじゃない、誰もがもつ人間の弱さをさらけ出して、かっこつけず、反省して成長していく姿というのも、お手本としての一側面なのではないかと思ったりもするこの頃である。

 さて、まずスピーチについて振り返っていこう。すべての反省点は、これまでずっと、“自己中”であったことに依拠するだろう。対人コミュニケーションに及んで私が私がと、自分の話しかしていないということに言われるまで気付かないとはなんとも恥ずかしいことである。自分が聞いてほしい話であることは大前提としていいだろうが、同時にそれが相手の聞きたい話でなければならない。それなのに、いつまでも自分本位に喋っているばかりではただの自己満足に終わってしまうのである。優しい相手は、にこにこして聞いてくれるのかもしれないが不毛な時間であるうちはスピーチとは言えないだろう。自分にとって、よりも相手にとって重要かどうか、必要であるかどうかということを念頭に置く必要がある。考えてみれば、いや考えなくとも相手本位の姿勢がコミュニケーションの基本だということは誰にでもわかる当たり前のことであるはずだ。

 スピーチをする際には、その原稿を考える。が、その構成の組み立て方についてもまた、自己中であったがために間違った考え方をしていたように思う。大切にしなければならなかったのは単なる起承転結的順番なのではなく、論理的とはいっても、相手の論理を組んだものにするのがスピーチであるということを知った。そしてそれは、相手の思考の流れを考えることであって、まるで子どもたちの思考の流れに沿った授業づくりをするのと同じではないかという気がした。

 対話も同じで、自分の意見をふりかざすのではいけない。しかし、こちらはチームプレイである。個人がそれぞれの役目を果たさなければ、もちろん集団として成り立たない。そういう意味で、私たちはまだ集団になりきれていない。一番の問題は何かといえば、間違いなく皆が黙り込む時間がそれを語っているだろう。あの静かな時間は必要な間、ではなく必要以上の沈黙であったといえる。本当であれば、小さな間が流れている時間も含め対話は進んでいるのであるが、沈黙の多い場合は時が止まってしまっている。まるで一つしかないマイクを順番に回して、次は誰の手に渡るものかと伺っているような空気であった。その間、それぞれが自分の中で次なる最善の発言を考えている。考え過ぎだ、という先生からのお言葉は図星だった。そうじゃなくて、もっと、今独りで考えていることを皆で考えることがしたい。自分の答えを言い合うだけではなくて、その途中を共有できたらいいと思う。他人に聞こえないように押さえ込んでいる心の声を、外に出せるような雰囲気が私たちには必要だった。


■  集団討論ではチームプレイの中での個人の活躍を見ている。日本人は定義を曖昧にしたまま話すのが得意であり、私はその典型であると感じた。わからなくても話の流れに逆らうよりは合わせる方を選択してしまっていた。わからないことや、疑問に思うことを、話の流れを遮ってまで聞いたり確認したりすることは、自分はグループの他のメンバーより劣っていると示しているようなものだと思っていた。しかしグループ内での再確認、共有という立場でうまく質問をすれば、これはチームプレイの一つになる。大切なのはタイミングと言い方で、話がわからないまま流れに従うことの方が自分を最終的には追い込むことになることを学んだ。話の流れを止めることになるため発言するとき、勇気のいる行動であるが身につけたい技術の一つである。努力したい。

 今回、グループのメンバー全員が黙ってしまうことが多く見られた。その時、自分は笑って、他のメンバーと顔を見合わすばかりだった。難しい内容なら「難しいですね」。これだけでいいのにどうして口に出せないのか。誰かが話を進めてくれるだろうと考えているのである。また、ある程度話を回している人が存在していたときどうしてもその人に期待を寄せてしまう自分がいる。そこでこそチームプレイの中の個人の活躍の見せ所だと思った。

 反省ばかりではない。対話中相手の表情を見る余裕が取れるようになってきた。今までは自分は話に参加できていることを示すため少し大げさに頷いたりしていた。相手が話しやすいようにという意識もあったが、自分は対話に参加していることを示すことが目的だった。回数を重ねると対話の仕方が少しずつ身についてきたのか、当たり前のように頷いたりすることができるようになり、その分意識して周りを見ることができるようになってきた。そうすると、対話中の相手の表情からある程度流れの予測がついてくる。同じような意見を持っているのだな、とか、何か疑問に思っているのかな、など次の展開が読める。おかげで随分と楽になる。自分が発言している時も一緒で、相手にどれだけ理解されているのか、表現の仕方は適切か、など表情から自分の発言を振り返ることができるようになった。(少しずつ)

 そして、以前は内容を受けてそれを踏まえての自分の意見を瞬時に発することができなかった。今までは「自分はこう思う。」という意見を述べるに過ぎなかった部分が多かったが、「あなたの意見のこの部分が自分の意見と似ていて」など相手の意見を踏まえた内容を話せるようになってきた。 

