2017/01/09

「わからない」という感性を大事にできる学校を作りたい


学部三年生の授業冒頭で、私塾「松葉舎」を立ち上げた江本伸悟先生のことばを伝えました。

人々が当たり前だろうと思い込んでいる事柄に対して「わからない」と思える完成が、科学にとって(あるいは人生にとって)重要ではないかといった趣旨の文章です。


「わからない」という感性の重要性 -- 江本伸悟先生と学部三年生のことば
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html



それなりに教師志望の学生さんの心に響いたようなので、その感想の一部をここに紹介します。

「わからない」という感性を大事にできる学校を作りたいと思います。





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■ 「分からない」とは、「能力がない」「理解が不十分」ということで、テストで悪い点がついて、行きたい大学に行けないかもしれないし、将来就ける仕事も限られてくるかもしれない ーー そんな「分からない」観をもっていた高校生のわたしは急き立てられるように、いつも何かを理解したふりをして日々過ごしていたように思います。大学に入ると、英語は、世界はわからないことだらけだということに気づき、焦りを感じることが多くなりました。わたしの「分からない」観はほとんど成長していなかったように思います。

”分からなさを養う余裕” ーー いつか腑に落ちるかもしれませんし、わかったふりをしない勇気と瑞々しい感性は誇っていいものなのだと思うと、もっと色んなことを学んでみたいと思えてきます。

私は塾で講師をしていますが、生徒さんたちとお話しする中で「どうせやってもわからんけぇ、勉強するのやだ!」という言葉をよく聞きます。ふとその言葉を思い出して、もしかしたら彼らも以前の私がもっていたような「分からない」観をもっているからだろうか、と思いました。

教師になりたい自分にとって、「分からない」をどのように捉えるのかということは生徒に大きく影響を与えるのかもしれないと思うと、”分からなさを養う余裕”という考え方に出会えたのは自身の財産になるでしょう。


■ たまたま先日見たTEDの動画が、このことに少し関連する内容を言っていた。自分は分かっていると思い込み過大に評価してしまうことほど怖いものはない。むしろ無知よりも恐ろしいと。この考え方は、本当に分かっていない状態とは分からないことに気づいていない状態であるとし、自分の無知に気づいている「分からなさ」を肯定する。

勉強についてよく「分からないところが分からない」という声をよく聞くが、どこが理解できていないかを分かっていればそれはもう理解に近いところにいて、さらなる学びができるということだ。

生徒からたくさん質問が出た時教師は自分の授業が分かりにくかったと肩を落とすよりもむしろ、生徒が分からないところが分かるほどに理解していてもっと学びを深めようとしていると取るのがよいのかもしれない。質問が出ることを歓迎できるような教師が望ましいような気がする。



■ 最初に「わからない」という感性の重要性について少しお話がありました。私はこれまで「わからない」ことはいけないことだと思っていました。考えても「わからない」だなんて幼稚な言い方をすれば「頭が悪い」と思われてしまうと考えていたからです。「わからない」までの過程が露呈することもあまり多くはありません。

「わからない」と言ってしまうと、深く考えてもわからなかった場合と、少しだけ考えて「無理だ!」と早々に諦めてしまってわからないと言ってしまう場合があると思います。私の文章を書く・考えをまとめる力がないからかもしれませんが、「わからない」と言ってしまうとどうしても後者で捉えられてしまうのではないかと怖がって「わからない」ことを表に出さないことが多くありました。しかし、そうすることで結局わかった気になっていたり、わからないままなかったことにしてしまっていたりしたことに気が付きました。

大学が「わからなさ」に向き合う場として最適な場所とありました。大学生になって「わからない」ことが恥ずかしいことではなくなってきたように思えます。「わからない」ことを大切にしつつ、それを何とかわかろうとする努力がさらに必要になってくると実感しています。


■ 今回の講義を振り返って,私は「わからなさに向き合う努力」が十分ではなかったと感じた。「リンゴが落ちる」という当たり前の現象に対して,ニュートンは「なぜ落ちるのだろう?」というわからなさに向き合ったため万有引力の発見につながったという例えを聞いたとき,私自身が「リンゴが落ちるのは当たり前だ」と思っている周囲の人々と同じだったと気づき,私がわかっているつもりのことにもっと目を向けていれば他にもたくさんの思いもしなかった発見があったと思うと,とてももったいない気がした。

また,今の私は「わからない」ことがあればすぐにインターネットや辞書を駆使して調べて解決しようとするが,これも「わからなさに耐える力」が不十分だからこそ,いろいろと試行錯誤したり考えを深めたりすることなく「これはこういうものだ」と決めつけてしまう悪い習慣だと感じた。

