2017/10/19

塾での資格試験面接対策について


以下もDeweyを読んでいる院生の授業用書き込みです。私(管理人)の授業では、本で学んでいることと学生さんが実生活で経験していることをできるだけ結びつけるように勧めています。




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今回はDemocracy and Educationの第3章を読み、その後最近自分が考えていることを書いてみた。本文と以下の内容では直接対応している部分が多いわけではないが、第3章を読んでいたとき以下の経験が思い浮かんだので、ここに書いておきたいと思う。以下は塾でアルバイトをしていたら誰しも経験するような内容になっていると思われる。

 私は最近、塾で英検の面接対策をすることが頻繁にある。私が高校生のときと比べると、やはり受験しようとする生徒が多いと思う。生徒たちもそうだが、親御さんたちや学校、塾の先生の熱気も非常に強い。小学生から高校生まで、皆揃って受験している。彼ら彼女らの進路に有利ということで、卒業までに特定の級の取得を学校側が求めることが多いようだ。

 しかし、英検の対策を塾で補っているということは、学校がサポートしきれない部分が大きいということだろう。そういった英検取得を求める学校は、学校内でも補習に回す時間で英検対策を実施しているところがあるが、それでも英検に合格できるほど十分ではないらしい。その結果、塾に通える子どもは対策の時間が各段に増えるものの、通えない子どもは泣き寝入りするしかない、というのが現状であると思う。

 それでは、塾に通える子どもは英検面接が十分にできて一件落着かというと、現状はそれほど楽観できるものでもない。多い生徒で週2~3、少ない生徒で週1回あるかないかの頻度で対策を進めている。さらに、一日に英検対策に回せる時間にも限りがあるため、生徒一人に対して使える時間は一日20分そこらである。面接対策が始まるのは一次試験が終わった直後から二次試験当日までの4週間ほどなので、少ない場合だと合計で2時間にも満たない。しかし、そのような状況でも、生徒たちは学校や親御さん、塾からの熱い期待のまなざしを受け、面接対策を受けに今日も私の前にやってくる。

 面接対策をしていてやはり気になってしまうのは、面接中のやりとりが決まったパターンの繰り返しになってしまうことだ。面接官がこう言ったら、こう返す。学校などで面接対策を既にしていて慣れている生徒に、むしろこうした傾向が強いと感じている。自分の発話に意図があるとかないとか関係なく、相手が言ったことを自分が記憶しているパターンのリストと照らし合わせ、それに合うパターンの発話を返す。

 一見コミュニケ―ションが成立しているように見えなくもないが、実際のコミュニケーションとの違いは歴然だ。それは、こちらが少し発話のパターンを変えると、たちまち生徒たちに焦りが見え始めるという点だ。この点については、生徒に責任があるのではなく、私たちのような塾や学校での対策のやり方に責任があると思っている。限られている時間の中で効率的に合格を狙うのであれば、パターンを刷り込むことは効率が良いとされている。理屈はいたってシンプルだ。しかしシンプルなだけに、そのようにして固定したパターンから抜け出すのは困難だ。

 面接官の言ったことに出来るだけ早く正確に反応していく。自分の記憶している定型文を相手の言ったことに合わせて当てはめていく。実際のところ英検準二および二級あたりまではこの手が通用してしまう。二級を卒業までに取得するよう促進している高校が増えてきたが、定型文を正確に産出するやり方で通用してしまっている以上、実際のコミュニケーションにはさほど近くない会話テストを奨励していることになってしまう。

 世間一般ではそれで会話ができるということになっているのかもしれない。それだけ英検の影響力は強くなっている。けれども、仮に英検面接で見られるこのようなやりとりをコミュニケーションと呼ぶにしても、この特殊なコミュニケーションは英検面接に関わる人々の中でしか通用しないことが多い。英検面接の世界でのコミュニケーションだからである。たしかに、コミュニケーションの目的も、手段も、英検面接の共同体の中では共有されているかもしれない。しかし怖いのは、この共同体から一歩外へ出て、外の世界から実際のコミュニケーションを基準とした評価を受けるときだ。英検〇級というステータスが重圧になることもあるかしれない。 

 塾で英検対策を受けられない生徒にとって、英検の特定の級取得を進学の際に有利なものにしたり、大学の受験資格にしたりすることは格差を拡大させることにつながる可能性がある。一方で、英検対策を受けられる生徒にとっても、こちらはこちらで既に上で述べたような問題が生じる。私個人は、今のところ塾に通える子どもと接することがほとんどなので、英検対策も十分にできて、なおかつ、英語を使った実際のコミュニケーションってどんなものだろうか、と生徒が考えることができるような機会を提供していきたい。塾で講師をしていると何かと難しいジレンマにぶつかることが多いが、講師よりももっとジレンマを抱えているのは生徒たちだと思う。そうしたジレンマを少しでも解消できればと思う。



子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない


以下は、DeweyのDemocracy and Educationを読んでいるある院生の授業振り返りの一部です。


この画像は下の院生とは異なる院生の予習ノートです。


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 デューイによると教育は、学習者集団の中で生まれる共感を通して達成されるものである。ここで注目すべきは、教育は、集団がそこにあるだけでは成り立たず、そこに共感が不可欠であるということである。この違いを際立たせるためにデューイは、「教育」と「訓練」という言葉を用いている。つまり、前者が、異なった背景を持つ個人が、自らの思考と意思に基づいて共感的集団をなして、ある概念を獲得しようとしている学習状態を指す。これに対して、後者は、異なった背景を持つ個人が思考と意思を持たずに、個の集合体をなしてある概念を記憶しようとしている学習環境である。

 以上を基に、英語教育の現状についても考えてみたい。現在、英語科においてCEFR等の枠組みに沿った英語力の向上が急がれているのは広く知られているだろう。つまり、より多くの英語の知識・技能を効率よく定着させることが直近の目標として掲げられている。しかも、その目標は、授業時間数への配慮などがされないまま小中高ともに大きく引き上げられる見通しだ。そして、その成果を一般的な英語の技能試験で数値化しようとする動きすら見られる。このような状況に置かれる学習者集団(教師・生徒)は、デューイが言う「教育」・「訓練」どちらに進むのだろうか。私は、その答えは明確であると思う。

 もう一点私が感じていることは、そもそも今掲げられている目標は、本当にこれからの未来を生きる子供たちの為になるのだろうかということである。AIの機能が日々向上していくこの時代に、子供たちが今「訓練」されている力が人間にしか持つこの出来ない固有の力と言える時代は、そう長く続かないような気がしてならない。もしそんな時代が来たとしたら、彼らには人間固有の言語力として一体何が残るのかを、今一度私たちはよく考えるべきではないだろうか。子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない。


2017/10/18

人工知能、メディア、身体、美といった論点を英語教育と絡ませながら共に考えました。


以下は、学部1年生向けの授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の振り返りの一部です。この日の授業では、人工知能、メディア、身体、美といった流れで講義をし、折々に学生さん同士での話し合いの機会を設けました。





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■ うかうかしていられない。前半のAIに関する講義を受けて私はこのように感じた。
AIの導入が本格的に始まるにつれ、人間の職は無くなっていく。AIがさらなる進化を遂げれば、より一層人間の職は無くなる。こうした循環の中、我々に一体何ができるだろうか。

これを考えたときに、私の脳内に浮かんだのはAIでもできるような単純な情報提供ではなく、生徒の複雑かつ人間的な感情を理解し、親身になって寄り添うという事である。

AIというのは莫大な量のデータを集約したものであるから、そのデータに基づき、最適な情報を提供することはできる。しかしAIは、人間が抱える本人にとってすら漠然とした感情に対する対処法は知らない。なぜなら、そういった感情を経験したことがないからである。

そのため、人とかかわる職に就こうとしている身として、今のうちにたくさんの経験をして、感情の豊かな人間になり、AIには対処できない部分を磨いていきたいと思う。


■ 授業中に先生が発せられた「AIが進出して人々の職を奪うような世の中になった時に、自分たちが教師としてどのような教育(キャリア教育)を行ったらいいだろうか」という問いに対して、正直自分には明確な答えが思い浮かばなかった(人間と機械の違いは感情を持っているか否かだと漠然とは思ったが)。グループでの議論や、先生や皆の話を聞く中で、やはり対話が人間にはできると思った。先生の話にもあったように、例えば勉強意欲がわかないような生徒に対して寄り添って話を聞くというのは今の段階ではAIでも厳しいのではないかと思う。

いずれ人生相談のような類もAIはできるようになるとゾッとしたが、それでもやはり心と心のコミュニケーションができるのは人間の大きな長所だろう。それに関連して、表情についての話があったが、人間が気持ちを伝える上で表情は大きなウエイトを占めることを再認識した。予習課題でもあったが、SNSの多用により面と向かった、表情を使ったコミュニケーションが少なくなっていると自分でも実感するため、少し話はそれるが、表情を用いたコミュニケーションをしていくためにも、SNSに依存することなく、うまく活用できるようにしていきたい。


■ キャリア教育に関しては、大半の仕事がAIに奪われるという将来があり、そんな未来で人間がAIと違うことが「感情がある」ことだけだとしたら、残るのは情緒あふれるもの、伝統的な技術を必要とするものだろう。教室でロボットとの会話は無機質でおもしろくなかったと言う人が多かったことを考えると、きっと感情に訴えかけるもの、エンターテイメントの需要が今よりも高まるのだと、私は思う。そうなると、英語教育に演劇をとりいれ、表情豊かに英会話ができることの必要性も高まるかもしれない。どちらにせよ、コミュニケーションにおいては、棒読みは、いくらそれが母語ではないにしろ、良いことでもない。いくら文法や語彙がよくてもそこに感情がないのなら、それは完ぺきな他言語使用とは言えないと思う。




■ まず、前半のAIについて。今回の授業で、AIの発展に伴い、英語教育やキャリア教育の内容に変化が生じることは間違いないと感じた。そして自分なりには、英語教育は、現行の英語を学ぶことを主目的とした内容から、理論の組み立て方 (英語圏の人々の思考は、日本人より理論的だと耳にしたので) やディスカッションにおいての自分の意見の伝え方等の、英語をツールとして使いこなす練習を目的とした内容へと変わっていくのではないかと考えた。

キャリア教育に関しては、良くも悪くもAIの影響によって将来の職の選択肢が激変しているであろうから、予想すら立たなかったのが正直なところである。しかし、自分が高校で受けたキャリア教育の一つにあった課題研究というものは、かなり有意義だった。これは、自分が興味のある分野の現状を知り、問題点を見つけ、自分なりの答えを出すという内容で、主体的な行動力や思考力なしには成立しない。そして、グループで書き上げた論文を大勢の生徒の前で発表する頃には、将来のビジョンを鮮明に描けている生徒も数多くいた。AIが発達した社会で生き抜くには、思考力や創造力が大きな鍵となると授業で学んだので、この課題研究という活動は将来のキャリア教育にも通用するものだと感じた。

 また、有用性以外を目的とする学びについても考えた。とても抽象的な例になってしまうが、誰でもある点までは達することができても、そこから先に進める人とそうでない人が出てくることがある。その違いは、有用性以外の学びの有無 (自分の言葉で換言するなら、どれだけ寄り道や回り道をしているか) にあるのだと思う。

 そして最後に、シンギュラリティの話題から、AIの発展について考えた。AIの行き過ぎた発展により、人間が機械に支配される社会はもちろん恐ろしいものだ。しかし、私はそれと並ぶ程に、理系があまりにも注目されている (文系学部への予算が減らされているのは、理系への期待の裏返しだとも捉えている) 今日の社会を怖く感じている。AIを含む技術の発達によって、確かに生活は豊かになり、救える命は増えるだろう。だが、その技術が悪用された時に適用される法律は十分に整っているだろうか。また、クローン技術に代表されるように倫理的なジレンマは存在する。それなのに、今の社会はリスク<効率と結論づけて文系をないがしろにしているように私は思える。文系と理系の二院制がこの先続くのかが不安でならない。

 次に、後半のメディアについて。英語学習と音の結びつきをグループで話し合った際、英語劇や感情を込めた音読等、さまざまな経験が出てきたが、その一方で本気を出すのは恥ずかしいことだという教室独特の雰囲気は、どのメンバーも共感できた。授業を通じて言語的な身体の獲得を目指すためには、まずこの雰囲気をいかに取り払うかを考える必要があると再認識させられた。

また、私の場合は、長年校外で英語を教わっていた先生が特に英語の音を大切にされていて、その先生のことが思い出された。彼女は、単語の意味が分かっていても正確な読み方が分からなければその単語を知らないのと一緒だ、と私が教わり始めた頃からおっしゃっていた。他にも音読の際には感情が入っていなかったら何度でも読み直しをさせられた。このような彼女の教育によって、何かを得られた感覚はずっとあったが、それが何なのか、今回の授業を通じて少しずつ言葉に表せそうだ。

