2017/05/22

「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り



5/20(土)に小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負しています。(注)当初は50名を上限としていましたが、参加希望が多かったので上限を上げました)。


5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による
英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。


主催した側としては、この企画の知見を少しでも言語化し分析しなければと思いますが、言語化はいわゆる「研究者」の専権事項ではありません。参加者の皆さんにも「よかったら言語化して、それを共有させてください」とお願いしたところ、本日時点で3名の方が文章をお寄せいただきましたので、ここで共有させていただきます(書きたいと思っているがまだ書いていない方があれば、遠慮なく柳瀬にお送りください)。






さて、最初に紹介する文章は学部4年のTK君のものです。彼はメールで「久しぶりに振り返りを言語化しましたが、やはり言葉にしないとわからないことがありますね。言語化することの重要性を再認識しました」と書いてくれていましたが、たしかにその通りで、感性のレベルで経験したことを基に、それを逆に損ねてしまうことなく、丁寧に言語化することは、文章を書く本人にとっても、文章を読む読者にとってもとても貴重なことだと思います(特に、感性レベルの経験は月日が立つと文章化しにくくなることが多いのでまさに「貴重」だと思います)。



■ 学部生のTK君

 私は今回、広島大学で開催された小口先生のWSに参加させていただきました。それを通して感じたのは、小口先生は「人を育てる先生」だということです。

 WSで行われたのは、劇を通して英語を使いながら、みんなで一つの物語を完成させるという形式の活動です。2時間という長い時間、初対面の人たちと何か一つのものを作っていくというのは簡単なことではないはずですし、小口先生の手法がそれを簡単にしてくれる、魔法のような手法というわけでもないと思っています。「体と心を同時にアクティブにする」。明言されたわけではありませんが、これが小口先生の行う授業の目的であり、効果なのではないでしょうか。

 参加したのは大学生から現職の先生方まで、幅広い背景と年齢層の方々でした。行われた活動は、初対面の人と手をつなぎ、体を動かし、動きを考え、最終的に一つの劇を作るというものです。正直なことを申し上げますと、最初は恥じらいを感じ、早く終わってほしいと思ってしまいました。きっとそう感じていた人は少なかったと思います。しかし、そんなことお構いなしに小口先生のWSは進んでいきます。そして最後までやりきったときに気づきました。楽しくなっていたと。最初に感じていた恥じらい、不安などはなくなっていました。これはなぜなのだろうとWS後に考え、辿り着いた結論は、「小口先生によって、自然に心を開かれていった」ということです。気が付けば恥じらいはなくなり、不安も消え去り、終わった後に残るのは爽快感と達成感。少しずつ周りの人への信頼感が高まり、協力できるような関係になっていくのを感じました。

 私は小口先生の手法の神髄や、理論について深く理解できているわけではありませんが、これだけは言えるのは、「頑張って、一生懸命なことが恥ずかしくないと気づかせてくれ、そしてそれが当たり前となる環境を作る」ことが、この手法、そして小口先生の素晴らしい力だということです。

 「発言できない生徒へのアプローチ」。これは私が教育実習を通して感じた、学校の授業における大きな困難点の一つです。発言ができない生徒が当たりまえのように教室にいるなかで、先生はどう接すればいいのでしょうか。発言できないのにはいくつか理由があると思いますが、その中でも「間違えたら恥ずかしい」というのは大きな理由の一つです。これは先生に対してよりも、自分以外の生徒に対するものだと思います。誰かが「そんなこと思わなくてもいいよ。自信を持って!」と口で伝えて解決できるものではないというのは、私でもなんとなく理解できることです。しかしそうなると、どうやって解決したらいいのか。この疑問に対する答えを示してくださったのが、まさしく小口先生です。小口先生は、自分がとにかく情熱を示し、芯のある声で話し、一生懸命に私たちと接する姿勢を貫いていらっしゃいました。その姿勢、そして接し方に、気づけば影響を受け、私たちは初めて会った人達と一緒に劇をやりきることができました。

 シンポジウムでお話があったように、このやり方をすぐに普及させ、学校教育に浸透させていくことは簡単ではありません。なぜなら、経験者がほとんどいないから。しかし、逆に言えば経験した人なら、この手法の凄さに気づき、自分なりの解釈の上で実践につなげていけるのではないでしょうか。もちろん、小口先生のやり方をそのままコピーして他の人が実践しても成功はしません。ですがその本質を理解し、先生自身が体と心をアクティブにすることができれば、子どもたちもついてきてくれることでしょう。そして子供たちを成長させていくことができるのではないかと思います。

 この度はこのような貴重な経験をさせていただきありがとうございました。



次は、以前に小口先生のワークショップを経験した高校英語教師のMMさんによる文章です。「役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう」といった認識から、「良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。(中略) 生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか」といった考察を経て読む最終段落は非常に重要な提言をしていると私は思います。丁寧な分析と考察に感謝します。


■ 高校英語教員のMMさん


 最初にこのような機会を作ってくださった柳瀬教授を始めとする科研の先生方に心から感謝をしたい。

 私が小口真澄先生(以下真澄先生)に出会ったのは10年以上も前である。出産をきっかけに学校という職場を離れ、子育てをきっかけに児童英語の世界に足を踏み入れたばかりの頃だった。真澄先生のレッスンを拝見し、英語ではない「何か」に惹かれて我が子を先生に託した。世の中を席巻している「英語ができる子になってもらいたい」という抽象的な欲求や、「自己主張ができる子に」などの欲求でもなかった。どちらかといえば、私自身が教師として、このような指導者の元で子どもがどのように成長するのかに興味を持ち、実験台として送り込んだと言う方がスッキリくるように思う。

 真澄先生ご自身が表現者としても一流である。役者として数々の舞台も経験されている。役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう。今回のワークショップ中も、真澄先生はディレクターであり、役者であった。私たち観客は笑い、聞き入り、説得された。

 さて、我々教師を振り返った時、自分は生徒という観客の前に立つ演者だという自覚がある教師はどれくらいいるだろうか。教師の仕事の大部分は「語り」である。しかしそれができる教師は少ないように思う。「思わず聞いてしまう」説得力のある「語り」は、教員養成の過程においてもあまり重要視されていないように思う。

 真澄先生が長きに渡り全国各地で指導者へのワークショップをされながらも、同等の指導者が生まれていない要因は複数あると考える。

 まず受講者の演劇に関する知識・技術・経験が圧倒的に少ないこと。教育に携わる人で、同時にドラマや演劇を専攻した人は少ない。学生時代演劇部に所属した経験があるとしても、本格的に学んだ人は希少である。元々演者としての才能を持つ者もおり、それが学校という場で開花することもあるが、それでも技術や知識がなければ、相手の感情を引き出すことや心を動かすことは難しい。しかし学校行事において、舞台発表は欠かせないものである。そこに「ドラマメソッド」が活かされれば良いが、それができる教師は少ない。その点においては、幼稚園保育園の先生方の方が、長けている方が多いように思う。