「わからないこと」を「わかること」にするためにいろいろと模索して解決しようとすることは良いが,決断を急がずにもっと深くじっくり考えて,本当に自分の納得いくような解答を見つけるために,もっと「わからなさに耐える力」を身につけていきたい。それと同様に,将来自分が受け持つ子どもたちにもその大切さを教えていけるような教師を目指したいと思った。


■ 「科学者の良心は”わからない”という感性の中にある。」額縁に入れてトイレにでも飾っていたいような言葉です。今回の振り返りはこの言葉について感じたことから始めようと思います。

まず、現代の人々がいかに「わからない」に寛容ではないかということです。問に対する答えに即時性を求めすぎているし、自分の中に「わからないもの」がある状況を異常なまでに嫌っています。スマホなどの電子機器の発達もその要因かもしれませんが、私たちは疑問に対する「間に合わせ」の答えをすぐに求めることができる社会にいます。何かわからないことがあればすぐに調べることができる。

ただ、ここでの調べるという作業は「わからなさと向き合う姿勢」とは言い難いです。なぜならもしその、「間に合わせ」の答えすら見つけることができなかったらどうでしょう?おそらく現代社会に生きる大半の人は「は?答えのってないわ。意味わからん。もうええわ」といってその問に関わることをやめてしまいますよね。

僕は、なにか問題が発生した時必ずしもその場で答えが出なければならない、とは思っていません。問題なのは、諦めて関係を絶ってしまうことです。「頭の隅に置いておけばいつかわかる日が来るかもしれない。」この考えが持てないことが問題なのです。

「頭のなかにおいておけば、」と言うのは本当で、ただそうしておくだけで答えがフッと湧いてくることがあります。不思議なことに全くそのことを考えていないときでも。先述した「わからなさと向き合う姿勢」と言うのは、なにも「目をカッと見開き、わからないことで頭をいっぱいにする」ということではありません。後に出てくるHolismではありませんが、本当に身の回りのことは全てつながっています。「当面は頭の隅に置いておいて、視野を広く、いろんなものを見てみよう。」この姿勢が肝要です。ただ置いておくだけなのですから、それくらいはできるくらいに寛容になりたいものです。


■ まず「分からない」を許容する力についてである。そもそも私は「分からない」のは、頭が悪いから、知能が低いからであり、「分からない」ものは勉強したくないと思っていた。

ではそれがなぜか。今までここを問い詰めたことはなかったが、講義を通じて考えてみると、「分からない」自分を自分自信が恥じてしまうこと、分からない状況に耐えられないこと、という「分からない」を許容できないことこそが勉強したくないと感じる原因であり、頭が悪いとか知能が低いとかいうことは原因ではない(多少は関係するだろうが)という先生の話はとても腑に落ちた。

それに伴い、「分からない」と感じて勉強を嫌になることと、「分からない」を解決して「分かった」という喜びを味わうことはたった一歩の階段を登れるか登れないかのことなのではないかなと思った。「分からない」ことへのプラスの捉え方、分からないを許容する力というものを植え付けさえすればその階段は登れて違う世界が見えるようになるのであろうなと思った。

ただ、肝心なのはその考え方、力を養うことは非常にタイトなことであり、それを身につけるように「分からないと思うのはいいことだ」と子どもたちを鼓舞し、子どもたちの「分からない」と思う感性を研ぎすませていくことが教育者の仕事なのではなかろうかと私は考える。


■ この授業の予習をしていると、分からないことが少なくありません。復習をしていても、また分からないことがでてきます。きちんと考えた結果として分からないのか、本質からさっぱり分かっていないのか、さえ分からない時もあります。しかしやはり、予習の段階で何が分からないか、どこで躓いたのかを理解しておくと、授業の中で得られるものが全然違います。''分かる''という感覚をいつもより大きく嬉しく感じることができますし、他の物事との繋がりが見えてくることもあります。''分からない''ということはそれだけその問題に向き合い思考していることなのだと思います。

そうはいっても、分からないことを分からないまま頭に留めておくのはなかなか気持ちが悪いものです。最近は新書や新聞をよく読むのですが、横文字や専門用語が多くなりがちで、分からないことを知らない言語で読んでいるような感覚になります。これを分からないなりに頭にしまえと言われても無理です。

そこで、本や新聞を読んで分からないことや、日常生活でふと頭に浮かんだことをメモするようにしてみました。私は忘れっぽいので、江本先生がおっしゃった「数年後くらいにふと、そういうことだったのかと腑に落ちたりする」ということが起きる前に忘れてしまうからです(笑)。

これは単に記憶しておくためのメモではなく、結局理解するのにも役立つことに気付きました。書こうと思うと、内容を簡潔に箇条書きにしようとか図にしてみようとか、自然と分からないことを自分なりに理解しようとする方向に向かうのです。読書メモは以前からも付けていたのですが、''分かったこと''を忘れないために書くという備忘録のようなものでした。これからは分からない箇所ほど重点的にやってみようかと思います。


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