 もう一つ印象的だったのが、美についてである。授業中にも美に対する考え方が個々で違っていたように、美しさを感じる対象は人それぞれで幅があってもいいのではないか、というのが私の考えである。しかし、以前に比べて各々の美の感覚に自由度がなくなってきている、または他者ありきなような気がする。これは私が前々から感じていたことなのだが、フォトジェニックやおしゃれコラージュという語を頻繁に耳にする現象が物語るように、近年のSNSユーザーの中には他者から「いいね」をもらいたい一心でフィルターやコラージュアプリを駆使して「美しい」作品を仕上げる人も少なくない。

しかし、「いいね」の数が果たして美しさの指標なのだろうか。同じ花火を見ても、SNS用の写真撮影に夢中でレンズ越しにしか花火を見ない人と、パンという破裂音の響きを体で感じながら一瞬しか咲かない花を自分の目で眺める人とでは、後者の方に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。私は決してそのようなSNSユーザーを否定したいわけではない。ただ、他者の反応ありきで成立する美は、自分の心に基づいた美なのかと疑問に感じる。自分の信念を貫いた美こそ、多様性や創造力の根本になるのだと私は思う。

 この点で、有用性以外の学びは大切だ。「私は画家になるつもりはないから、美術の授業は要らない」などと言っている場合ではない。私は今までに同様のことを何度も聞いたことがあるし、実技教科が軽視される傾向は多くの教育現場でも見られると思う。しかし、そうではないのだ。今回の授業、そして授業後のお話を振り返ってかみしめたことである。





■ 最初の話題である、人工知能について。人工知能が今後さらなる発展を遂げ、人間を凌駕する労働力となったとき、人間にできる仕事は何か、AIには不可能で、人間には可能なこととは何か、そのような未来で私たちの生徒や子供たちが生き抜いていくために私たちができることはなにか。なかなか難しく、90分の授業で簡単に答えを見出すことのできない問いかけではあるが、そもそも予想される未来に真正面から向き合い、考えていくことが大きな第一歩なのではないかと感じられた、そんな授業だった。

個人的には、「こういう教育をしたらいいのではないか」「こんな授業をしたら」とみんながいろんな案を出した上で、先生がおっしゃった「そのような授業を受けていない君たちがどうやってそうしていくのか」という言葉が胸に刺さった。

たしかに、「学習の目的を変える」という意見において、私のこれまでの学習スタイルを照らし合わせると、中学生のときは内申点が受験に響くから1年生のころから授業を真面目に受け、高校生のときは内申点が受験に関係ないから3年生だけ必死に受験のための勉強をして、先生方からもそれを望まれているように感じていたし、その期待に応えることが目的になっていたところもあり、将来これから実践していきたい教育を受けたことはないし、望ましい学習姿勢をもったこともない。

これまで教えていただいてきた先生方のせいにするわけではないが、「生きるための力」をつける、もしくはその重要性に気づかせられるような授業を受けた記憶はほとんどない。その経験がないのにどうやって自分が教える、教育する立場になればよいのだろう、と心が不安感でいっぱいになった。

ただこれに今気づかせられてよかったのだと思う。正直、私はこの授業を通して、今までの受けたことのある授業が、どんなに受け身な授業だったかを思い知らされている。この授業では、先生が問いやテーマを与えてくださり、私たちが主体的に考えることのできる授業形式になっている。こういう形式の授業を昔からずっと受けていたら、私の想像力、思考力等はもう少し高い水準にあったのかもしれないと感じる。先生の授業を通して、授業の内容も広く深い学びであると感じるが、授業の仕方も同時に学べているのではないかと受けるたびに思わされている。


■ 今回の授業を受けて、自分が得てきた知識よりも感覚の方がより良いものを生み出すことがあるのだと感じた。これまでは無難に人並みな意見を出して、目立たずに授業を終えようと考えていることが多かった。無感動に知識を詰め込むことに慣れてしまっているのだろうが、無感動よりも疑問を持ち、驚くような発見をすることでより学びは楽しくなるだろう。将来英語の教員になるのだからこの知識はいらない、なんて思わずにたくさんのことに触れて自分の感性を磨いていきたい。




■ マツダのデザインなどを例にとった「アート」の話題に関しては、「身近に感じた美」という難しい事項について考え、意見を交換したが、「美(アート)」について考えれば考えるほど、アートが軽視されており、受験に向けての勉強のみを重視している現在の日本の教育形態が浮き彫りになり、馬鹿馬鹿しいと思った。前半のAIに関する授業を踏まえても、これからの社会で重視されるべきは受験学力などではないはずなのに、未だにこのような形態をとっている日本の教育機関を恨めしく思うとともに、いかにしてそれを変えていくことができるか、われわれも考えていくべきだと感じた。


■ もう一つ印象に残った内容に”美意識”についての話がある。私は最近自分の周りにいる人として尊敬している人の多くが自分で絵をかいたり写真を撮ったりと創作活動にも熱心であるという共通点に気づき、それがなぜなのかしばし考えていた。前回の授業でアートと人のかかわりを知って私はずっとわかりそうで分からなかった答えに辿り着いたような気がした。自分独自の美意識や感覚、あらゆることを見極める目は、アートから培われ、そしてその力がその人自身を形成していくのだ。私自身を振り返ってみると昔は熱心に取り組んでいた絵画や読書などから”時間がない”と錯覚して遠ざかっていたが、これからはアートの世界に積極的に飛び込み、自分独自の美的感覚を磨いていきたい。


■ 今回の授業で私の班内でディスカッションが盛り上がったのは、「教育の現場における『美意識』とは何か」というトピックだ。一言に『美意識』と言っても、クラスメイトが持つエピソードはどれも多種多様で、大変興味深かった。私の持っていた視点とは違った角度からのアイデアは、私にとってより深く「美意識」について考える良いきっかけとなった。よって、今回の振り返りはクラスメイトが発表した「美意識」の視点から私なりに思考を広げてみようと思う。

まず「美意識は人によって異なる」といった定義づけについて、私もその意見に賛成である。しかし、私たち昨今の若者の間では、画一化された美に翻弄されたり、逆に多様な美の形を知り自尊心を取り戻したりといった二極化した風潮がネット上で顕著に見られるようになった。グローバル社会・高度情報社会は経済界に於いてだけでなく、私たちの「美意識」にも大きな影響を及ぼしたと考える。

SNSにのめり込む若者は、自分があげた写真についた“いいね!”の数を自分自身の価値とイコールで結びがちだ。人気アイドルやモデルの外見に似ていれば「かわいい」と友達からたくさんの“いいね!”をもらえるが、彼女たちが本当に欲しいのは“自信”なのではないだろうか。今にも倒れそうな自尊心を、有名人の真似をすることで得た高評価で極めて一時的な“自信”を作り、何とか保っているのではないだろうか。整形依存の人にも同じことが言える。

一方、SNSのポジティブな面については、やはり多様性に満ちた美の形を知ることができる面ではないだろうか。例えば、日本で醜いと見なされがちな太った体は、インドでは富の象徴として、また南米ではセクシーとして好意的に見られている。話は少し変わるが、私は人生の最大のゴールの一つに「自分自身を愛せるようになること」をあげている。画一化された美によってコンプレックスの塊となってしまった女性たちに、そのような形でSNSの恩恵を受け、無条件に自分を愛せるようになって欲しいと思うし、私もそうなりたいと思っている。





■ 機械やAIなど技術の進化によって、教師の役割はどうなるのか?この問いの答えを考える前に、まずAIにはできず、人間だけができることを考えてみる。私が思いついたのは、新たなアイデアを生み出すことや、相手の気持ちに共感することである。 AIには身体がないので、仮に人間が経験したことを大量に集めて、人生相談をすることができるとしても、こういうことがあったという”事実”は伝えることができるが、その時その人がどう思い、どう考えたかということは伝えることができない。対して人間である私たちは、自らの身体で経験したことを伝え、子供の学習へ対する意欲を高めることができるのではないかと思う。また、AIは過去のデータを元にして全てを考えるが、人間は未来を想像することができる。この想像力こそが人間をAIと根本的に分けるものではないかと思う。楽観的な考え方だが、仮に人間がドラえもんのような人間を超えるロボットを生み出してしまっても、その時にはその問題を解決する発明がされているかもしれない。結論として、教師の役割は、この想像力を育成することではないだろうか。

役に立つ以外の学びの意味とは?この問いに対する私の答えは、未知なるものと出会う機会を与えるということである。私自身も感じていたが、学校での学びでは、誰しもが”やらされている感”を感じながら勉強したことがあるのではないだろうか。しかし、この”やらされている”ことによって、子供の将来の可能性は広がると思う。どういうことかと言うと、食わず嫌いと同じで、「数学は難しいから嫌いだ」という風に最初から決めつけて、ある教科に苦手意識を持つ生徒は多いと思う。しかし、その教科をずっとやらされている中で、ふとそれを学ぶことの楽しさにふれ、この分野についてもっと学びたいと思うことがあるのではないだろうか。つまり、学びが次なる学びへと導き、その個人の性格を形作る知識の一部と出会う手助けとなると私は思っている。

身体から意味(情動)が生まれてくるということには、なるほどと思わされた。英語落語で先生が演じられていたように、離れた場所から声をかける場合や、ささやき声で話す時、その状況や場合に応じて、実際のコミュニケーションでは言葉より体が先に動くことがある。やはり英語の授業においては状況設定を行い、実際のコミュニケーションに近づくようにしないといけないと思った。しかし、意見があったように、現在の英語の授業の多くでは、生徒は恥ずかしがったり、周りを意識して、自分自身の持つ優れた発音を隠したり、感情をこめておおげさに会話をすることは少ないと思う。そこで、教師が自ら実践することはもちろん生徒が感情を豊かに英語を話すことができる環境づくりを日頃から行うことが重要になってくると思う。また、ボランティアでも感じたが、アイスブレイクの効果は絶大だと思っている。授業についての知識だけでなく、授業をスムーズに進めるための、教科以外の知識を今のうちに学んでおかなければいけないと思う。柳瀬先生のお話の中で、周りを全く見ておらず、潜入した先生に気づかない教師がいたとあったが、目線を合わせる、周りを見れるかどうかは教師としてとても重要なことだと思う。これらのことをしなければ、教師から生徒への一方的な指導になり、機械が授業をしているのと相違ない。人間の教師であるからできることを、意識しながら、授業を行わなければいけないと思う。 

美とは何か?美とは言葉では表せないものだと思う。私の場合、”美”と言われて考えるのは、大自然を見た時に感じる感情と、なにかをやり遂げた時に感じる喜びに似た感情である。美の定義は人によって違うものだと思うが、私はかねてよりどんな人間でも、何か美しいと感じる瞬間はあると思っている。多くの国があり、様々な問題があるこの世の中だが、言葉で表せない”美”は世界共通のいわゆるメディアで、この美を感じることができることは、とても重要だと思う。生徒がこの美を豊かに感じさせることができる教師になるために、いろんな経験をつんで、様々なものを見ていきたい。





2017/10/12

私は「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、現職教員の方が大学院に学びに来てくださると大学院の学びがより現実的になりますので、本当にありがたいです。





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今日の授業を振り返り,これまで私が使ってきた「コミュニケーション」という言葉は,一体何だったのだろうという気持ちでいっぱいになった。「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれたら,「人と人とが関わり合うこと」という程度のことしか答えられなかっただろうし,「コミュニケーション」について深く考えることもなかった。

しかし,今日の授業を通して,「コミュニケーション」について私の考え方が変わったことは確かなことだ。これは,私にとってDewyの言う”renew”なのかもしれない。今,「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれれば,「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう。これは,Dewyの言う”To be a recipient of a communication is to have an enlarged and changed experience.”を私なりに解釈したものだ。

 これを踏まえて,教育現場での教師と生徒間の「コミュニケーション」について考えていきたい。教師と生徒は,学校という同じ空間の中で多くの時間を共有しているが,「コミュニケーション」に費やしている時間はいったいどれくらいあるのだろうか。1日の流れをざっとではあるが挙げてみると,朝のSHR,授業,帰りのSHR,クラブ活動と教師と生徒が接する時間は長い。しかし,この大半が「情報の伝達」に終わっているのではないだろうか。

 例えば,朝のSHRと英語の授業について考えてみる。朝のSHRでは,簡単な挨拶をして,1日の連絡事項を伝える。ここに,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,次のように変えてみるとどうであろうか。朝のHRでは,挨拶を交わし,連絡事項を伝える中で,生徒の顔を一人ひとり確認して,いつもと違った様子はないかを伺う。ここで気になる生徒がいれば,後で話をする。話をすることで,生徒は内に溜めていたものを吐き出し,気持ちを楽にして,1日のスタートを切ることができるかもしれない。

次に,英語の授業について考えてみる。単語を覚えることや,文法を覚えることに重きを置いた授業展開は,まさに「学びを記号で伝える」ことに他ならなない。ここにもやはり,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,同じ単語や文法でも,その単語や文法を実際に使える場面を増やすような授業展開を行うことで,生徒にとって,その単語や文法は記号ではなく,自分のリソースとしての英語になるのではないだろうか。

 教師が,生徒が必要とするものに目を向け,そのために行動すれば,生徒は変わる。つまり,教師による働きかけで,生徒は成長するのだ。しかし,ここで成長するのは生徒だけではない。教師もまた,成長しているのだ。これが,今の私が考える教育現場における「コミュニケーション」である。

帰国してからは、いかに日本がコミュニケーションのない一方向の教育をしているのかを痛感した。


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、他大学から教英大学院に進学してくれた人がどんどん教英を活性化することを私は望んでいます。






ちなみに以下の文章の最後の方に出てくる「byではなくinの関係性」というのは、Deweyの以下のことばを基にしたものです。

Society not only continues to exist by transmission, by communication,
but it may fairly be said to exist in transmission, in communication.