 次に、ディレクターとしての勘と経験値の少なさがある。真澄先生は、経験的にも本能的にも、感情感覚のどこが絡まっているのかが分かり、それを解く天才である。ワークショップの中で何度も人が変化していく様を目の当たりにし、私自身も変化してきたのだが、何度見ても自分が習得できるものではないように感じる。真澄先生が言語化できるのであれば私たちも学ぶことができるのだろうが、その人その人に合わせてその場で感じるものを元に指示されているので、本人が言語化できるものではないだろう。教員や英語講師達が生徒を通して発表する舞台は、保護者や関係者という非常に守られた空間である。観客は知っている子どもを見ることが目的であり、「観客として楽しむ」ことが目的ではない。しかし真澄先生が関わってきた舞台は違う。料金も発生しており、観客はそれに見合うエンターテイメントを求めてくる。厳しい条件の元、多くの感動を作り出してきた真澄先生とは、経験値が違いすぎるのだ。


 さて、本題に戻る。我々英語教員、英語講師は舞台人を育てようとしているかといえば否である。私たちはあくまで「生徒が英語をより円滑に習得できるためには何が大切か」を考えている。言葉の特性上、感情を無視するわけにはいかないので、 真澄先生のように感情を伴った「言葉」を教えられれば、もっと子どもたちは本質的に英語を習得するのでは、と考える。しかし現状は「文字情報」を伝えることで精一杯。演者としての技術もないため、その英文が持つ「ドラマ性」を伝えることも難しい。感情を持って「言葉」を教えることは、感性を鍛えなければならないことが多すぎて、教員自身がよほどの熱心さを持っていなければ手をつけられる部分ではない。「受験に合格させる」ことが仕事であり、知識が重要で、感情や心は点数にならないので重要視しない。教科指導の観点で捉え、英語という文字情報を押し付けることに努力する。

 だが、教室は舞台である。教師という役者と、生徒という観客で成り立つ。外からの介入を受けない独立した舞台で、観客の心を捉える教師が生徒と共に感動する場所である。心が動かなければ、意欲が生まれない。感動は葛藤の解消から生まれる。日々の授業に葛藤の解消があれば、新たな意欲が生まれてくるのではないか。

 我々が体験したワークショップの中にも、幾つもの葛藤があった。「暗闇のワーク」では、条件の厳しさが葛藤を生み、それを解消することで心が動いた。心が動くことで信頼や安心が生まれ、体が緩んだため、歌声が大きくなったように思う。心が動きにくい場合は、あのような非日常的な場面設定を演出することも大切なのではないか。これは役者を養成する分野で多くあるワークであり、このような手法をより多く教師が持つことで、生徒の心をより動かすことができるのではないかと考える。

 良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。例えば、今回のワークの中で真澄先生から何度となく「表現」を求められた。しかし私たちのほとんどは固まってしまい、何をしていいのか分からなくなった。カメラを構えた時の「ピースサイン」のように、ガッツポーズや手を広げるなどのありきたりのポーズで答えてしまう。これは自分たちが本来自由である発想を縛ってしまっているからだと考える。生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか。

 英語DEドラマのようなワークを体験することで、発想の柔軟さを鍛え、役者として自分を解放することを訓練する。このことがまず、教師という人前に立つ仕事に必要なことだと考える。そのまた一歩先として、ディレクターとしての視点で生徒の心を意図的に動かすこと、感情のもつれを解くことを技術として身につけていくことが、これからの教師に大切になってくるのではないだろうか。教師としてそのような基礎を持っておけば、英語だろうが社会だろうが教科に関わらず教室には感動が生まれると思う。

 「文化」が生活から遠くなり、スマートフォンの普及で生活体験が減り、静かな時間が奪われ、心が動きにくい世の中になった。だからこそ、教育者は心を動かす存在でなくてはならない。そのためには技術が必要で、自身も表現者として自分を高める必要がある。ICTなど舞台道具は増えても、教室という舞台で感動を生むことができる表現者は教師であると考える。




次は、ラボ・パーティで指導をしているKRさんの感想です。ラボ・パーティの実践については、私は非常に興味をもち、その縁で以下のような講演もさせていただきました。


ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、
およびそこでの私の講演スライド



KRさんは、上記のようなラボの活動を日頃指導しているテューターとして小口実践について振り返りました。

以下のようなことばは私にとってはとても印象的でした。

「文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です」。

「とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています」。

今回の企画で参加者が経験したことは、「小口実践」や「ラボ実践」という個別の枠組みを超えて、「英語教育の身体性」あるいはそれに類する一般的な枠組みで考え、学校英語教育の改善に貢献したいと私は考えてます。


■ ラボ・テューターのKRさん

 お世話になります。昨日参加させて頂いた ラボ・テューターの梶山と申します。

 これからの世界に羽ばたく子どもたちを育てるには、子どもたちも、子どもの教育に関わる大人(教師、大人、コミュニティ)も、人間としての基礎、土台として、しっかり心を耕す体験を積む必要があるということを、改めて確認し、また、それを、参加者の方々と共有できたことが、励みになりました。ありがとうございました。

 昨日、受講したような演劇教育や物語で心を動かす体験は、自分の心や頭の中で感じている感情や気持ちを引き出す、人と関わりながら考え、他人の考えというエッセンスを受け入れることで、自分自身の中の気持ちを掘り起こすことができる、人が人として生きていくうえで大事な力を養う活動だと考えます。

 特に幼いうちからこのような体験ができる環境にある子どもたちは、自己肯定観を高め、心が豊かになり、自分自信も深みのある人間として成長し、その結果、相手も受け入れられる人になるでしょう。

 一方で、まだ多くの保護者(特に我が子への教育に熱心な人ほど)は、幼少期より英語検定で高いレベルの合格を目指すために、PCなどで単語やフレーズを叩き込ませたり、結果がすべてですからと、上記のような心を耕す活動に寛容になれない現状もあります。実際、我が子が私立進学高校に通っておりますが、国公立大学に進学のために、一日7時間授業の中で毎週テストに追われ、〇進ハイスクールでは、1800個の英単語を、入学したての高1の子たちに1カ月で暗記するまでテスト。センター試験対策には、単語を覚えることで長文のわからない箇所がクリアになるので、これが一番の近道ですと保護者を集めて指導されていました。

 文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です。中3の次男もやむを得ず塾に入れました。小学校でも、宿題がどんどん増えているそうです。全国学力到達テストなどが始まり、管理が厳しくなっているからだと思います。

 そんな現実があっても、私が信じているのは、その子どもたちが家庭やそれまでの教育の中で心を耕した経験がしっかり土台にあるかということです。この体験がその子の伸びしろの支えになっているということです。

 とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています。

 子育てをしながら、ラボ・テューターという活動を通じて、試行錯誤の毎日ですが、やはり、ラボ教育活動が大事にしているのは、心の土台を育てる部分だと実感しています。そこに英語力が結びつくということを、もっと、ラボ教育センターも理論的に言葉にできなければいけないし、活動自体も研究していきたいと思っていますので、今後ともこのような機会にぜひ、参加させて頂き学ばせて頂ければと存じます。よろしくお願いいたします。



 お忙しい中、振り返りを共有してくださった上の三名の方、そしてもちろん、本当にお忙しい中、科研予算・大学規定での交通費・宿泊費・薄謝しか出せなかったのにこのような企画にご協力いただけました小口先生に厚く御礼を申し上げます。

 私としては今回の経験をできるだけ分析・言語化することで、小口先生からのご厚意に応えたいと思います。他の参加者の皆さんも、よかったら感想をお寄せください。







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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。






また、このコンテストの授賞式
最優秀論文に基づく対話の集い
7/23(日)
公開企画として開催します。
ぜひお越しください!







2017/05/19

教英生が米国ウェスタン・カロライナ大学学部生とスクラブルで交流

以下、深澤清治先生からの報告です。

教英は積極的に外部との交流を図っています!