 もしこれが教員採用試験での集団討論なら、それは試験であり、合否が決まる場であるけれど、自分を他のメンバーよりも良く見せようというより、このメンバーで今から「いい対話」をしよう、と考えることも自分の余裕につながるのかな、などと思った。(そんな余裕が持てるまで努力したい)





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10代・20代の皆さん、
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締切は6/23です。









2017/05/08

新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返り


以下は、新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返りです。

このような文章を書けるだけの経験をしたことは一生の宝といっても過言ではないと思います。

この写真(合宿最後の瞬間)を見てやってください。



このような行事を毎年続けている教英生を私たちは心から誇りに思っています。



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 幹部学年になって初めて気づいたことがあります。それは、「各学年FWTで感じ取ることができるものが異なる。」ということです。

 僕が新入生として教英に入って来て間もなく行われたFWT。そのときの僕には教英の雰囲気というものもつかめておらず、周りに親しい友達というものもまだ出来ておらず、何もかも手探りの日々。そんな中でのFWTで、先輩方がまだ見ぬ僕たちのために用意してくれたアクティビティを通しながら、先輩方の優しさを感じ、新天地である教英での新たな仲間とふれあい、そしてその機会を出会ったばかりの新入生である僕たちに与えてくれた教英という場所の暖かさが身にしみて感じられ、心震えた瞬間でした。



 それから1年が過ぎた2年生、今度は僕たちにとって初めての後輩のために先輩方と協力しながらFWTを運営する側として参加しました。1年前、先輩方がどんな気持ちで僕たちのためにFWTを創ってくださっていたのかを肌で実感しながらFWTを創っていき、そして後輩から「楽しかったです。」という声が聞けた瞬間、心の底から達成感が湧いてきたことを覚えています。それと同時に、運営では先輩方に頼りきりになっていた僕たちの姿もそこにはあって、上級生のたくましさ、自分も下級生が頼りたいと思えるような上級生になりたいと強く感じました。

 そして幹部学年の3年生となり、僕は1年生2年生を通じて感じたFWTの素晴らしさを下級生の2年生、新入生の1年生のそれぞれに感じてもらいたい、そして1年生2年生と自分がFWTに参加してきたからこそわかる学年ごとに異なるFWTの感じ方を下級生たちに伝えたい、そういう思いからFWTの幹部に立候補しました。

 FWTの幹部3人で昨年末から話し合いを始め、少しずつ少しずつ、時には真剣に、でもそれと同じくらいふざけ、それでもFWTに対して3人が持っていた共通の信念は絶対にぶれないように、FWTの準備を進めていきました。



 4月になって新入生が入ってくると、それまでまだずっと先のことのように思われていたFWTが急に現実味を帯びてきて、時間に追われながら毎日3人で集まって準備をしました。そんな中でもいつもユーモアを忘れず、笑いが絶えない話し合いや準備にとてもやりがいを感じながらFWTまでの毎日を過ごしました。

 そしてFWT当日、3年生である僕たちは幹部学年としてまだ見ぬ行事に不安そうな新入生と初めての運営側で少し緊張した2年生の様子、そしてFWT全体の運営に目を光らせつつも、それと同時にどの学年にも負けないくらいFWTを楽しみました。行われたアクティビティはどれも面白いものばかりで腹の底から笑い、気持ちの高揚からクタクタになるまで体を動かし、まるで少年少女に戻ったかのようにすべてのものに好奇心を注いで全力で楽しみました。

 1泊2日は飛ぶように過ぎ去っていき、最終日の閉会式、そこには前日の緊張した面持ちが嘘のように楽しそうな顔をした新入生、やりきった顔で清々しそうな2,3年生がいました。この時点ではまだFWTは終わっていませんでしたが、それでも僕たちが創り上げてきたFWTが意味を持った、そして僕たちが心から伝えたかった想いが各学年に伝わったと実感できた瞬間でした。



 FWTの最中は絶対に泣かないと決めていた僕は閉会式の間、目に涙をためながらもそれを流す事はなくFWTの全日程を終了しました。ですが、家に帰った後、ふと一人FWTの事を振り返っていると自分の心の奥に押し込めていた想いが溢れでるかのように自然と涙が頬を伝って止まらなくなり、次第に声もあげながら泣きじゃくりました。大学生になって感情の高ぶりで涙を流したのはこの時が初めてで、涙を流しながら自分がこれほどの想いでFWTに取り組んでいたのだという事が再確認できました。

 FWTに深く携わることができて本当によかったと思います。不安を抱えながらも参加してくれた新入生、上級生と協力しながら共にFWTを創ってくれた2年生、そして幹部学年として企画の中心に立ち、1番側で苦楽を共にしながらFWTを創り上げてきた3年生、幹部3人がFWTを創ったのではなく、このすべてがあったからFWTは完成しそして成功したのだと思います。本当に感謝の念でいっぱいです。ありがとうございました。




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「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

5/20(土)に小口真澄先生( 英語芸術学校マーブルズ 主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負していま...