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第1回目を終えて、正直かなり難しかったが、今回の講義を経て私が考えたことや感じたことをまとめたいと思う。

 今まで、教育と民主主義を関連付けて考えたことがなかった為、Deweyの考えを読んでもいまいちピンと来ていないのが現状だ。ただ、1章を読み終えて何かが私の中で引っ掛かっており、きっと何か私の中で共感したのではないかと思っているところだ。

 今回の章で特に印象深かったのは、コミュニケーションというものが社会や教育の中でいかに重要な役割をしているかに気付けたということである。これは、先生が授業中に仰っていたことなのだが、「日本の教育目的は個人主義的傾向が強いが、外国の場合は民主主義的な教育目的も多く見られる」という言葉に強く共感した。というのも、私の経験を振り返ってどう思う節が多々あったからである。

私が高校1年生の時、幸運なことにアメリカの高校へ約1ヶ月交換留学に行くことがあった。そこでは、現地の生徒に交じって一緒に授業を受けていたのだが、日本の教育とは異なり、現地の学校では授業の方法から教師と生徒の関係性まで目を疑うほど異なっていた。というのも、私の母校はバリバリの進学校で、「授業中は教師の言うことは絶対」「授業はひたすら先生の言うことを覚え、何も口出さない」というような学校であり、授業中に何かを相談したり、教師と議論したりといったコミュニケーションはほぼ無かった。

 しかし、アメリカの高校では生徒と教師が互いに意見し合い、授業中に生徒同士で考え、目標に向かって取り組む姿が数多く見られた。授業に参加してみて驚いたのは勿論であるが、初めて授業を楽しいと思った瞬間であった。クラスにおける教師と生徒の立場はほぼイコールで、授業内にはコミュニケーションの場がいつでも設けられていた。縦のみならず、横のコミュニケーションも取れていたため、クラス全体で1つの同じ目標に向かって歩んでいる印象であった。初めて、クラスという社会集団のなかで私が存在していることを実感したのである。

 帰国してからは、いかに日本がコミュニケーションのない一方向の教育をしているのかを痛感した。高校のみならず、大学でも同じような状況であった。大学に関しては、特に自分の進路に向けて選択した学校なので、自分と似たような目標を持った学生と、それをサポートする教員の関係性が出来たものだと思っていた。しかし、実際は教員のやりたいこと専門分野を扱った授業に、ただ耳を傾け、ノートをとり、単位のために受講するようなものばかりであった。期待していたものの、残念ながら教員と学生の間にコミュニケーションはなかった。ただ、唯一「一集団で一目標に向けて全員で働きかけている」と少人数のゼミではうまくコミュニケーションが作用し、教員と学生が繋がっていた。この時から思っていたが、いかに日本が一方向な教育をしているか、双方向の教育をすれば互いに高め合えることになるのになぜ実践しないのか疑問であった。

 一方向な教育と双方向な教育では、全体が一集団となれるか否かに違いがある。それを左右するものが「コミュニケーション」であると私は考える。ここでも述べられていた通り、コミュニケーションや伝達をbyではなくinの関係性を保つことがポイントとなるのではないだろうか?コミュニケーションをとることで、お互いに共有するものや違う考えを理解し受け入れることが出来、それを認識しながら一集団で生きることが、現代の日本の教育においてかけている部分ではないかと考えた。


英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。若い人の批判的思考によって、しっかりと英語教育が改革されることを私は望んでいます。




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今回は、デューイの「コミュニケーション」観(一部から解釈)と英語科のコミュニケーションを比較し、この比較について私自身の考えをまとめ講義の復習とする。

 まず、デューイの「コミュニケーション」観の特徴を私は、参加者の内的変容を促すものと解釈した。ここで言う内的変容とは、参加者の中で、新たな知の獲得、既知の事項の捉え方の変化等が起きることを指す。例えば、ある事項について、コミュニケーションの中で、他者の異なる考え方に触れ、それを自らの考えと併せて新たな価値観を得ることなどが、ここでいう内的変容であると考えている。つまり、デューイが言うコミュニケーションが成立する条件は、参加者がその中で「本音」、あるいは「実体験」を他者とやり取りすることではないだろうか。なぜなら、本音や実体験を抜きにして、コミュニケーションの参加者の内的変容など期待することが出来ないからである。

 次に、英語科で見られる「コミュニケーション」とは、どのような特徴があるだろうか。現在、英語科では、コミュニケーション活動の充実が叫ばれているが、こうした活動の実態は、事前にインプットされたテキストの内容や教師が指定(誘導)した内容を英語に乗せることにとどまっているのではないだろうか。こうした実態を踏まえると、やはり先述のデューイで見たような「コミュニケーション」とは、無視することが出来ない隔たりがある。ましてや、このような入念に仕組まれた活動の中で、相手の話に反応(驚き、アイコンタクト、相槌)を示すように指示された時の生徒たちの戸惑いは容易に想像できる。

 以上のように英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない。勿論、到達度目標の著しい引き上げを受け、効率的に言語知識を定着(暗記)させることは、現場の事情として十分に理解できる。しかしながら、そこであきらめてしまっては、EFL環境にある日本の子供たちの貴重な第二言語に触れる機会をあまりにも味気ないものにしてしまうのではないだろうか。私自身、教員を志すものとして、将来出会う生徒たちにほんの少しでも多く、本当の意味での自己表現・他者理解を伴ったコミュニケーションの機会を提供できるよう努力したい。

教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能である


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。このような文章を書く院生を頼もしく思っています。





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さて、ルーマンの用語を借りて説明するなら、Deweyは生きることは絶えざるautopoiesisだ、と述べました。機械が外部からパーツを付け加えて機能を発展させていくような形の成長は生命体、人間には不可能で、私たちは食べたものから得た栄養素を何か別のものに変化させるかたちで、つまりはインプット(身体に入れたもの)とは全く違うアウトプット(身体になるもの)を得る形で自己を成長させてゆきます。教育についても、もしくはDeweyも言うようにコミュニケーションについても同様のことが言えるかもしれません。教師Aが頭の中にある知識や技能そのままを生徒Bにコピーするという教育観、話し手Aが「伝えたい事」をそのまま聞き手Bにコピーするようなコミュニケーション観は、理論としては成り立ちうるでしょうが私たちの経験的な実感からするとどちらも実際には起こりえない、もしくは可能であってもそれを理想の教育/コミュニケーションであると断じることはできないと思います。

 教育においてもコミュニケーションにおいても、伝え手が頭の中で思ったことや知識をそのまま表現して受け手に与えることができる、ということは無くて、言語を媒介したり、身振り手振りや、図表を媒介したりする中で「そのままの伝えたい事」はいくらか変容して伝わります。だからこそ、伝えたい事を媒介してくれる言語や身振り手振りに気を付けること―情報を圧縮したり、伝える順番を変えたり、たとえ話を挿入したり、イントネーションまで変えて見せる―ことが伝え手の妙技になるのだと思います。また、受け手(たち)はそうして媒介され変質した伝え手の「伝えたい事」を、それぞれ異なる経験してきた事を下敷きに受容します。ここでも変容が起こっているのではないでしょうか。つまり、伝え手が「伝えたかったこと」は言語やその他のものに媒介されて変容し、受け手がそれを自分の経験をふまえて受容する際にも変容する。教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能であるということが言えると思います。

 しかしこれが教育/コミュニケーションの面白いところで、生徒は教師が教えてもいないようなことを学ぶことができるかもしれないし、伝えたつもりではないことが伝わってしまったりします。もちろんこれはDeweyの話とはずれてくるものですが。

 教育/コミュニケーションにおける「伝えたい事」の二重の変容、そしてそれがもたらす受け手の側での「伝わったこと」のほとんど無限と言っていいほどの振れ幅のために、教師はあらかじめ決定された「最も良い指導」を覚えればいつでも最良の授業ができる、ということがあり得ない仕事です。もちろんある程度のレベルまでは「良い指導」や「伝わる話し方」を技法として身に付けることができるとは思いますが、それは伝え手側の側面、言語やほかの要素による媒介の技法のみしか、見ることができていません。教育にもコミュニケーションにもそれ以上の道があり、そこに向かうためにはそれは受け手側の側面、個々の受け手がどのように「伝えたいこと」を理解するかに思いを馳せること、それを適切に想定したうえで伝え方を変えていくことが必要なのではないか。と考えました。



最も大きな違和感の元は、誰もall Englishの授業が最も理想的であることに対し、納得のいく説明を与えてくれなかったことだ。



以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。このような文章を書いてくれる大学院生を私は誇りに思っています。






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今回印象的だったのは、一つ目に「生きること」とは自分以外のすべてのものと相互に関わることによって、自分を自分で変え続けていくこと、二つ目に「社会」がtransmissionやcommunicationそのものであるということ、三つ目に「社会」は単にそこに属する人々が共通する目的を持っているだけで成り立つものではないということだ。この三つの点は密接に関わっている。

「生きること」は、さらに生物的な意味での「生きること」と社会的な意味での「生きること」を分けることができるかもしれない(もちろん人間にとってはこの二つはほぼ不可分である)。社会的な意味で「生きている」生物は他にもいるかもしれないが(群れで生きている哺乳類やハチやアリなどの社会性昆虫などもいるので)、最も社会性の高い生物は人間である。厳密な意味で言語を習得できるのが今のところ人間だけであることも、人間の「生きていること」が持つ社会的な意味が非常に強いことから考えると納得できる。

個人が「生きること」により他人と関わる際に与える影響は一方通行ではない。この関わりに参加した両方、関わった人数が多ければその全ての人間が影響を受ける。このように個々人が「生きること」によって他の人間に影響を与え与えられる関係が「社会」であり、コミュニケーションの場である。

こうした意味での「社会」を本当の意味での社会だとすると、一般的に社会として捉えられている集団の中には社会として成り立っていないものもあるかもしれない。学校の教室で頻繁に会ってはいるが、お互いにあいさつ程度しか関わりが無い生徒同士はどうか?普段頻繁に関わりがあるわけではないが、会うと必ずあいさつして、学校のことなどを聞いてくれるご近所のご老人との関係性は?色々な関係性を「社会」という観点から見直してみると、漠然としていた関係性が明らかになるだろう。

以上を踏まえて、私個人の変容と、自分が所属して早5年目になる教英という集団について考えてみたい。


1.  自分自身の個人的な変容
(省略) 


2. 英語教員養成機関としての教英の変容

 英語教員養成機関として教英について考えると、自分が学部で受けてきた教育の中で違和感の残る点がいくつかある。また、その違和感の元が未だに批判的に検討されていないことが余計に強い違和感となっている。そのうち代表的なものとして、授業を英語のみで行えることが最終的には理想であると考えられている点である。私たち教英の学生は、入学当初にこの考えに触れ、驚き、その斬新さに憧れる者と違和感を持つ者がそれぞれ自分なりに考えてきた。私は当初、このいわゆるall Englishの考え方に完全に否定的だった。少なくとも自分が教育を受けた学校教育の現場で実行するにはイメージが全くわかなかった。それは自分自身が当時ほとんど英語をしゃべることができなかったことにも関連している。そもそも自分たちが上手く話す自身が無いのに、英語で授業を教えるという実感が全く無かった。この辺りは単に自分の主観に過ぎなかったのだが、当時は素直に拒否反応が出たのだった。