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5月19日、アメリカ・ノースカロライナ州にあるウェスタン・カロライナ大学から学部生6名と日本語プログラムの小野由美子先生が広大を訪問し、教英学部生や教員と交流を持ちました。

学生によるキャンパスツアーのあと、C-620教室で一緒にスクラブルなどを楽しみました。時には教英学生がアメリカ人学生に英単語を教える場面もあり、和やかな雰囲気で楽しい時間を過ごしました。

西日本3大学コンソーシアム留学制度によって、教育学部生はノースカロライナ州の3大学に半年~1年間留学できます。ふるって応募してください。



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10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための声をぜひきかせてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
(執筆言語は日本語です)
締切は6/23です。
ぜひご応募をお願いします!!!










エラスムス交流協定でスペインの Rovira i Virgili大学からRomero Joaquin先生が来られました


以下は松浦伸和先生による報告です。

広大は積極的に海外展開を図っています!





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5月15日から18日までの1週間、スペインの Rovira i Virgili大学からRomero Joaquin先生が来られました。ご専門は英語教育、とりわけ発音指導です。滞在中に、教英の4年生、大学院生、さらには文学部の大学院生を対象に4回講義をされ、多くのことを学ばせていただきました。先生も、英語で意見を述べたり議論するなど活発な学生たちで意欲も高く、 たいへん楽しく講義ができたと高い評価をしていただきました。

先生は、ヨーロッパで歴史のあるエラスムスという交流協定で本学にこられました。

そのため、学部、大学院に関係なく数人の学生たちは無料で先方の大学へ留学できます。

英語教育に関する1年間の大学院プログラムをうまく活用すれば、ダブルディグリーも可能になると思われます。詳細が決まればお知らせします。 





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(執筆言語は日本語です)
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2017/05/18

卒業生のTSさんがASさんになって、教職説明会講師として広大に来てくれました


3年前に大学院を卒業したTSさんが、現在勤めている県の教職説明会での講師として広大に来てくれました。説明会までちょっと時間があったので、しばし教英図書室でお話をしました。




「ずいぶん落ち着いた雰囲気になったなぁ」と思ったら、なんと最近結婚して、姓がTからAに変わったそうです。道理で!

ASさんは、勤めている高校の実情に合わせた英語教育を模索しています。とても生徒思いであることは話の端々から伺えます。同僚にも恵まれているようで、なかなかいい教員生活を送っているようです。そういう卒業生の話を聞けるのは、大学教員としての冥利に尽きます。

卒業生の皆さん、それぞれの場所で人生を充実させてくださいね!




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(執筆言語は日本語です)
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2017/05/12

卒業生との偶然の再会

以下は築道和明先生からの投稿です。

教英の卒業生は大半が教員になりますが、民間企業や公務員になる人もいます。
下のI君はこの3月に卒業して、ある民間企業に入った例です。

偶然の出会いというのもいいですね。

卒業生の皆さん、それぞれにお元気で!





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今朝八本松から広大までバスに乗ってまいりました。
バスの中には運転士二人の姿。一人は指導する側、もう一人は指導されている新人運転手のようです。

アナウンスの声が流れ、どこかで耳にした声だなあと思っていると「私は○○営業所の△△です」とのこと。そうです。この3月に教英を卒業生したゼミ生でした。

英語が駆使できるバス運転士を目指せと鼓舞しておりましたが、こんなに早く再開するとは。

安全運転に徹しており、普段なら10分程度でキャンパスに到着するのですが、今朝は15分、授業始まりにギリギリ間に合いました。

学校の教室だけでなく、このように社会で働く教英の卒業生の姿を見ると嬉しくなります。

Good luck, I君!




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2017/05/09

社会科教育の話を聞いた英語科院生の振り返り


前にも紹介しましたように、現在、修士課程の一年生は「教科教育学研究方法論」という授業で、10の異なる教科の教員・院生と共に学んでいます。

関連サイト
異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/index.html

前回の授業では、特に社会科の教員による問題提起が興味深かったようで、院生の皆さんもいろいろ考えさせられたようです。
以下、よかったら皆さんもお読みになり、これからの学校(英語)教育のあり方について考え直してみたらいかがでしょうか。






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■ 話を社会科の話題提供に移すと、私が改めて重要だと感じたことは私たち一人ひとりの主体性でした。中高生だったころの私は世の中に正解は1つしか無いと思っていたと思います。その正解は教科書や先生、メディア、もっというと国家から与えられていたものでした。しかし、そうした情報や視点に一端待ったをかけ、「正しい / 間違っている」という二択ではなく、「なぜ」「どのようにして」、さらには情報を鵜呑みにしていた自分を客観的に見る力を養うことが本当に必要なことです。教科書を批判的に読むという授業実践などもこうした力をつける一つの方法であり、これは私が中高生のときにはほとんど見かけなかった実践です。

ただし、以上のような批判的な視点を生徒に持ってもらう取り組みにも注意点はあります。中高生に限ったことではありませんが、唯一の正解が得られないことに耐えられない人は多いと思います。どの考え方、情報も絶対的に正しいわけではないと言われていると、やはり誰しも不安になってしまいます。何を信じればよいかわからずに不安の渦中に投げ込まれてしまうと、むしろ極端な意見や情報に流されてしまう危険性もあります。このような事態を防ぐために私たちに何ができるのでしょうか。この問題は社会科に限らず、すべての科目に当てはまります。私自身は今回の講義だけではその答えが出せなかったので、今後の課題に追加しておきたいと思います。



■ 社会科の方からのお話しが強烈で食い入るように聞いていました。何が一番自分の中に強烈だったかというと、「教えている内容を疑え」というメッセージに対してでした。教師にとって教科書は、教える内容はそこに書いてあるし、順序もそれに従えばいいしと、何かと教授には都合がいいものです。しかしそれには、何かしらのイデオロギー的要素や国家による情報統制に影響されてはないだろうか。そのような目で教科書を見たことはありませんでした。

確かに戦時中の日本で、英語の教科書における内容は軍事色が強かったものであったが、あれは国定教科書であって、検定制度に代わった今はもうないと考えていました。そのような統制された教科書あるいは教師によって育てられた子供たちはある程度画一化されてしまい、その教育に対してあるいは社会に対して違和感を覚えられる子が果たしてどれだけいるだろうか?ましてやグローバル人材を育成するなどと躍起になって盛り上がっているが、今の矮小化・多様化している世界で、“日本的”考え方をもった人が対応していけるのだろうかという疑問を持ちました。もし、違和感を持てる子がいたとしても握りつぶされるでしょう。(中略)

こういった状況の中で必要なのは、広い視野をもった教師の存在であると思います。アンテナを張り巡らし、得られた情報を客観的、批判的に鑑み、情報の取捨選択を行う。生徒には1つの考え方だけが正解というような提示の仕方ではなく、生徒に投げかけ考えさせることを行えるような教師像が今求められているのではないかと感じました。今日ではメディアも統制されているような認識があるので、日本のメディアだけに頼らず海外のメディアからも情報を得ることが大切です。


■ 社会科の話題提供の中で,「現実問題と教室の中で教わっていることには大きな隔たりがある」という話があった。子どもたちが「どうせ役に立たない」と思うことの原因の一つかもしれないと思った。また,学校での学びにおいて,「教師の判断基準」が目標・内容・方法を左右してしまう,「子どもの社会文化的状況」が質や量を左右してしまうという話を聞いて,教師が子どもたちに与える影響は計り知れないものがあるということを強く実感した。