しかし、最も大きな違和感の元は、誰もall Englishの授業が最も理想的であることに対し、納得のいく説明を与えてくれなかったことだ。「文部科学省で決めたこと」「これからの時代はグローバルの時代だから」といった理由がだいたい説明に使われていたが、これがall Englishの授業実施の明確な理由になっていないことは明らかだった。数年後にお世話になった教育実習でも同じようなall Englishの授業を求められた。さすがに日本語の使用を完全に禁止する先生は現場にはほぼいらっしゃらなかったが、all Englishの授業を正当化する説明は聞けずじまいだった。

 私は現在all Englishの授業を完全に否定するつもりはない。英語に触れる機会が多いことが学習者にとって良い経験になることは事実であり、現に私自身が中学高校のときは英語をコミュニケーションに用いることが極端に少なかったので、それを踏まえると状況しだいで良い点も多い。しかし、all Englishの授業が「最も理想的だ」という考えには今でも反対である。そもそも学習者のL1を効果的に使用して学習を補助しようとする姿勢に欠けているし、母語話者の習得環境への憧れのようなものが無批判に存在していると感じる。

 こういった諸々の理由から、この授業方針に未だに十分な根拠を提示しない教員養成機関としての教英には不信感すら感じる。もちろん他の部分で優れた取り組みが為されていることが事実なのだが、自分が入学したときからこの状態が全く変わっていないのだとしたら、それは教員養成機関として「生きている」、また健全な「社会」として成り立っていると言えるのだろうか。また、次の世代の学生たちを迎えるに当たってこの状況は好ましいものなのだろうか。私個人としては、自分が所属しているこの教員養成機関としての教英が社会的な意味で「生きること」を経験するべきだと考えている。



2017/10/11

「私が目にしたアメリカの学生たちは将来の夢や自分がが学びたいことが何かということが明確でした」


以下は、ある授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の予習として学部一年生が書いた文章の一節です。

いかにして学生さんの世界を広げ、彼ら・彼女らの心に火をつけるかを考えながら授業をしています。

これをお読みの高校生および高校教師の皆さん、皆さまとも若者の好奇心や意欲を喚起するために連帯できればと願っています。





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私が予習課題を読んで特に気になったことが三つあります。

一つ目は自律的な学力が付いていないという問題についてです。私はSTARTプログラムでアメリカの大学に訪れた際、日本人学生がこの問題に直面していることを痛感しました。

すべての学生がそうであるというわけではありませんが、日本の多くの学生はこれまで志望校に合格することを目標に勉強してきました。実際に進学校といわれる高校のほとんどの授業が、受験のための勉強、であるように感じます。だから大学に入った今、何を目標にしたらいいのか、自分は何が学びたいのか、本当にやりたいことは何か、ということが分からず、なんとなく毎日を過ごしている人も多くいます。

しかし私が目にしたアメリカの学生たちは将来の夢や自分がが学びたいことが何かということが明確で、毎日平均5時間にも上る勉強をし、世界情勢に関心を持ち、学びに対してとても積極的な姿勢をとっていました。

自分が学びたいから学ぶのだという意識が強いアメリカの学生に対して、日本の学生は単位を取るために学ぶという意識のほうが強いような印象を受けました。だから私たちは考えるということをしなくなり、自律的な学力が欠如してしまうのだと思います。 (後略)





「最近の若者全員がハングリーさに欠けているとは思いません。しかし・・・」


以下は、ある授業の感想として書かれた教英学部一年生の文章の一部です。

授業の中では、Steve Jobsの "Stay hungry"(ハングリーであれ)の意味が、わかったようでわからない、という意見も出たりして、管理人としては、なるほど直接的な身体体験としての空腹をあまり経験したことがない人には、この比喩は理解しにくいものかとも思ったりしました。

だから「最近の若者にはハングリーさがない」というおじさん的一般論にも妥当性があるのか・・・と思っていたところにこの文章に出会い、少し納得できた次第です。





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私が前回の授業で一番印象に残っているのは最近の若者はハングリーさがないといわれているということです。

実は私の個人的な考えでは最近の若者全員がハングリーさに欠けているとは思いません。
確かに、何もない状態からこれほどまでに発達した世界を作り上げた昔の人々比べると今の人々は気力や行動力、パワーなど様々な面で劣っているのは事実です。しかし、私がこれまで会って来た人の中には明確な夢や目標を持ち、それに向かって一目散に、一生懸命努力している人、また努力してきた人が多くいました。だから、一概に最近の若者は、、、というようにいってしまうのは何かすっきりしない気持ちになります。いつの時代にもハングリーに物事に取り組む人がいれば、逆に無気力な人がいるというのは変わらないのではないでしょうか。

しかし私は今の社会の現状で特に気になることが一つあります。それは、一生懸命、熱く、ハングリーに生きる人々が疎まれる風潮があることです。実際に学校や職場でも、何かに熱く取り組む人を冷ややかな目線で見る人がいたり、めんどくさい人だなどと陰口をたたく人がいたり、、、この現状は頑張る人にとっていい状況だとはとても言えません。
ある意味、無関心に生きることがかっこいいと思われている、そんな風潮が少なからずあるように思います。

だからたとえ熱い気持ちを持っていても、それを周りに見せない、ハングリーさがあっても隠してしまう、そんな人が実は多くいるのではないでしょうか。実際に私もゆっくり話してみて初めて実は大きな野望を持っていたり、実際に行動を起こしていたりする人がいることに気づくことが多くありました。みんな、心の中ではハングリーに生きてみたいと思っているのに、周りが気になって、疎まれるのが怖くて、本当の自分が出せないでいるのだと思います。そんな若者の秘められたハングリー精神を引き出すために何をすべきかはまだはっきりとは分からないのでこれからじっくり考えていきたいです。


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Are you hungry?





2017/10/03

「国際学会での発表を振り返って」(IK君・修士課程二年生の感想)






以下は、この夏に国際学会で発表をしたIK君 (修士課程二年生) の文章です。



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 2017713日から715日に、インドネシアのジョグジャカルタで開催された「ASIA TEFL 2017」に発表者として参加させていただきました。今回、ここに国際学会での発表を通して、私が感じたこと、学んだことを文章にさせていただきます。



 今回の「ASIA TEFL 2017」での発表は、国際学会で発表をする初めての経験でした。インドネシアに到着して以降、今まで感じたことのないような不安や緊張を感じました。せっかく少し高めのホテルに泊まったにも関わらず、結局、発表が終わるまでくつろぐことができませんでした。このように、学会中、ほとんど地に足が着いていないような状態でしたが、改めて振り返ってみると様々なことを学ぶことができ、大変貴重な経験をすることができたと感じています。そこで、今回、私が学んだことや経験したことの中から2つを絞り、書きたいと思います。



 1つ目は、「英語で発表 (プレゼンテーション) をすることの心理的負担」です。最初に書いたとおり、国際学会で発表をすることは、今まで感じたことのないような不安や緊張を私に感じさせました。実際、ホテルで1人になったときには、発表に申し込んだことへの後悔を感じるほどでした。しかし、改めて自分の不安や緊張を振り返ってみると、英語の授業の中で、児童や生徒が抱く不安や緊張と同じなのではないかと思いました。英語でプレゼンテーションを行うことは、英語の授業でよく行われている活動の1つだと思います。(実際に私も教育実習の中で行いました。) しかし、生徒がインドネシアでの私と同じように、英語でプレゼンテーションをすることに対して不安や緊張を感じるとすると、それはとてつもなく大きな不安や緊張です。そして、その不安や緊張が大きすぎて、英語の授業が嫌になることも当然あるのではないかと思います。英語で発表 (プレゼンテーション) をする活動が悪いと思ったということではありません。英語で発表 (プレゼンテーション) をするための知識や技能の指導を段階的に行うだけでなく、生徒が自信を持つことができるように、やりたいと前向きに思うことができるように、心理面の段階を考慮することも大切なのだと感じたということです。そして、知識や技能面と心理面の両方で段階を意識する必要性は、生徒が英語を使う活動すべてに共通するものだと思います。



 1つ目として書いたことは、英語教師として働いたことがある人には当然のことかもしれません。しかし、今までそのことを意識したことがなかった私にとっては、とても重要な気付きとなりました。そして来年度から英語の教師として働く身として、現場に出る前に本当に重要な経験ができたと思います。





 2つ目は、「学会の雰囲気」です。今回、国際学会への参加そのものも私にとっては初めての経験でした。したがって、目にするものや雰囲気などあらゆるものが私にとっては新鮮でした。その中でも、特に驚いたことは、発表中の部屋の雰囲気です。今まで日本で見てきた学会では、プレゼンターとリスナーは1対1の関係であり、1対1の関係が部屋の中にたくさん存在しているという印象でした。つまり、プレゼンターが発表をし、質疑応答の時間では、プレゼンターとリスナーの1対1の質疑応答・意見交換が何度も行われるということです。(日本での学会参加経験も多くありませんので、すべてがそうとは言い切れません。) しかし、ASIA TEFL 2017では少し違っていました。プレゼンターが発表をし、質疑応答の時間があるところまでは同じですが、質疑応答の時間に行われることが異なります。1人のリスナーが意見を述べたかと思えば、その意見を踏まえて、別のリスナーが意見を述べます。そして、リスナー同士のやりとりが始まります。またプレゼンターもそのまま傍観しているのではなく、機会を見つけて、自分の意見を述べます。そうしていつのまにかフロアを含めたディスカッションが始まっています。それは、プレゼンターが自分の研究を報告しているだけというよりは、ディスカッションのテーマを提供している、リスナーは受付で配られた ”Participant” という名札通り、ディスカッションへの参加者でした。



 前者が日本の典型的な学会で、後者が世界のスタンダードということを言いたいわけでもありません。またどちらがより良いのかということもわかりません。しかし、リスナーがただ聞くだけで終わらないという学会の雰囲気は自分にとって新鮮でしたし、自分の学会への参加態度を見つめ直すよいきっかけとなりました。





 以上、ASIA TEFL 2017の参加を通して、私が主に感じたことを2つ書かせていただきました。最後に学会終了後の柳瀬先生とのメールを通して、気づいたことを書きたいと思います。



 それは「英語ができることの価値」です。柳瀬先生から学会後、『よく世間では「英語ができるといいね」と言いますが、入船くんも今回そう感じたのではないでしょうか?日本を始めとした非英語圏でやられていることのレベルは決して低くありません。でも英語でないと相手にされないんですよね。』というメールを頂きました。本当にそのとおりだと思いました。「日本のような非英語圏で行われていることは、英語で発信して初めて評価の対象として見てもらえる。そして、何より英語ができることで、日本人以外の人から意見をもらえたり、日本以外の国の教育について知り、視野を広げたりすることができる」これが、英語ができることの1つの価値だと思いました。





 お恥ずかしい話、今回ASIA TEFL 2017に参加するまでは、英語を勉強することの意味を感じたことがありませんでした。(実際、教採で聞かれたら、何と答えるか迷っていました。) しかし、ASIA TEFL 2017に参加・発表をすることでその意味を少し感じることができました。英語教師として働く前に経験ができたことは本当に良かったと思います。(英語教師が英語を学ぶことの良さを感じていないというのはいかがなものかとずっと思っていましたので。)



 大学院が終わり、英語教師として現場に出るまで半年を切りました。この時期になって、努力不足や知識不足、経験不足を毎日感じています。しかし、少しでも知識や経験を増やせるように、少しでも吸収して、現場に出ることができるように、残りの半年も頑張りたいと思います。



最後に、学会参加の経済的援助をしていただいた「グリーン・ウィング教育奨学金」・一般社団法人グリーン・ファミリー様にはこの場をお借りして、改めてお礼を申し上げたいと思います。





関連記事

グリーン・ウィング教育奨学金は、広島大学大学院教育学研究科、教育学部および特別支援教育専攻科の学生を対象として、学生の海外経験を支援しています。

昼休みを利用した読書会へのお誘い


広大学生の皆さん、

月水金の昼休みを利用した読書会(「昼読」)のお誘いです。
教育学部A210室で、月水金の12:05-12:45ぐらいにやっています。



各自、好きな本をもってきて個別に読み、最後の5-10分間で感想を語り合う会です。遅刻・早退あるいは昼食を食べながらの参加も自由です。

定期的な読書(日本語、英語、もしくは第二外国語)をする習慣をつけ、読書を通じた知的な対話を行うことが狙いです。

今、若い世代の読解力の低下が深刻な問題になっています。

またSNSなどの蔓延で、ある程度の強制的な習慣がなければ、読書をしないというのも、悲しいながら学生生活の現実です。

ぜひご参加ください。

みんなで学ぶ文化を育てましょう。

2017/10/03
柳瀬陽介


2017/09/16

ミシガン州立大学に留学した学部一年生の心境の変化


以下は、現在、ミシガン州立大学に留学している学部1年生のUSさんからのメールです。留学開始の時期の様子がよくわかるので、本人の快諾を得て、ここに転載します。




到着して約一週間後の第一のメール、三週間後の第二のメール、教師の勧めで一段階高いレベルの授業コースに入った直後の第三のメールと、本人の心情の変化が書かれていますので、これから留学しようと思っている人の参考にもなるのではないでしょうか。

USさん、改めてメールに感謝します。留学を精一杯満喫してください!






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2017/9/1

先生お久しぶりです、USです。

アメリカに着いて1週間ほど経ち、様々な違いにも慣れて、少し余裕が出てきたので近況報告をさせていただきたく、連絡しています。

現地時間の22日火曜日にミシガン州に到着し、1週間は様々な歓迎プログラムや学校行事に参加し、日本とは全く異なるアメリカの文化に触れて、昨日からは授業が始まり、アメリカの生徒中心(students centered)の授業形式の一端を垣間見て、と、気づけば口がぽかんと開いてしまっているような日々を送っています。

私たちは、英語力を高めるために留学しているので、同じく英語を第二言語として学ぶアジア系の生徒と一緒に、English Language Centerのプログラムの中で学んでいるのですが、その中でも存在する、中国からの留学生との差を感じずにはいられず、落ち込むこともありました。先生の言っていることは理解しているし、その場その場で自分が何をすべきかはわかっているのですが、アイディアが全く出てこなかったり、即座に反応、解答することが出来なかったり、と英語以前の問題に自分がぶつかっているのも事実です。

また私たちは寮で2人で1部屋を共有していて、私のルームメイトが現地のミシガン州出身であったり、同じ階に多くの英語母語話者がいたり、といつも英語に触れられる環境になっているのですが、彼らの話す英語の速さにはほぼついていけず、声をかけるのをためらってしまう自分もいます。

こちらに来て出会った教授には、「今習っている途中なんだから出来なくて当たり前、大丈夫」「こっちには君を知っている人がいないんだからいくらでも新しい自分を見出すことが出来るよ」とたくさん助言をしていただくのですが、なかなかそれが実行できずにいます。

初めての留学でネイティブの日常生活レベルのスピードについていけなくて落ち込む、というのは我ながらおこがましいことであるし、高望みしている、ということはわかるのですが、どの段階でどこまでできればいいのかの目安さえつかめていないので不安に思ってしまいます。

…とここまで書いた内容だと、あまりにネガティブになりすぎているようで心配をおかけしてしまいそうなのですが、こうしてたくさんの出来ないこと、挫折に近いもの(まだ1週間なのでそう決めつけるのも早いですね)を経験できているのは、私にとって貴重なことであるということも同時に感じています。すべきことが見つかった、という段階で終わるわけにはいきませんし、両親が私の夢に多額の投資をしてくれて経験できる3か月半の留学だからこそ何かしら成長しなければ、と焦ってしまいもしているのですが、それでもアメリカに来て今までと違う生活を送ることで、趣味、勉強ともに日本に帰ってしたいことが見つかったり、見つけようという意志が出てきたりしています。

そしてこのメールを作成していて思ったのですが、私は授業だけでなく、日々の生活も生かさなければ…といつもいつも自分を鼓舞しつつも、周りの人とたくさん話をする、という日本にいた時でさえもあまりしていなかった、私のキャパを超えるようなことをいきなりは出来ない、という葛藤を感じているのかもしれません。やはり現地の人と直接話すことが出来るというのが留学の醍醐味であるということはわかっているので、それではなくそれ以外のことをするのがもしかしたらもったいないのではないかと思っているような気がします。これが、上にも述べたような、どの段階でどこまでできればいいのか、という点にもつながってくると思います。

始まって間もないので、不安も決意も曖昧にしか触れられていないのですが、今の私の心境、状況を共有させていただきました。





2017/9/13

先生、お返事ありがとうございます。

お体の調子はいかがでしょうか。多くのお仕事に加えて、暑い日が続いていたり、急に天候が変わって大雨になったりと、安定しない気候変動も関係しているのでしょうか。どうかご自愛ください。

こちらに来て3週間が経過いたしました。授業期間が始まる前に、留学生は一斉にプレイスメントテストを受けてLevel1-4の4グループに分けられ(おそらく日本人含め全員が3か4に割り当てられ、その中でもクラス分けが行われます)私もLevel4で2週間授業を受けていたのですが、今日留学生のアドバイザーの方にMSUの正規の授業を受けるための直前である、一つ上のLevel5にあがってみないかと提案していただきました。

周りの中国からの留学生の英語力に圧倒され劣等感を感じながら、また日本と異なる、アメリカ形式の授業の中でいろいろ試行錯誤しながらの2週間でしたが、自分が意識していないところで、私の受けていた4クラスの教授が認めてくださっていたようです。

すでに授業は始まっているし、クラスメイトも教授も全く知らない状態からのスタートになり、加えて私自身まだなぜ認めてもらえているのかわからず悩んでいる、と相談すると、アドバイザーの方は、あくまでも提案で強制はしないけれど、長年経験を積んできた教授の方々は授業とまだ数少ない提出物からでもあなたの力がわかるんだよ、とおっしゃってくださりました。

この時期に移動するということは決して簡単なことではなく、不安もありますが、きっとこんなチャンスはなかなか得られないとも強く感じました。自分を今可能な最も良い環境におくために挑戦し続けることが、私が留学をした意義である、と再確認し、提案を受けることにしました。

日常生活の中で英語母語話者の方と会話をする、というのはまだ少し勇気が必要ですが、Japan Clubという日本に興味のある生徒が集まるグループに参加したり、授業とは別に開かれるEnglish Conversation ClassやCoffee Hour (学年、生徒先生地域の方のくくりは関係なく自由にいろんな人とお話をする会)、子供たちに日本語を教えるボランティアなどのコミュニティに参加したりと、自分のキャパを超えない程度に与えられた環境、時間を積極的に活用するよう心がけています。きっとこれが「コミュニケーションの流れに自らを放り込む」ということなのだと感じています。

教英ブログへの掲載、喜んで引き受けさせていただきます。私自身を表すものとして、言葉を大切にしたいと常々思っているので、とてもうれしいお言葉です、ありがとうございます。

生活の大部分を占める授業環境が変わるので、さらなる困難にぶつかることは簡単に予想できますが、その中で良い精神状態悪い精神状態の波にもまれながら、良い方向に進んでいければ、と思います。

繰り返しになりますが、お体には気を付けてください。




2017/9/16

昨日早速初めての授業があったのですが、これまでの内容と難易度がかなり違って、また改めて頑張ろうとやる気に火がついた気がします。

先生が紹介してくださったブログ読ませていただきました。

 [北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる私の勉強法』幻冬舎 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013_4.html]

最高のパフォーマンスをするためには全ての土台となる自分の心と向き合う事が必要であり、その心が周りの環境に左右され、自分らしさを失うことのないようにすることが何よりも大切なのだと感じました。

幸運なことに私は文章を書く事が好きなので、課題として出るエッセイに楽しく取り組む事が出来ています。純粋に文章を書く事が好き、という事に加えて、作文を提出して一定レベル以上の評価が返ってくることが保証されているからだとは思いますが。他にも様々な事を楽しめたら、と思っています。

キャンパスの写真4枚と、ミシガンでの生活でお世話になっている先生のうちの1人との写真です(キャンパス外)。他にもプログラムの一環で様々な場所を訪れたのですが、今回は大学に焦点絞ってみました。選んで使っていただいても構いません。

それでは。







2017/09/15

学部四年生のOAさんが、スクラブル大会 (第一回英棋戦) で最優秀学生賞をもらいました!



教英の学部四年生のOAさんが、神戸で開催された全国規模のスクラブル大会 (第一回英棋戦) で最優秀学生賞をもらいました!

このゲームを通じてOAさんの世界がどんどん広がっています。

大学時代はいろんな挑戦をする時代です。皆さんもどんどん世界を広げてください!






以下は、そのOAさんの報告です。



神戸でのスクラブル大会 (第一回英棋戦) のご報告



 99()から11()に、NHK神戸放送局の一角をお借りして、スクラブルの大会が行われ、参加してきましたので、ご報告致します。

 スクラブルとは、英語クロスワードゲームと言い換えられることがあります。盤上にプレーヤーが交互に英単語を作り、クロスワード上につなげていくゲームです。作った単語に応じて与えられる点数の合計を競います。広島大学では、英語教育学講座のソング・キャサリン先生の呼びかけに集まった学生が週一回程度集まってスクラブルに取り組んでいましたが、昨年冬から正式な大学の愛好会 (Hiroshima University Scrabble Players, 以下HUSPs) として発足しました。これにより、大学外での行事に参加しやすくなりました。

 「第一回英棋戦」と銘打った今回の大会では、3日間で17試合を行い、私自身は11勝を挙げて、BEST STUDENT(優秀学生)賞をいただきました。練習の相手をしてくださったソング先生やHUSPsメンバーのおかげであり、また日頃からお部屋を貸してくださり見守ってくださる英語教育学講座のみなさまのおかげでもあります。この場を借りて、お礼を申し上げます。



 どの試合でも、勝ち負けに関わらず、ゲームや対戦相手との交流を楽しめました。ゲームそのものが楽しいのはもちろんのこと、ゲームが終わってからボードを囲んでお互いの知らなかった単語について話すのがまた楽しい時間でした。

 世界レベルの強いプレーヤーもいらっしゃいましたが、到底かないません。そのような方と対戦すると「ショックを受けるのではないか」と聞かれたことがあります。私にとっては、そのような方々とゲームをすることは、見知らぬ単語との出会いにあふれており、楽しいものです。あるいは、盤上のアルファベットを見て、その空欄を埋めればどのような単語ができるのかを思いついてしまう、柔軟な発想を目にすると感銘を受けます。

 今回の大会「第一回英棋戦」は、スクラブルの普及及び日本全国のスクラブルプレーヤーの交流の場を持つことを目的として行われました。広島大学からの4人に加え、その他10名程度の社会人の方が参加しました。これまで私は、スクラブルを通して県内の大学生と世界レベルの香港や日本の一部のプレーヤーと出会いました。今回の大会では、このどちらでも出会わないスクラブルプレーヤーと知り合うことができました。開催地地元の神戸に加え、大阪、滋賀から社会人の方々が集まっており、アメリカ人やイタリア人の方もいらっしゃいました。大半が仕事でも英語を使っていらっしゃり、またその方々の職業は私の身のまわりでは耳にしないようなものであり、興味深いお話を聞くことができました。

 大会で行うスクラブルは、HUSPsが普段取り組むゲームとは少し違い、厳密な時間制限、辞書使用の制限などがあります。そのようなゲーム中は会話をさほど交わさないので大会仕様のゲームは好まない人もいます。しかし、私は大会にも積極的に参加したいし、そのために練習をしようとも思います。それは、大会に参加したからこそ出会えた方がいたと感じているからです。スクラブルそのものに、私は人と人とをつなげる力があると思っています。(5月に広島大学にてウェスタン・カロライナ大学の学生たちと交流した際にも強く感じました) その上、大会仕様のゲームにも慣れておけば、自分から出向いて出会いを求める機会が増えます。

 スクラブルは、意味を知らなくても単語の綴りさえ覚えれば、「強いスクラブルプレーヤー」になることができてしまうという懸念がありますが、それは今大会の主催者や、HUSPsが望んでいることではありません。今大会では、単語の意味を確認する会話があちこちで行われていましたし、ゲームの進行に欠かせないが見慣れぬ単語も多い2文字単語、3文字単語については、意味の添えられたリストが全参加者に配布されました。スクラブルを単なる文字のパズルゲームとするか、教育的なものにするのかは、プレーヤー自身や周囲の取り組み方次第だということも、今大会で改めて考えさせられました。

 現在HUSPsでは、週一回8-10人程度のメンバーが集まり、英語でおしゃべりしながらスクラブルを楽しんでいます。英語文化系コースの学生も多いですが、他コース、他学部で自身の英語を伸ばしたいという意欲的な学生が集まっています。語彙を増やしたい、スピーキング練習の機会がほしい、パズルゲームが好き、いろんな人とコミュニケーションを取りたい、という方に特におすすめしたいです。誰もが初心者としてやってきます。いつでもゲスト歓迎しています。まずは一緒にスクラブルに挑戦してみませんか?