 教師それぞれが持つ判断基準に統一されたものはないはずだ。しかし,だからと言って個々の教師が暴走することがあってはならないし,全員が杓子定規に同じ判断基準を持っていては,子どもたちが築く社会は創造的なものにはならないであろう。それゆえに,教師同士が互いの価値観や判断基準について議論する必要もあるし,子どもたちに対しては,自分で判断し,考えるような投げかけをしていく必要があると考える。


■ グループ内対話の成果を発表する際、これまでの授業では時間の都合から単に話し合ったことについての発表と、それに対する簡単なフィードバックが担当の先生より与えられるだけでしたが、今回はグループの意見に対して複数の先生が意見を述べられ、それに対し別グループの学生が意見を述べ、それに対し別の先生が…というような、大きな単位での相互交流が作動しているのが見られました。つまり、今回の授業ではグループという小さな単位での対話のみならず全体という大きな単位での対話が起こっていたのではないかと考えられます。

 なぜこれが面白いのかというと、学生たちがそれぞれの知見を活かして対話したことを共有するだけでも良い対話になるのですが、そのなかに学生たちよりもはるかに多くの知見を有する先生方が参与することにより、対話の深みがぐっと増していると考えられるからです。恐らくこの講義がより知的に面白くなるための要件として、先生方が適切なタイミングで対話を「ひっかきまわす」ことが重要なのだと思います。



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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
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締切は6/23です。










対話について学び続けています

以下は、学部4年生向けの授業「現代社会の英語使用」の受講者の感想の一部です。この授業では英語使用に関する話題を題材にして、スピーチと対話を実践し、それらの技術を高めようとしています。

この授業で身につけた技術が、将来に職場や日常生活で活きることを願っています。







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■ 「完璧な発言を続けていくことが目標ではない。」授業の最後に先生がおっしゃったことが今回の対話の反省を端的に表しています。

対話とは全員の意見をすり合わせていきながら一つの真実・目標に向かっていくものであるならば,いきなり一人の人がその真実に最も近づいたことを言うのは極めて稀であるはずです。ある人の発言に対して補ってあげたり,違う視点を与えたりすることが大切で,それが続いて初めて対話が成り立つわけです。なので,「完璧な発言をすることは目標どころかほとんど不可能に近い」という考え方をするべきではないでしょうか。

そして,その考えを持った上でとにかく発言をする。例えその発言に訂正すべき点が多くあったとしても,他の人がその意見を補ってくれるんだという気持ちを持っておくことが大事です。それをするために,いくつか注意しなければいけないことがあると考えます。


■ 小さな確認が重要であるように感じた。対話においては、他の人との意味がまったく同じではなくても、意味が類似すればいい。その意味の差異を見出しそれについて考えることで新たな発見が生まれる。しかし、確認なしに進む小さな認識のずれが、対話が進むにつれて大きなものになってしまうように感じた。

自分自身を振り返ってみると、歳を重ねるにつれて、「わからない」ということを「わからない」、と言う、大切で当たり前のことを欠いてしまっているように思う。わかったふりや、なんとなくわかった気になっていることはとても恐ろしいことである。自分が発話することについても、ときどき言葉を発するのが怖いと感じる。論点がずれ、話があちこちに飛び、筋道をたてて話すということが十分にできていない。しかし怖がってばかりいては何もできないし上達もしない。教師になって失敗するより学生であるいまのうちに多くの失敗と経験および反省とそれに基づいた実践をしていきたい。

今回の談話をする中で考えたことは、子どもたちに知識とそれに基づく思考力を、多くの失敗と挑戦を、と思う一方で、私自身はそれをできているのか、ということである。いまの思った通りにできないもどかしい気持ちを忘れずに、学生ではなく教師としての意識を持ち、子どもたちと接する準備を急ぎたい。


■ 今回はまるで反省文になりそうだ。はじめからそう思うとなんだか書くのも憂鬱なものであるがそんな回があってもいいだろう、成長のきっかけにすべくしっかり反省したいと思う。

 教師だって、人間だから失敗もするだろうし子どもの前に立つからと言って完璧であるわけもない。お手本であるべき必要性もあるが、それは完成した間違いのない形ではなく、むしろ完璧でない人間の姿としてのお手本であるべきなのだと思う。弱さだけじゃない、それと向き合う強さを見せるのであって強さだけじゃない、誰もがもつ人間の弱さをさらけ出して、かっこつけず、反省して成長していく姿というのも、お手本としての一側面なのではないかと思ったりもするこの頃である。

 さて、まずスピーチについて振り返っていこう。すべての反省点は、これまでずっと、“自己中”であったことに依拠するだろう。対人コミュニケーションに及んで私が私がと、自分の話しかしていないということに言われるまで気付かないとはなんとも恥ずかしいことである。自分が聞いてほしい話であることは大前提としていいだろうが、同時にそれが相手の聞きたい話でなければならない。それなのに、いつまでも自分本位に喋っているばかりではただの自己満足に終わってしまうのである。優しい相手は、にこにこして聞いてくれるのかもしれないが不毛な時間であるうちはスピーチとは言えないだろう。自分にとって、よりも相手にとって重要かどうか、必要であるかどうかということを念頭に置く必要がある。考えてみれば、いや考えなくとも相手本位の姿勢がコミュニケーションの基本だということは誰にでもわかる当たり前のことであるはずだ。

 スピーチをする際には、その原稿を考える。が、その構成の組み立て方についてもまた、自己中であったがために間違った考え方をしていたように思う。大切にしなければならなかったのは単なる起承転結的順番なのではなく、論理的とはいっても、相手の論理を組んだものにするのがスピーチであるということを知った。そしてそれは、相手の思考の流れを考えることであって、まるで子どもたちの思考の流れに沿った授業づくりをするのと同じではないかという気がした。

 対話も同じで、自分の意見をふりかざすのではいけない。しかし、こちらはチームプレイである。個人がそれぞれの役目を果たさなければ、もちろん集団として成り立たない。そういう意味で、私たちはまだ集団になりきれていない。一番の問題は何かといえば、間違いなく皆が黙り込む時間がそれを語っているだろう。あの静かな時間は必要な間、ではなく必要以上の沈黙であったといえる。本当であれば、小さな間が流れている時間も含め対話は進んでいるのであるが、沈黙の多い場合は時が止まってしまっている。まるで一つしかないマイクを順番に回して、次は誰の手に渡るものかと伺っているような空気であった。その間、それぞれが自分の中で次なる最善の発言を考えている。考え過ぎだ、という先生からのお言葉は図星だった。そうじゃなくて、もっと、今独りで考えていることを皆で考えることがしたい。自分の答えを言い合うだけではなくて、その途中を共有できたらいいと思う。他人に聞こえないように押さえ込んでいる心の声を、外に出せるような雰囲気が私たちには必要だった。


■  集団討論ではチームプレイの中での個人の活躍を見ている。日本人は定義を曖昧にしたまま話すのが得意であり、私はその典型であると感じた。わからなくても話の流れに逆らうよりは合わせる方を選択してしまっていた。わからないことや、疑問に思うことを、話の流れを遮ってまで聞いたり確認したりすることは、自分はグループの他のメンバーより劣っていると示しているようなものだと思っていた。しかしグループ内での再確認、共有という立場でうまく質問をすれば、これはチームプレイの一つになる。大切なのはタイミングと言い方で、話がわからないまま流れに従うことの方が自分を最終的には追い込むことになることを学んだ。話の流れを止めることになるため発言するとき、勇気のいる行動であるが身につけたい技術の一つである。努力したい。

 今回、グループのメンバー全員が黙ってしまうことが多く見られた。その時、自分は笑って、他のメンバーと顔を見合わすばかりだった。難しい内容なら「難しいですね」。これだけでいいのにどうして口に出せないのか。誰かが話を進めてくれるだろうと考えているのである。また、ある程度話を回している人が存在していたときどうしてもその人に期待を寄せてしまう自分がいる。そこでこそチームプレイの中の個人の活躍の見せ所だと思った。

 反省ばかりではない。対話中相手の表情を見る余裕が取れるようになってきた。今までは自分は話に参加できていることを示すため少し大げさに頷いたりしていた。相手が話しやすいようにという意識もあったが、自分は対話に参加していることを示すことが目的だった。回数を重ねると対話の仕方が少しずつ身についてきたのか、当たり前のように頷いたりすることができるようになり、その分意識して周りを見ることができるようになってきた。そうすると、対話中の相手の表情からある程度流れの予測がついてくる。同じような意見を持っているのだな、とか、何か疑問に思っているのかな、など次の展開が読める。おかげで随分と楽になる。自分が発言している時も一緒で、相手にどれだけ理解されているのか、表現の仕方は適切か、など表情から自分の発言を振り返ることができるようになった。(少しずつ)

 そして、以前は内容を受けてそれを踏まえての自分の意見を瞬時に発することができなかった。今までは「自分はこう思う。」という意見を述べるに過ぎなかった部分が多かったが、「あなたの意見のこの部分が自分の意見と似ていて」など相手の意見を踏まえた内容を話せるようになってきた。 

 もしこれが教員採用試験での集団討論なら、それは試験であり、合否が決まる場であるけれど、自分を他のメンバーよりも良く見せようというより、このメンバーで今から「いい対話」をしよう、と考えることも自分の余裕につながるのかな、などと思った。(そんな余裕が持てるまで努力したい)





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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。









2017/05/08

新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返り


以下は、新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返りです。

このような文章を書けるだけの経験をしたことは一生の宝といっても過言ではないと思います。

この写真(合宿最後の瞬間)を見てやってください。



このような行事を毎年続けている教英生を私たちは心から誇りに思っています。



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 幹部学年になって初めて気づいたことがあります。それは、「各学年FWTで感じ取ることができるものが異なる。」ということです。

 僕が新入生として教英に入って来て間もなく行われたFWT。そのときの僕には教英の雰囲気というものもつかめておらず、周りに親しい友達というものもまだ出来ておらず、何もかも手探りの日々。そんな中でのFWTで、先輩方がまだ見ぬ僕たちのために用意してくれたアクティビティを通しながら、先輩方の優しさを感じ、新天地である教英での新たな仲間とふれあい、そしてその機会を出会ったばかりの新入生である僕たちに与えてくれた教英という場所の暖かさが身にしみて感じられ、心震えた瞬間でした。



 それから1年が過ぎた2年生、今度は僕たちにとって初めての後輩のために先輩方と協力しながらFWTを運営する側として参加しました。1年前、先輩方がどんな気持ちで僕たちのためにFWTを創ってくださっていたのかを肌で実感しながらFWTを創っていき、そして後輩から「楽しかったです。」という声が聞けた瞬間、心の底から達成感が湧いてきたことを覚えています。それと同時に、運営では先輩方に頼りきりになっていた僕たちの姿もそこにはあって、上級生のたくましさ、自分も下級生が頼りたいと思えるような上級生になりたいと強く感じました。

 そして幹部学年の3年生となり、僕は1年生2年生を通じて感じたFWTの素晴らしさを下級生の2年生、新入生の1年生のそれぞれに感じてもらいたい、そして1年生2年生と自分がFWTに参加してきたからこそわかる学年ごとに異なるFWTの感じ方を下級生たちに伝えたい、そういう思いからFWTの幹部に立候補しました。

 FWTの幹部3人で昨年末から話し合いを始め、少しずつ少しずつ、時には真剣に、でもそれと同じくらいふざけ、それでもFWTに対して3人が持っていた共通の信念は絶対にぶれないように、FWTの準備を進めていきました。



 4月になって新入生が入ってくると、それまでまだずっと先のことのように思われていたFWTが急に現実味を帯びてきて、時間に追われながら毎日3人で集まって準備をしました。そんな中でもいつもユーモアを忘れず、笑いが絶えない話し合いや準備にとてもやりがいを感じながらFWTまでの毎日を過ごしました。

 そしてFWT当日、3年生である僕たちは幹部学年としてまだ見ぬ行事に不安そうな新入生と初めての運営側で少し緊張した2年生の様子、そしてFWT全体の運営に目を光らせつつも、それと同時にどの学年にも負けないくらいFWTを楽しみました。行われたアクティビティはどれも面白いものばかりで腹の底から笑い、気持ちの高揚からクタクタになるまで体を動かし、まるで少年少女に戻ったかのようにすべてのものに好奇心を注いで全力で楽しみました。

 1泊2日は飛ぶように過ぎ去っていき、最終日の閉会式、そこには前日の緊張した面持ちが嘘のように楽しそうな顔をした新入生、やりきった顔で清々しそうな2,3年生がいました。この時点ではまだFWTは終わっていませんでしたが、それでも僕たちが創り上げてきたFWTが意味を持った、そして僕たちが心から伝えたかった想いが各学年に伝わったと実感できた瞬間でした。



 FWTの最中は絶対に泣かないと決めていた僕は閉会式の間、目に涙をためながらもそれを流す事はなくFWTの全日程を終了しました。ですが、家に帰った後、ふと一人FWTの事を振り返っていると自分の心の奥に押し込めていた想いが溢れでるかのように自然と涙が頬を伝って止まらなくなり、次第に声もあげながら泣きじゃくりました。大学生になって感情の高ぶりで涙を流したのはこの時が初めてで、涙を流しながら自分がこれほどの想いでFWTに取り組んでいたのだという事が再確認できました。

 FWTに深く携わることができて本当によかったと思います。不安を抱えながらも参加してくれた新入生、上級生と協力しながら共にFWTを創ってくれた2年生、そして幹部学年として企画の中心に立ち、1番側で苦楽を共にしながらFWTを創り上げてきた3年生、幹部3人がFWTを創ったのではなく、このすべてがあったからFWTは完成しそして成功したのだと思います。本当に感謝の念でいっぱいです。ありがとうございました。




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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。










2017/04/27

10代・20代の皆さん、英語教育を変えるための提言をしてください! 英語教育小論文コンテストを開催します。


この度、広島大学教育学部英語教育学講座では、英語教育小論文コンテスト「10代・20代が創る未来の英語教育」を開催し、その結果を授賞式と対話の集いで皆さんと共有します。

英語教育に興味を抱く10代・20代の皆さん、ぜひ小論文コンテストに応募してください。

英語教育関係者および英語教育に興味を抱く一般市民の皆さん、ぜひ授賞式と対話の集いにご参加ください。

以下、(1) 小論文コンテスト  (2) 対話の集いについてご案内します。







(1) 小論文コンテスト 
「10代・20代が創る未来の英語教育」

上の図はクリックすれば拡大します。
PDFファイルはここからダウンロード



■ 趣旨

 未来を創るのは若者です。日本の英語教育とて例外ではありません。

 広島大学教育学部英語教育学講座は、未来の英語教育を創出するための大胆な知恵を若い世代に求め、「英語教育小論文コンテスト」を開催します。

  10代・20代の若い皆さん、新鮮な発想で旧来の英語教育感を揺さぶってください。

 そして共に、日本の英語教育を変えましょう!