学部4年次生による「対話」についての振り返り


 以下に掲載するのは、学部4年次生用の授業(現代社会の英語使用)で演習を行った対話に関する学生さんの振り返りです。

 「対話」といっても、それが結論などをまったく必要としないブレイン・ストーミングのようなものか、それともある程度の合意を必要とするものなのか、などによって、そのあり方は多少変わります。授業で行った対話は、教育現場での話し合いを模擬的に行ったこともあり、ある程度の合意を求めるものでしたが、それでも結論を性急に求めてはいけないということについては変わりません。

参考:
David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/04/david-bohm-dialogue.html
感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html
ボームの対話論についての学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_8.html 

 下のまとめを読んでみると、私自身、対話の技法についてもっと熟達していかねばならないと思わされます。

 家庭でも職場でも公権力の場でも対話は重要です。

 皆さんも下のまとめを読んで、日頃の対話のあり方について再びお考えになってはいかがでしょうか・・・







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■ OAさん

 対話とは、参加者個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、新たな考えを創造できるというものであり、集団で思考することである。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 また、結論を出すことに固執しないものであるが、私はこの意味をはじめ取り違えていたようである。はじめは、結論を出すことよりも、全てに連動性があると想定してお互いの意見を聞き合い、新たな発想にたどり着くことが大切なのだと捉えていた。しかし、対話の活動を重ねていくうちに、結論を出すこと自体が否定されているわけではないこと、むしろ結論が必要なときは往々にしてあるということを感じた。それらを経て、結論を出すことに固執すべきでないというのは、単に結論が出て議論が終わることすべてが非理想とされているわけではなく、例えば結論を出すことだけに執着しすぎて、ある個人の意見をそのまま採用して次の議論に踏み込むといった性急な対応がまずいということだという理解に至った。

 「対話は集団で思考すること」ということも、最初は思考する脳みそを持ち寄るイメージ程度にしか理解出来ていなかった。比較的うまく進んだ対話を踏まえて考えると、思考のプロセスまでも共有して自分ひとりではなく、参加者全員で対話を創っていくことが集団で思考することなのだと考えられた。そういう対話のあとに振り返って話すときに、「あまり『何言おう』って考えていなかったでしょ」と言われ、確かに、一人で黙って思考していた時間はほとんどなかった。それよりも、誰かの発現を聞いてまとめたり疑問を投げかけたりしていたように思った。

 自身が対話を重ねる上で感じた対話の意義は、多様な考えを持って集まる人間同士の対話から学べることがあるということである。自分が教員になったときには、対話を生かした授業をしたいし、その意義を伝えたいとも思えた。

 対話をするときはどのような心情になるだろうか、という問いに、対話の実践を重ねる前の私は、「楽しいはず」と発言した私であったが、その後対話を重ねるにつれて、もっと悩ましく、けれどもその悩ましさを楽しめる程度の楽しい感覚だったのかと思いはじめていた。しかし、あるうまくいった対話では、参加者の一人が講義時間終了後も続けたいくらい楽しいと口にした。このとき、苦しい悩ましさは有意義な対話に必須なものではないのだと思うことができた。



■ OT君

対話について

1 受容力を持って

 対話でまず重要だと感じたのが相手のいったことをまずは受け入れるということである。特に最初のほうの対話では自分の言いたいことにばかり気がいってしまって相手の述べたことにあまり関連性のないことを続けていってしまうようなことがあり、話につながりを各場面がよく見られた。自分の考えがあってそれを伝えたいのは自然なことだが、まずは相手の言った事を理解してそれに自分の考えをすり合わせる形で意見を述べないと、対話としてどの方向に話を進めていけばいいのかわからなくなってしまう。また相手の言ったことが少し違うと思っても頭ごなしに否定しては対話話進まない。たとえ理解できなくても一旦受容する。そこからわからない点を整理していく態度が対話では重要になってくる。


2 同じ方向性をもって

 対話においてそれぞれが好きなことを自由言っていては何もまとまらない。参加者全員が同じ方向、同じ目標に向かっていなければ対話は成立しない。対話においてただひとつの答えというのは存在しないため、目標といっても確固たるものはなく「よりよいもの」を常に目指していくほかない。それゆえに皆で目指す方向を揃えるのは難しい場合もあるが、細かく確認しあいながら対話を進めていくことでズレは修正していくことができる。授業中で教えていただいたジャングルで小屋を作る喩えはこのことを理解するのに非常にわかりやすかった。「小屋を建てるのには、それぞれが材料を集めてきても、一つ一つの材料をどのように使うのか、他のどの材料と組み合わせるのか、などを確認しなければならない」ように、対話をつくりあげるにはそれぞれの意見を適切につなぎあわせていかなければならない。その際にどのような材料があるのか、どこまで出来上がっているのかを細かく確認していかなければならない。

 明確な目標がなく不安な面もあるが、チームとして協力していくことにより、みんなでよりよいものを地道に作り上げていくのだ。その際に上で述べた受容力がなければ他者をチームの一人としてとらえることができず、協力してよいものを作ることができなくなるため、やはり受容力は大切になるのである。同じ方向性を持っていればそのチーム内にも自然に自分の担う役割のようなものが見えてきて、どのように貢献できるかを考えながら話を進めていくことができるのである。


3 話しやすい環境を作る

 話しやすい環境を作るにはそれぞれの発言に対してお互いに反応をしてあげることが必要になる。発言に対して反応が何もないと非常に不安な気持ちになる。不安な気持ちを持ってしまうとそれから発言をひかえるようになってしまい、自由な発言が出ずに対話は停滞してしまう。したがって発言に対しては何かしらのレスポンスを返して、信頼できる関係を他者と築いていかなければならない。その際のレスポンスは言葉に限ったものではなく、態度や空気を全て含めたコミュニケーションである。

 また自分の考えることを正直に口に出すことも対話をしていく上で大切になる。たとえ話の流れがわからなくても、自分の考えに自身が持てなくても、何も発しなければその人が何を考えているのか、何をわからずにいるのか他者が理解することはできない。したがってわからないこともわからないことで正直に認め、自分に不足している部分は他者に補ってもらうぐらいの考えで対話に望む必要がある。こういった信頼関係なしに、対話はつくりあげていくことはできない。


4 声

 自分の発する声によって相手やその場に与える影響は変わってくる。自分がわからないときでもただ漠然と「わからない」と伝えるのでは、相手も何か間違ったことを言ったのではないかと身構えてしまう。「自分は○○と捉えたのですが、正しいですか?」のように相手がどう感じ取るかを考えることで相手も不安を感じることなく改めて理解できるように説明することができる。自分の発言によって相手が、その場がどのような反応をするのか考えた上で、その時々に相応しい声を発していかなければならない。

 また対話が滞ってしまい、困った状況に陥ったときでも、声によって状況を打開する可能性もある。困ったときの困った顔をずっとしていても困ったままで終わってしまう。したがって困ったときこそ、あえて笑ったり明るい声をかけたりすることで、一度雰囲気をリセットし、プレッシャーの少ない自由な考えを促す。

 これらのように声によって同じ状況でもいい状況に展開できたり、逆に望まない方向に陥ったりする。声の持つ力の大きさを常に意識する必要がある。



■ HKさん

1.「対話」…って?
 

 会話とは違うもの。

 スピーチとも違うもの。

 特に結論は急がないもの。

 でも霧が晴れたりするもの。

 到達点はないけど方向性はあるもの。

 何らかの必然性を抱えたもの。

 TruthとCoherenceが共存するもの。

 相手がいるもの。

 でも自分を相手にすることもできるもの。

 うまくいけば新しい何かが生まれるもの。

 だから展開の予想できないもの。

 自身の変容。

 つくるもの。時にはチームプレイ。

 それにはテクニックがいるもの。

 それは思いやりでできているもの。

 一人一人に大切な役割があるもの。

 ことばだけで成り立つものではないもの。

 心の声の集合。

 進むもの。

 時に止まったり迷ったりするもの。

 なかなかうまくいかないもの。

 でも、

 本当はすごく楽しいもの。

  対話には、こんなにもいろいろな側面がある。授業を受ける前の私は、今挙げた中の何一つ答えることができなかっただろう。身をもって感じたことだからこそ、今こうして言うことができる。ただ、これらの感じたこと全てを、「対話」の定義としてひと言で表すことにあまり気が進まない。なんとなく、言い切れない気がするからである。そこで、「対話」を学んだことの成果が、必ずしもそれを簡潔に定義できることではないという都合の良い考え方をすることに した。「対話」に関して私の体が得た経験と知識全てに学びの価値を見出し、その総体を私の中の「対話」として定義しておくことにする。如何せん私はまだ 「対話」の全てを知らない。「対話」を考えることの、まだまだスタートラインに立ったばかりなのである。しかし、この授業のおかげでスタートラインに立てたことを大変嬉しく思う。


2.私たちの対話を振り返る

 はじめはなかなかうまくいかなくて、「対話」というものを探り探りに進めていった。皆、これって対話といえるの?これで合っているの?という不安を抱えていたに違いない。しかし回を追うごとに、私たちの対話は少しずつではあ ったが確かに、対話に近づいていった。

 私たちが打ち当たった最大の壁は、「沈黙」ではなかったかと振り返る。その 時私たちの対話に流れていたのは意味のある「間」ではなく、苦しい「沈黙」 の時間だったのである。それがいけないことは皆わかっていた。ただ、どうし てもまだ“言うことがまとまっていない”のである。それぞれが、それぞれの 頭の中で必死にそれまでの対話を整理し、次に発言する自分の意見を練り、汗をかいていた。あるいは、対話についていけていなくて焦っていたりした。どうして、私たちはそれをさらけ出すことができなかったのだろうか。一人ずつ 順番にマイクを回していくような、意見の発表会にして自らを苦しめていたの だろうか。みんなで考えればいい、みんなで悩めばいい。そんな簡単なことに、 はじめ気づくことができなかった。

  対話において、黙っていることが一番してはいけないことだ。というより、 黙っているうちは対話になっていない。もちろん、何も考えないでポンポン発言し続ければいいということではない。ただ、ゼロからはどんな化学反応も生まれない。何も始まらないのである。

 そのことを知ってから、皆の意識は変わっていった。しかし、すぐには変えられなかった。苦し紛れの葛藤が続いた。わからないことをわからないと言ってみること、立ち止まって確認しながら進めていくこと、流れをつくる問いを投げかけてみること、相手を受け入れてから発言すること、方向性を明らかに すること…。いろんな知恵を得て、やっと皆の心が一つになった時、心地よい 対話が生まれた。一つ一つの変化は、対話をするごとに一進一退しているよう で大きく目に見えるようなものでもなかったが、だんだんと同じ方向に意識が 向いていっていた。いいチームワークが、いい対話をつくる。そう感じた。気づけば、一人では到底辿り着くことができなかった場所にいる。それが対話だ。 話し合ってよかったね、と笑って言いたい。



2017/09/14

学部3年生による『英語教育と「訳」の効用』の書評


以下は、学部3年生のN君がある授業における「自主課題」として提出してくれた、『英語教育と「訳」の効用』の書評です。




中高の英語授業における英語使用の促進は、同時に「日本語は使うな!」という流れにつながっていますが、N君がまとめるように、「英語授業では絶対に日本語訳をするな!」といった意見は、「英語授業では必ず日本語訳をせよ!」といった意見と同様、頑なで非現実的な見解かと思います。


以上のように, 二言語併用は様々な恩恵がある。ただし注意しなければならないのは, 著者も度々述べているように, 「訳の使用は既得言語使用の一形態にすぎず, 唯一の形態ではない」ということである。(p.7, p.84)これを忘れればかつて直接教授法が教育訳を排斥したのと同じような「魔女狩り」に走ってしまう恐れがある。教育のあり方を考える際には, 全ての学習者にとって効果的な教授法は存在しないのだから, 「これが絶対」と言い出したが最後, 教育訳は, 直接教授法が辿ってきた道と同じ道を辿ることになるだろう。これは避けねばならない。


この書評は、「訳」 (translation) について丁寧に考えた本を、N君が丁寧にまとめたものです。

もちろん、まとめただけではなく、N君の見解も入っています。

学習者だけでなく教師も研究者も, 結局は何らかの思想ないしは感情に動かされて, 英語に対して都合よく枠組みを与えているだけなのではないか。そのような凝り固まった考えを解し, 言語学習・外国語学習には, それを使いこなせるようになること以上に重要な側面があるということ, 二言語併用と教育訳はその即面を理解する助けになるということを学習者に示す指針として, ぜひ本書を読んでいただきたいと思う。



以下、長い文章ですが、現役の英語教師の方々にも読んでほしい書評です。
N君、ありがとうございました!