■ 対象者(コンテストに応募することができる人)

 U-19の部:日本国在住の10代(未成年)の人
 U-29の部:日本国在住20代(20-29歳)の人


■ テーマ

 日本の英語教育を改善・改革するための提案、考察、批判など


■ タイトル

 応募者が自己決定


■ 執筆言語

 日本語


■ 分量

 1000-3000字程度(U-19部門)
  2000-4000字程度(U-29部門)


■ 締切

 2017年6月23日(金)深夜(郵送の場合は当日消印有効)


■ 提出形式

 ワープロ原稿を電子ファイル送付もしくは郵送


■ 記入必須情報

 氏名(匿名可)、年齢、メールアドレス


■ 賞

 奨励賞:若干名に賞状
   優秀賞:U-19の部とU-29の部のそれぞれ1名に賞状と図書カード(5,000円分)
 最優秀賞:1名に賞状と図書カード(10,000円)と受賞式出席のための旅費(注)

(注)旅費は、広島大学内規に準じて定めるもので、バスや鉄道(新幹線・特急も含む)、もしくは遠距離の場合は飛行機の普通席往復旅費です。日帰りが不可能な場合は宿泊費も支給します。ただし、タクシーや自家用車を利用した場合はその旅費を支給できませんので、ご注意ください。


■ 授賞式

 2017年7月23日(日)13:30 広島大学教育学部K102教室
 https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
 授賞式は広島大学英語教育学会の公開イベントの一環として開催し、英語教育学講座代表による講評、最優秀論文の代読、賞状と賞品の授与、受賞者のスピーチを行います。また、授賞式の後に、最優秀受賞者も含めての対話の集いを行います。


■ 連絡・送付先

 広島大学教育学部英語教育学講座事務室
 739-8524 
 広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部
 y-oishi1107@hiroshima-u.ac.jp








(2) 対話の集い
「共に語り合う未来の英語教育」


上の図はクリックすれば拡大します。
PDFファイルはここからダウンロード



■ 趣旨

 対話の集い 「共に語り合う未来の英語教育」では、広島大学教育学部英語教育学講座主催の小論文コンテスト 「10代・20代が創る未来の英語教育」の最優秀論文の提言を基に、英語教育をどう改善・改革できるかを、幅広い年齢層と多様な立場の人々が対等に話し合うことで、建設的で風通しのよい教育文化を醸成することを目指します。
 

■ 対象者(参加可能な方々)

 広島大学英語教育学会の公開企画として行いますので、どなたでも参加できます。事前の申込みなどは必要ありません。


■ 日時

 2017年7月23日(日)
 13:30-14:00  小論文コンテスト授賞式(最優秀論文代読、受賞者スピーチを含む)
 14:00-14:50  広島大学教育学部英語教育学講座の学部生、大学院生、教員によるシンポジウム  「最優秀論文をどう活かすか」
 14:50-15:00 小休憩
 15:00-15:50  全員での対話(小グループでの対話から会場全体での対話につなげます)
 15:50-16:00  閉会行事
 16:00-17:00  ワンコイン・パーティ(ノンアルコールの飲み物とかんたんなお菓子と共にさまざまな会話を楽しみましょう。参加料500円を払っての任意参加です)


■ 場所

 広島大学教育学部(東広島キャンパス)
 https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
 K102教室(対話の集い)
 K104教室(ワンコイン・パーティ)


■ 連絡・送付先

 広島大学教育学部英語教育学講座事務室
  739-8524 
 広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部
 y-oishi1107@hiroshima-u.ac.jp




皆さまお誘い合わせの上、ぜひご参加ください。

さまざまな人々の知見を対話で集約し、共にに公教育としての英語教育を創り上げましょう!






他教科の院生・教員との対話から学んでいる英語教育専攻大学院生の振り返り



私が所属している広島大学教育学研究科教科教育学専攻の修士課程では、昨年から「共通科目」として10の異なる教科を専門とする大学院生・教員が共に学ぶ授業を開始しています。初年度の成果は、研究報告書としてまとめ、以下のホームページで公開しています。


異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


以下は、その共通科目の一つである「教科教育学研究方法論」(概要 詳細)の最初の授業に参加した大学院生(M1)の振り返りの一部です。

近代知の専門化があまりに進行して知が細くなってしまい、知を統合できる人材、あるいは異なる専門家と対話ができる専門家が少なくなってしまったという指摘はずいぶん昔からありますが、それを克服する積極的あるいは実質的な努力はそれほど多くないのではないかと個人的には感じています。

この「教科教育学研究方法論」を始めとした広島大学教育学研究科教科教育学専攻の試みは、ますます複合化・高度化する知識社会で活躍できる実践者・研究者を育成する試みです。ぜひご注目いただけたらと思います。






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■ MY


私は今回の講義について、以下の3点に焦点を当てて振り返りたいと思います。結果的に振り返りを自分の研究領域に引き付け過ぎていますが、教科横断的な講義の中でシェアしたいという想いの基に書かせていただきました。なお、私は英語教育研究を専門としています。

① 教科間の対話の重要性
② 現代社会の中での英語教育研究の役割
➂ 他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話


① 教科間の対話の重要性

 教科間連携という言葉は私たちにとって新しい言葉ではありません。私が大学に入学した4年前には、すでにそうした連携の必要性は唱えられていました。しかしながら、4年間の大学生活の中で受講した講義の中に、異なる教科の教員志望者の間での対話がメインとなるものはありませんでした。またそうした状況から容易に想像できる通り、学部の卒業論文等にもそうした類のテーマが選択されることは無かったと記憶しています。私が専攻していた領域は言語に関わるものでしたが、同じ言語に携わる領域である国語科教育や日本語教育の学生や先生方と、講義等で公式に対話の機会をいただいたことはありませんでした。

 ここには様々な問題が関わっていますが、その中の一つの理由は「外国語教育=英語教育」という狭小な認識が、現代社会において暗黙の前提となっていることに加え、当の英語教育研究の関係者の中にも、そのような認識を未だに固持している方が少なくないことです。英語教育研究を専門にしているからこそ強調したい点ですが、現在の日本の英語教育は「英語至上主義」、「実用主義」、「数値至上主義」を基盤として動いています。そこに複言語主義的、英語の学習、使用を通して、英語だけでなく母語や他の諸外国語を知る、学ぶという視点はほぼ無いと言って良いでしょう。英語教育研究の関係者が今後まず行うべきは、他領域の研究者の方々との連携、それを可能にする対話です。少なくとも、同じ言語を対象とする研究領域の方々との連携が存在しない状態では、学習者たちはもとより、彼ら/彼女らの教育に携わる私たちの視野は狭まる一方です。


②現代社会の中での英語教育研究の役割

 今回の講義で取り上げられた3.11というテーマを受け、私も英語教育研究者の立場から何ができるか考えました。英語を扱っているので、「海外からの情報の受信、国内からの発信」ということを推しても良かったのですが、それは英語教育研究に携わる他のM1生が力説してくれると思っていたので、私自身は「言語について語ること」について考えることを強調しました。先述の通り、現代の英語教育の趨勢は英語の実用的な価値を強調する方向に傾いています。もちろん、災害時を含め、現代の日本社会における英語使用の重要性を否定するつもりはありません。しかしながら、英語を使うことに対する焦点が存在する一方で、使用されている英語について分析的、メタ的な視点を持つことの重要性に関しては、あまり大きな関心が持たれていないのではないでしょうか。例えば、英語を聞く力や読む力、話をする力等を向上させることによって、海外との連携の一助となることも可能ですが、英語教育が担う役割はそれだけではありません。例えば海外のニュースと日本のニュースの情報を様々な観点から比較したり、英語をメタ的に分析する力を母語の分析に利用し、政治家等々のレトリックに対処することを可能にしたりする力を養うこともその一つです。本講義のように教科の垣根を越えて意見を発信できる場をお借りし、真に学習者と社会全体に貢献できる英語教育を、他教科の知見を可能な限り利用しながら模索しなければなりません。



➂他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話

 ②で述べたことと重なりますが、英語教育の研究者間でも各々の意見は大きく異なることがあります。さらに、そうした意見の分断は時折大きなものになってしまいます。だからこそ、他の領域の新鮮な知見を利用しつつ、自分たちの研究を相対化する必要があるのです。私は自分自身の研究テーマが「言語について語ること」に密に関連していますが、だからといって言語使用に関する研究を否定することは決してありません。ともすれば極端な方向に振り子が振れる英語教育研究なので、教科横断的な対話の実践を通し、その経験をさらに英語教育研究者間でシェアすることによって、私たちの研究領域をバランスよく発展させていきたいと考えています。



■ MK

学部時代から対話概念を学び、対話的ディスカッションを経験してきた教英生にとってはおなじみとなった形式の講義でした。

 これまで対話を行ってきたのは同じ価値観を共有し、英語科の文脈を理解してきた人たちであったのに対して、今回は専門の教科が異なるゆえに、自分たちとはまた異なる観点から意見を述べることができる人たちであったという点で、大変興味深い経験ができたと考えています。以下、①他教科との対話、②英語科としての立場 にしぼり話をします。 

 「3.11が明日起こるとしたら自分はどう感じ、考え、行動するのか」というテーマは初めて集まったメンバー同士で語り合うには重たすぎるテーマかもしれないな、と考えていたのですが周りを見ると多くのグループがすでに意見を述べ合っています。こちらでもすぐに会話が始まり、理科の観点から地学における防災論、そしてそれを用いた「津波」に対する防災教育の話、社会科からは市民性教育の観点から非常時に市民が錯綜する情報を多面的に判断し行動するあり方を、家庭科からは”家族・家庭”を再認識させる働きかけや防災教育についての話をいただきました。特に興味深いと思ったのは理科の方が発した、災いを忘れると書いて「忘災」という言葉が出ているが、今回の震災を語り継ぐためにどのような取り組みができるか?という問いです。そこから話は発展して広島においても原爆ドームを残すか残さないかで大きな議論があったが結果として残されているのは忘れないためである、だとか被ばく経験を広島がどのように語り継いでいるかが参考になるだろう、ということまで話すことができるのは、ひとえに対話的環境が醸し出す自由な雰囲気のおかげでしょうか。他教科と学びを共有するというのは刺激的な体験です。私がそう感じるように、周りの方にもそう思っていただけるような情報を共有せねばならないと考えました。

 最後に、自分自身が3.11に英語教育学を学ぶものとしていかに貢献できるのか考えたことについて言及します。震災という非常事態において、人と人がトラブルなく協力できること、共に仮設住宅で生活できること、意思を伝え合うことができることというのは非常に重要な問題です。コミュニケーションを教える役割を担ってきた言語教育の中でも英語教育、とりわけ学校教育における英語科はこのことについて多くを貢献することができていなかったのではないかと考えます。極端な言い方になりますが中・高等学校においては受験合格という出口を最重要視した暗記科目と遜色のない現状、コミュニケーション重視を打ち出したとは言え中身のないペラペラ英語話者を量産してしまいそうな英語教育政策を見るに、「非常事態に他者とどのようにうまくやっていくか」、そしてそれはいかにして教えていくのかという実は重要な発想が欠けているように思えます。英語教育が根底として何を目的としているのかという問題は、実はまだまだ問い直しが可能な事柄なのかもしれません。

 震災と教育を自分の中で結びつける視点をいただくことができた今日の授業に感謝するとともに、これから他教科の視点をどんどん取り入れていくことができることに期待します。



■ MM

今回の講義を通じて、対話(dialogue)という言葉の意味とその重要性を再認識しました。対話とは、話し手と聞き手の間で発生する差異について考えることを繰り返すことによって、一緒に新しいものを創造していくことであると理解しました。グループでの話し合いにおいても、多くの差異が発生しました。

例えば、数学専攻の方は、数量的・数値的に、体育専攻の方は、身体や健康、運動に関連させてトピックにアプローチしていました。個人的に印象的だったのは、ベトナムからの留学生の方のお話です。その方は、震災当時はベトナムにいたそうですが、Facebookを使って震災に関する記事を共有したり、日本に向けての応援メッセージを送ったりしていたそうです。また、震災の後には、日本の防災教育の凄さについて話題になったこともあったそうです。

この話題は、国が違えば、物事を見る角度、持っている情報が異なるということの一例ですが、同様のことは、やはり教科に関しても言えると思います。グループ内の専門が異なる者、つまり、持っている情報や思考様式に何らかの異なりがある人間が集まり、話し合うことによって、お互いの想定を越えた意味の差異が発生し、多種多様な考えに触れることができました。改めて、学校現場は性質上、教科という枠によって断片化しており、共有性が薄れた、それぞれが非連動的な意味を有する集団の集合体になっており、これからの通教科型、教科横断的な指導を実施していくためには、異なる教科の人と対話をしていくが初めの一歩だと思いました。

また、同時に対話をすることの難しさを痛感しました。教科が違う事でそれぞれが持つ情報の差が発生するのは当然として、お互いの人間性(社交的/非社交的、積極的/消極的など)も大きく対話をしていくうえで重要であると実感しました。対話に対する態度、対話の雰囲気作り、進行の仕方など、どのようにすれば対話がうまく成立するかをこの講義の中で考えながら実践していきたいと思います。



■ IM

今回の講義を通して,感じたことが3つある。

 まず最初に,自分の視点の偏りである。「もし明日3.11が起こったとしたら〜教科教育学の研究者または教師としてどう感じ考え行動するか?」という問いについて,グループで話し合いをした時,私は石巻市の大川小学校で7割の児童が津波の犠牲になったことに関連して教師として何ができるかという話をした。そして,対話が繰り返される中で,「英語の教科としては何ができると思いますか。」と聞かれた。この時,自分の視点は教師としての視点が強く,教科教育学の研究者としての視点は弱いのだということに気づいた。

 次に,教師は児童生徒と十分に対話できているのかということである。柳瀬先生の「よい対話とは」というお話の中に「偏見なしに他人に影響を与えようなどとせずに傾聴する」ということがあった。学校においては,教師の一方的な指示や押し付けになっていることが多いのではないかと感じた。これは,教師自身に自分の思考や意図は絶対的に正しいという思い込みがあるからではないだろうか。児童生徒の成長を促すためには,時にはそれらを捨てる覚悟も必要なのではないかと感じた。