*****

書評
『英語教育と「訳」の効用』
ガイ・クック著
斎藤兆史・北和丈訳
研究社
2012年



目次



1. なぜ本書を選んだのか

2. 本書の内容紹介

   2.1 書題に関して

   2.2 注意すべき用語

   2.3 本書の構成

3. 本書が提示する重要論点

   3.1 「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別するべきか

   3.2 教育訳はいかにして迫害され始めたのか

   3.3 訳はなぜ論じられてこなかったのか

      3.4 第二言語習得理論と教育訳

      3.5 二言語併用の恩恵

   3.6 等価性に注目して訳すことを考える

4.  本書の意義






1. なぜ本書を選んだのか

 中等教育における英語教育が, 「コミュニケーション能力の育成」へと転換して久しい。その中で, 訳すことは「時代遅れ」というレッテルを貼られるだけでなく, 円滑なコミュニケーションを阻害する「悪者」とされ, 端に追いやられてきた。実際, 「訳してばかりだから(あるいは文法の学習ばかりしているから)日本人は6年間も英語を学んでも使えない。だから訳は排除せよ」という憤慨のことばはよく耳にする。そこから「教室は二言語空間であってはならない」などという極論にまで発展することがある。二言語併用の空間での英語教育を長らく受け, 自学スタイルも文法と訳の反復が中心であった私は, この類のことばに出会うたびに, 言いがかりでしかないのではないか, と長らく考えていた。教育の諸問題を考えるときには,自身の偏った経験による感情論や主観から主張を展開してはならない。感情論に感情論で反論しないために, 客観的に訳の効用を説明できるようになるために, 自らの「拠り所」として本書を精読した。





2.1 書題に関して

 本書は, Guy Cook, Translation in Language Teaching (Oxford University Press, 2010)の訳書である。訳者によると, 原題を正確に訳せば, 『言語教育における訳』となるが, 日本では英語教育に関連して読まれることが多いであろうとの考えから, 邦題においては「英語教育」という文言を前面に出したそうである。加えて, translationを「翻訳」ではなく「訳」としたのにも意図があるという。「翻訳」とすれば, 一般的には書き言葉における言語変換を指すのに対し, 「訳」とすれば, 話し言葉における言語変換に加えて, 認知的な言語変換を含む, より広く緩やかな意味での言語変換までを表すことができるのである。(p.229, 訳者あとがき)これは訳者による説明だが, 原著者も, 言語教育の現場であらゆる学習者に利があるとする「訳」(教育訳)については当然この立場を取っている。本書で復権を目指して擁護される「訳」は, この後者の意味であるということを押さえておきたい。

 



2.2 注意すべき用語

 言語教育を論じる際に, 論者の間で用語の定義が異なると, たちまち議論はかみ合わなくなる。著者は, 「定まった用語は定まった見方を表したものであり, そこには言語教育研究, 直接教授法による教育, そして第2言語習得理論の密接な歴史的関連が反映されている」(p.10)と述べた上で, 現状に対し異を唱えるためにあえていくつかの用語を新たに作り出し, その用語を定義している。その中でも特筆に値し, 本稿を読む上でも必要となるものを2つ紹介する。

 まずはTILT=Translation in Language Teaching)(p.11)である。本書ではこの用語に「教育訳」という訳語が与えられ, 度々使用される。教育訳は文字通りには「言語教育における訳」であるが, 2.1で上述の「広義の訳」と同義であると考えてよいだろう。つまり, あらゆるレベルの言語学習者にとって利があると考えられる認知的な言語変換を総称して「教育訳」と呼ぶのである。したがって, 「教育訳」とは一般に読者が, 無味乾燥で退屈に感じる書き言葉における訳だけを指すのではないことを, くどいようだが理解しておかなければならない。

 次に, 直接教授法(Direct Method)と二言語併用化(Bilingualization)(pp.12pp.13)である。こちらに関しては用語の定義というよりは, 重要観点の提示であると考えてよいであろう。訳の存在意義を考える場合, その背後には必ず「単一言語使用」か「二言語併用」か, という問題が付随していることが多い。「直接教授法」という用語は19世紀から20世紀に生まれたものであり, 現在使用する場合は「過去のもの」という意味合いが強く, その後に派生して生まれた単一言語使用による教授法とは区別して用いられることが多いが, 著者は, 「学生の既得言語は無視すべきであるという思想が20世紀から21世紀を通じてずっと継続している事実を強調する意図」(p.13)のもとに「学生の既得言語を避けようとするあらゆる方法を広く指し示すもの」(p.13)として否定的な意味合いでこの用語を用いている。後者は応用言語学者Widdowsonの用語であり, 「言語横断的(Cross-lingual)」教育(Stern 1992)などと同義であると考えてよい。一般に本書では「直接教授法」および「単一言語使用」などの用語は否定的側面を, 「二言語併用化」および「言語横断的教育」などの用語は肯定的側面を与えられていることを覚えておきたい。





2.3 本書の構成

 本書は2部構成である。第1部では「歴史」を扱う。まず序章で本書を読む上で当然浮上するであろう問題 (たとえば先述の「直接教授法対二言語併用化」など)や注意すべき用語について説明を加えている。続く第1章から第2章で, 現代において訳が否定的に捉えられているのはなぜか, その背景にある思想の歴史的変遷を扱う。キーワードは章題にもあるように, 「拒絶」「沈黙」である。第3章では, 21世紀に入り二言語併用が見直されていること, その背景にある二言語併用の恩恵が論じられている。この章が本書のピークであり, 必読の章であると言ってよい。

 第4章「訳すとは何か」である。それまでの章で「訳」や「訳すこと」に関しては, 「教育訳」という名称を与え, 広い意味での言語変換として捉えることを主張しているが, 実際に訳す時に考えなければならない「等価性」の問題に関しては言及されていなかった。この章では本書の主題である言語教育からはいったん離れ, 翻訳について考えることになる。

 第2部はいよいよ「議論」に関わるものである。まず第5章で, 主に第二言語習得理論と教育訳の関係が述べられる。第二言語習得理論で訳が「好ましくないもの」としてみなされている状況に, なぜ「好ましくない」と言い切れるのか, 仮にそうであれば, どのような点が「好ましくないのか」に疑問を投げかけている。第6章では, 教育哲学の4つの概念, ①技術的教育観(Technological perspective, ②社会変革的教育観(Social reformist perspective, ③人間主義的教育観(Humanistic perspective, ④学問的教育観(Academic perspective)(p.158)それぞれにおける教育訳の意義が説かれる。最後の第7章では教育訳を活動で使用する場合の類型が示される。実践例が豊富に示されているわけではないが, 「添削式近似訳」(pp.201pp.205)や「挟み訳」(pp.220pp.223)などは興味深い。中には, 「コミュニケーション重視の訳」など, 読者の目を引くものもある。一読に値する章である。





3. 本書が提示する重要論点

 この項では, 本書を読む上で気になった部分に関して, 最低限の引用をしつつ, 可能な限り日本の英語教育という枠組みのなかで、私見も交えつつ, 考えてみたい。



3.1 「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別するべきか

 著者は序章冒頭で 「現代の言語学習者にとって, 訳すことが言語学習の主要な目的かつ手段であり, また成功を測る主たる基準でもあるべきだ」(p.2)と述べている。ここで重要なのは, 筆者が「目的としての訳」と「手段としての訳」を区別していないこと, そしてこの主張が従来の言語教育(直接教授法と第2言語習得理論に影響を受けた言語教育。学生の既得言語をできるだけ排除しようとする)を根底から覆すものであるということである。訳すことを目的とした言語教育は主として翻訳家や通訳者にのみ必要とされると考えられている。あるいは目標言語の原典を読むことによって何らかの知識を獲得しようする者にとっては有効であるとも言われる。だが, そうした「目的」を持たない者が, 目標言語を実生活の中で意思疎通の手段として使用する場合, 訳を介していては流暢さが損なわれるし, 既得言語による干渉が起こるというのである。ところが, 実際には訳す能力(上述の, 「広義の訳」)は, 文レベルでも, 単語レベルでも, 日常的に必要なものである。 「目的としての訳」と「手段としての訳」は区別する必要はないし, 区別するべきではない, というのが著者の主張である。(p.9

 日本でもこのように「目的としての訳」と「手段としての訳」を無理やり区別してきたがゆえに, 存在するはずのない二項対立(「形式対意味」「人工対本物」「権威主義的教育対共同学習」(p.200)「文法対コミュニケーション」「教養対実用」など)が無理やり生み出され, 浸透してきたように思われる。しかし, こうした二項対立は何も成果を生んでいないし, これからも何も生まないであろうことはもはや周知の事実であり, 薄々気づいているにもかかわらず, 過去に自身が受けてきた英語教育への嫌悪感, あるいは直接教授法崇拝に突き動かされ, この二項対立に依拠して英語教育の未来を語ろうとする者が日本にも相当数存在するという事実は見逃してはならないだろう。



3.2 訳はいかにして迫害され始めたのか

 訳迫害(この頃は迫害というほど過激なものではないが, )はまず19世紀末に音声学者・言語学者らによって, あくまでも自己流の「改革運動(the Reform Movement)として始められた。彼らが依拠したのが, 当時最新の音声学や心理学の知識であった。(pp.16pp.17)改革者たちは「音声言語優先」の理念や「観念連合理論」などをもとに, 話しことばや意味のつながりをもった文章の重要性を強調した。彼らが音声学者であること, そして当時は音声学や心理学が最新の学問であったことを考えれば, これは無理からぬことではあるし, 学習者の評判もよかったはずである。この時期は訳が完全に悪者扱いされたわけではない。

 時代の最先端を行く理論は後に続く理論に取って変わられるはずであり, 本来ならばその改革運動に新たな機運が加わり, 訳・書きことば偏重の従来のあり方と音声・話しことばをバランスよく合わせた新たなあり方が生まれてもよかったはずである。ところがそうはならず, 改革者たちが唱えた理念は現在まで本質的な部分は残っている。もしかすると, 当時よりも行き過ぎているかもしれない。本格的な訳迫害が始まった背景には, 改革者たちの理念と商業的思惑の融合がある。本書ではその典型的な例としてベルリッツ語学学校が紹介されている。設立の背景にあるのは, 「アメリカへの移民やヨーロッパの貿易業者・旅行者といった, 一般の教育制度の枠外に位置する成人の言語学習者が生み出す新たな市場」(p.19)の存在であった。そこでは, 訳の使用は一切禁止であり, 書きことばより話しことばが優先された。それだけならまだしも, 教師は例外なく目標言語の母語話者であることが徹底されたという。(p.19)この歴史からは, 現代にまで連綿と続く様々な思想が見え隠れする。すなわち, 「訳を介在すると円滑なコミュニケーションに支障をきたす」, 「言語は使えなければ意味がない」, 「母語話者教師(単一言語使用教師)は非母語話者教師(二言語併用教師)よりも優れている」などの思想である。これらの思想は本書中では, 「直接教授法の4本柱」という名で紹介されている。(①単一言語主義(monolingualism, ②自然主義(naturalism, ③母語話者主義(native-speakerism, ④絶対主義(absolutism))(pp.21pp.23)これらは柱と言いつつも, 互いに独立して存在するのではなく, むしろタペストリーのように複雑に絡みあっているため, 厄介である。この中でもとりわけ厄介なのが「絶対主義」である。本書によれば, 「直接教授法こそが成功に通じる唯一の正道であり, 学生も二言語併用の教授法よりは直接教授法を好むという前提」(p.22)を指している。これら4つの思想は, 第二言語習得理論に大きな影響を与えるばかりでなく, 教育訳に関する議論を封殺したのである。(後述)

 もうひとつ押さえておかなければならない点がある。初期の直接教授法推進者たちは, 教育訳という優れた多様な訳の使用形式と, 西洋に固有の文法訳読を, おそらく意図的に混同した。これによって教育訳はその形式がどうであれ, 旧時代の悪しき学習形態とみなされるようになったのである。日本でもこの種の混同は見られる。西洋の文法訳読法はギリシャ・ラテン語の教授から生まれ, 19世紀に西洋に持ち込まれた。人工例文を逐一訳しながら文法学習を行うものである。対して, 日本固有の訳読法は古くは漢文の訓読という形で存在し, 近代化の過程で, 洋学経由で英語教育に持ち込まれたものである。自然な英語で書かれた文章を, 文法事項を確認しながら読み進めていく,という点で西洋固有の文法訳読法とは異なる。(pp.230pp.231, 訳者あとがき)だが, この2つが混同されたことによって, 使い方次第では有効な訳読法が, 時代遅れで訳に立たないものみなされ, 日本の英語教育失敗の最大の要因であると考えられているのである。だがそもそも教育訳イコール文法訳読ではないのだから, 文法訳読への批判を盾に取り, 教育訳全般を貶めるのは明白な論理のすり替えであるが, このことに気付いている者は思いの外少ないのではないだろうか。これに関しては, このことに気づかぬ私たちのほうにも問題があるといえよう。

 

3.3 訳はなぜ論じられてこなかったのか

 教育訳排除の背景には複雑な背景が存在したことは前項で述べた通りである。著者によれば, 20世紀に関心を集めたほとんどの言語教育理論が, とりわけ訳すことを, 理由を明確にせず, ただよくないものだとのけ者扱いしてきたという。(p.2)そして, 訳がのけ者扱いされた理由として以下の3つを挙げている。すなわち, ①訳すことは退屈でやる気をそぐ, という教授法の面からの理由, ②訳すことは言語の習得と処理の妨げになる, という認知の面からの理由, ③学生は実生活で訳す活動を必要としない, という実用面からの理由, 3点である。しかし, 「これらの認識を裏付けるような研究や真面目な議論はほとんど存在しなかった」(p.2)のである。一度優位性を確立した者は, 自らの優位性を保ち続けるために不都合な部分は隠さねばならない。実際, 訳の使用は多くの場所で続いたものの, 訳に関する議論は20世紀を通してほぼ皆無であった。著者の言葉を借りれば, 「検討・評価を経た末に根拠をもって拒絶されたのではなく, ただ単に無視された」(p.38)のである。ほぼ1世紀の間, ある教授法が表舞台から姿を消し, そのうち復興するかと思えば, 以降全くと言っていいほど論じられなくなったのである。(現場では教育訳が使用され続けたのは幸いであった。)考えてみれば確かに異常なことである。

 教育訳が学術的にその効用を検証されない1世紀の間に, 直接教授法は初期の形式重視から意味重視へと形を変え, 様々な教授法が直接教授法から生まれた。その最たる例が, 1970年代に登場した「自然習得式教授法」(Natural Approach)および「コミュニケーション重視型言語教育」(Communicative Language Teaching)である。(p.45)当然, この背景にあるのは第2言語習得理論である。学習者は, 形式よりも意味に目を向けよ, 人工の言葉ではなく, 現実の, 意味のある言葉に触れよ, というもはや宗教の教義かとも思われんばかりの過剰な言い方である。

 著者によれば, この意味重視の革命は「自らの学習を自覚的に管理するという学生の役割を軽視」(p.47)することになったという。第二言語習得理論では習得は無意識化で起こるものであり, 理解可能な入力や意思疎通を通じて進むものと考えられたが, それは従来の形式に焦点を当てる教授法とは相入れなかった。形式という言葉はすでに権威主義的, 脅迫的な意味合いを持っていたから, 意味重視の直接教授法革命は「学生の自主性の解放者・促進者」(p.48)という触れ込みで登場したのである。ところが, 皮肉なことに, 「学習者中心」を謳いつつも, この教授法によってもたらされたのは, 学生の活動範囲のさらなる制限であった。悲しいことに, 「学生を意思も希望も持たない言語習得装置として扱う」(p.47)ことが許容されたのである。既得言語の使用が言語学習に利があるだけでなく, 学生の自己規定に多大な貢献をしているという事実に, 当時の第二言語習得研究者たちは気がつかなかったのだろうか。いや, そんなことはあるまい。何が起こったのかは自明である。自らの仮説・主張の優位性を示すために意図的に無視したのであろう。

 当然のことながら, 2言語習得理論は訳について手厳しい評価を与えている。訳は, 「速度にかける面倒なものであり, そこでは流暢さよりも正確さに重きが置かれているがゆえに, 取り外し不可能な足枷となってしまう」(p.132)と考えられている。スターン(Stern 1992 : 284)も, 「第2言語から, あるいは第2言語への訳を介在させずにできるのであればそのほうがよい」(p.139)と述べている。だがこの2つの引用には大きな違和感が残る。まず, 面倒だから行わないのであればそれは怠慢であり, 理論以前の問題点である。実際の意思疎通を考えた場合, 必ず正確さよりも流暢さが重要ということにはならない。時として, 正確さのほうも求められることがあるだろう。また, 取り外し不可能は言い過ぎである。著者は, スターンの引用では, 訳を介在させないほうが「よい」というのがどのような意味で, どの点から「よい」のか不明である, と述べている。本書中にはさらに多くの引用があり, 著者はそれぞれに客観的な分析を加えている。第2言語習得理論における訳排除は論証が弱く, 容易に賛同できるものではないということが分かっていただけると思う。

 人間は本来, 既知のものを活用し未知のものを理解しようとする。 言語教育とてこの例外ではない。その過程が学生の自己規定感や学習意欲を高め, 目標言語の習得に資するということは, おそらく実際に英語教育の現場を見る機会の多い者ならば直感的にも理解できそうである。にもかかわらず, 言語教育は直接教授法の登場以来, 理論面において, 1世紀に渡りこのような当たり前のことですら忘れてしまっていたのである。ところが21世紀に入り, 二言語併用に関して, 新たな機運が生まれているという。



3.5 二言語併用の恩恵

 著者によると, 21世紀に入り再び二言語併用の効用を見直す動きがあるという。だが, あくまでも二言語併用が支持されているのであって, 必ずしも訳が支持されているわけではない。訳を扱うことには依然として慎重な姿勢が伴う。著者はその理由として, 文法訳読の学問的堅苦しさや, 書きことばにおける形式重視の側面からもたらされる教育訳の持つ負の印象をあげている。どういうわけか, 「教育訳だけは二言語併用学習の中で別種のものとして見られている」(p.61)のである。だが, 二言語併用環境で訳を行わないことが現実に可能だろうか。学生は授業外で二言語辞書を引いて, 目標言語と既得言語を行き来して単語の意味を調べるであろうし, 授業内でもペアワークなどで訳すことによって互いに確認しあったり, 教師から説明を求められた際にも教科書の該当箇所を訳すことによって説明としていることがよくあるだろう。つまり, 訳はつねになんらかの形で存在するのである。訳など存在しないと言い張る授業であっても, 学生の頭の中で必ず起こるものであるし, おそらく授業をする教師の側も頭の中で訳を用いている。このように, 単一言語環境であろうと二言語併用環境であろうと, 訳は存在するのである。だから「二言語併用化を支持する議論は, 明言するとしないとにかかわらず, そのまま教育訳の擁護論としても同様の効力を持つ」(p.62)である。

 では, 二言語併用再考(すなわち教育訳再考)の恩恵とは何だろうか。一例として, 言語帝国主義(Linguistic imperialism)への挑戦が挙げられよう。日本人は地理的, 政治的, 教育的要因など様々な要因のせいで, 外国語イコール英語だと安易に考えてしまいがちである。日本人にとっての第一外国語は無意識のうちに英語となっている。しかしそれがいかに浅ましく悲しいことであるか。地球規模化の中で英語が「共通語」としてみなされる一方で, 逆説的ではあるが, 既得言語(多くの場合, 母語)による自己規定がますます必要になる。加えて, 「単一言語による社会という観念は, 世界の大部分において, 言語学的な事実というよりは政治的な色合いのついた神話に近いもの」(p.71)であることを考えれば, 実際には二言語・多言語による意思疎通のほうが主流であろう。表では地球規模化, 単一言語化などと言いつつも, 実際にはまだまだ多言語状況が以前と存在するのである。そうであれば, 相互理解のためにはやはり言語間の変換, すなわち訳を通らざるを得ない。既得言語使用は異文化を理解するのに必要であるというのはよく言われることである。21世紀という激動の時代において, 「寛容で平和的な世界」(p.3)をつくるのであれば, 訳の果たす役割は無視などできない。このような政治的側面からの主張だけでなく, 教育的側面からも二言語併用は有効である。著者の言を借りれば, 「既得言語使用が解説の迅速化・効率化をもたらし, 動機付けを促し疎外感を減じ, 教師と学習者の間によい関係を構築する一助となる」(p.83)のである。

 単一言語教授による恩恵も当然あるだろう。だが, はたしていくつあげられるだろうか。おそらくそのどれもが, 単に「言語使用」の面から語られる, 功利主義, 道具主義的なものでしかないだろう。言語教育, 外国語教育が人間の精神・思考を豊かにするという見方はほぼされない。

 以上のように, 二言語併用は様々な恩恵がある。ただし注意しなければならないのは, 著者も度々述べているように, 「訳の使用は既得言語使用の一形態にすぎず, 唯一の形態ではない」ということである。(p.7, p.84)これを忘れればかつて直接教授法が教育訳を排斥したのと同じような「魔女狩り」に走ってしまう恐れがある。教育のあり方を考える際には, 全ての学習者にとって効果的な教授法は存在しないのだから, 「これが絶対」と言い出したが最後, 教育訳は, 直接教授法が辿ってきた道と同じ道を辿ることになるだろう。これは避けねばならない。



3.6 等価性に注目して訳すことを考える

 ここまで「訳」とか「訳すこと」とうことばを使ってきたが, 厳密な定義はされぬままであった。本書では「第4章 訳すとは何か」において初めて言及される。訳に関する一般的な見方としては, 「言葉の意味をある記号様式から別の記号様式へと移動すること」(Dostert 1955)(p.89)や「ある言語による文章形式を別の言語による文章形式に置き換えること」(Catford 1965:20)(p.89)などがあるが, 著者はいずれの定義においても難問がうやむやにされているという。当然, 訳すうえで全てを完璧に「移す」ことはできないし, そもそも置き換えが不可能な状況でさえ存在する。後者の定義では, 「等価性とは何か」(p.89)についての説明がなされていないのである。言葉が理解されるためにはその場の状況だけでなく, 当事者同士が共有する感情や文化的・社会的知識, 身振りなど, 様々な非言語的要因が存在することは言うまでもない。したがって, 「等価性」と一口にいても, それは単語, 文の単位で済む話ではなく, 訳したものが与える「効果の等価性」や「文化的等価性」まで含めた広い視点を考えなければならない。とはいえ, 4章で述べられるような等価性に関する議論は翻訳者に求められるものであり, 学生にとっては要求が高すぎるし, 学生はあらかじめ知っておく必要もない。学習する過程で, 訳の難しさに気づけばよいのである。

 訳すことの効用のひとつとして, 「既得言語と目標言語の相違を知る」というものがある。だがその事実を「知る」だけで「実感」しないのはもったいない。重要なのは, 等価性に注目し, 訳を試みることで, 「なぜ訳がこれほどに難しく, またときには実際不可能でさえあるのかを理解すること」(p.115)であり,「翻訳ではなく原文を読むこと」(p.115)なのではないだろうか。





4. 本書の意義

 本書は教室内での訳を用いた授業の実践例を紹介するものではない。あくまで, 訳を不当に無視し排除してきた19世紀末から20世紀の言語教育「理論」に真っ向から挑む「理論書」である。読み通すだけでもかなり骨が折れる。前から読破する自信のない読者はまず, 「訳者あとがき」から始め, 「序章」「結論」「第3章」「第4章」を読むとよいだろう。この中だけでも, でも私たちが日頃疑いもしないであろう相当数の考えるべき課題が提示されている。

 本書が想定する読者は, 英語教育の研究者, 英語教育を専攻する学生, そして現場の英語教師, ということになろうが, 本書で提示される諸問題は外国語(英語)の学習者にとっても有益なものが多い。言語学習に幅広い視点を与えてくれる。外国語を学ぶとはどういうことなのか。なぜ外国語を学ぶのか。外国語を使うとはどういうことなのか。思想のない外国語学習に意味はあるのか。だが, こうした究極的な問いには, おそらく学習者だけでは到達できない。学習者がいずれ自分でこれらの問いに気づき, 考え, 答えを出せるようになるために教師の力が必要である。その教師が新たな視点を身につけるという意味で本書は非常に有効である。

 「コミュニケーション能力の育成」(コミュニケーション能力とは何ぞや, という議論は置いて置くとして)が叫ばれるいま, 本書は時代に逆行するように思われるかもしれない。もちろんそのような疑心の根底にあるのは, すでに述べた不自然な二項対立の数々である。しかし, 英語は英語であり, それを教養と呼ぼうが実用と呼ぼうが本質に変わりはない。学習者だけでなく教師も研究者も, 結局は何らかの思想ないしは感情に動かされて, 英語に対して都合よく枠組みを与えているだけなのではないか。そのような凝り固まった考えを解し, 言語学習・外国語学習には, それを使いこなせるようになること以上に重要な側面があるということ, 二言語併用と教育訳はその即面を理解する助けになるということを学習者に示す指針として, ぜひ本書を読んでいただきたいと思う。