 最後に,学校現場で教科間の融合ができたら何が生まれるだろうという期待である。中学高校では教科の指導が単独で行われる。他教科との連携や融合はほとんど行われていない。しかし,社会に出れば各教科で身につけた知識や技能が単独で使用されることはほとんどないのかもしれない。このことを踏まえると,教科間の融合で生まれるものは教育上有益であるはずだ。

 他教科の人たちの意見を聞き,対話することで新たな視点を持つことができた。またそこからお互いの考えを掘り下げ,それを共有することで新しい考えを生み出すことができるということを実感した。



■ SK

今回の他教科(時には他校種)の学生の皆さんとの交流を経て私が感じた事をまとめて復習とさせて頂きます。

私たちのグループで話題に挙がったのがいわゆる「習熟度が低い」学習者に各教科でどう対応しているか?というものでした。

つい最近、私が所属していた学部のコースの先生が英語科では、依然として「英語嫌い」に対する十分かつ有効な研究がされていないというお話がありました(様々な背景を踏まえたお話であったのでここではそれについて深く触れることは避けます)。このお話を聞いた後ということもあって、他教科の皆さんの非常に明確で分析的な「○○嫌い」に対する知識・思いに本当に感銘を受けました。

その中でも保健体育科の学生さんがされていた話が特に興味深いものでした。その方は、幼児の体育教育に携わった経験があるそうで、その際に習熟度の差の例として「早生まれの児童と」と「遅生まれの児童」の例を挙げられていました。保健体育教育に全く見識のない私でも一年間という発育段階の差を抱えながら、共に同じ学習環境を共有していることのすさまじさは容易(専門とされている方には失礼かもしれませんが)に想像できました。このような大きな「差」に対する工夫、配慮を当然の前提として保健体育の教育は、なされるそうです。

 正直なところこのお話を聞いた時に私の「英語教育」に対する考えはなんと横暴で乱雑なものだろうとショックを受けました。他方では、上の例のような緻密で責任を持った研究(教育)をなされている一方で、私という教員志望の学生は、知らず知らずのうちに弱者を切り捨てるような理念を持ってしまっていたことを痛感しました。

 今回は保健体育の教育を例に挙げましたが、他の教科の皆さんも本当に私に常識や固定概念を見直す機会を与えてくれる素晴らしいお話をしてくださりました。次回以降も多くの私の「常識」を覆して下さるのが楽しみです。



■ YR

今回の授業では、自分が勤務する学校での職員会議などの話し合いについて、新しい視点をもつことができた。教科の違い、経験年数の違いから、議論が平行線になったり、しっくりいかないことがある。しかし本当は、議論の前に、それぞれの先生と対話をしていることが大切なのだと思った。

 3.11に関するテーマについて、対話をするとなった時に、どんなものになるのか想像がつかなかった。しかし、指定討論者の意見を聞いた時に、専門性があるということの素晴らしさに感銘を受けた。避難生活によるエコノミー症候群を心配すること、初めての経験に言葉を失い、新たな言葉を紡いでいくこと、これまでと今とこれからの思いを形にして残すこと、数字や値を正しく理解し、ただ不安になるのではなく理性的になること、内容に結びつく英語で外とつながっていること、次に起こることを予測することなど、それぞれの専門を立場とした意見は、その専門がもつ力を教えてくれた。

 それから自分のそばにいる院生との対話は、面白い内容となった。「うまく話がまとまらない」というメンバーもいたが、同じことについて考えようとする姿勢が大事だと思った。自分の専門性があるからこそ、気づき、行動することができる。だから、専門性を磨き、他との融合のために対話していく人間になりたいと思った。発表してみて、私はどうしても意見をまとめる癖がついているという発見もあった…。



■ TK

われわれ教師は児童生徒に本当に「役に立つこと」を教えているのだろうか。

そんなことを考えるきっかけとなった講義だった。

児童生徒から「こんなん勉強しても何の役にたつん?」という質問を受けたことがないだろうか。

もしくは自分自身が学習者のとがそのような質問や疑問を感じたことはないだろうか。

そんな質問が来たとき私は

「自分がこの学習を役に立つものに変えていくんだよ」と答えている。

役に立つかどうかはだれにもわからない。学習者が「役に立つかどうか」で判断し知識技能の習得を取捨することはリスクがあるともいえる。

教師として知識・技能を児童生徒に伝え、思考・判断・表現力をはぐくむ場を与えてきたつもりであるが、3・11のような未曾有の事態において、役に立つと思われていた既存の知識や技能はどれほど役に立ったのだろうか。

逆に「役に立たない」と思われていた学習が「役に立った」こともあるのではないだろうか。

講義では社会科・理科の生徒が発表した後、音楽科の生徒が「音楽は、社会や理科みたいに役にたたないかもしれないが」と話し始めた。

しかしグループで対話を進めていく中で、他教科学生達からの音楽の有用性について発言を集め、音楽の役割・効果が明らかになってきた。

ともすれば、即効性を、あるいは受験というフィルターを重要視した知識技能伝達型の授業を行いがちである我々に、ふと立ち止まって考えることの重要さを与えてくれた講義であった。




2017/04/26

卒業生がお子さんを連れて遊びに来てくれました


教英に卒業生が遊びに来てくれるのは珍しくなく、実は昨日も、大学院を出て二年目で、現在高校教員として活躍中のKR君(というより今やKR先生w)が遊びに来てくれたのですが、本日は管理人が教英で最初にチューターをした学年のHNさんがお子さんを連れて遊びに来てくれました。




HNさん(旧姓HNさん)は教英を卒業ししばらく教員として活躍した後、教英の先輩のHYさんと結婚し、現在は一男一女の母親としてHYさんと幸せなご家庭を築いておられます。

HNさんは二人のお子さんを育てながら、今では、教師の視点だけでなく保護者の視点からも学校教育について考えることが多いそうです。

相方のHYさん(高校教師)にも、「私たちが自分の子どもを行かせたい!と思うような学校づくりをしてね」としばしば助言しているそうです。

「自分の子どもや大切な知人を行かせたい学校」というのはその通りだと思います。

教英も、卒業生が自分の教え子や子どもを行かせたい講座として、また教英をよく知る人が自分にとって大切な人を行かせたい講座として、これからも進化してゆきたいと思っています。

ハイ、日々、しっかり勉強し、教育と研究を充実させます!


「英語マニアにはなるな」


以下は、ある新入生の述懐です(一部匿名化しました)。このような自己省察ができる新入生を私としては誇りに思っています。

教英を目指している高校生・浪人生の皆さん、英語の勉強をすることは当たり前ですが、英語しか興味をもたないような寂しい人間にならないでくださいね。





*****


先生のお話の中で”英語マニアにはなるな”という言葉を聞いて、ハッとするところがありました。

私は英語が大好きで、高校生のときには○○コースという高校留学を目的としたコースに属していました。私のいたこのコースは英語教育に力を入れていて、英語の勉強が大好きだった私はクラスでも成績がトップでした。英語のテストではずっと一番だったし、先生にはいつも褒められていて、この調子だと留学も順調だ、と自分を過信していました。

しかしいざ現地に着いて実際にネイティヴの人達と話してみると、会話を始めるどころか相手の言ってることが全く聞き取れず、さらに度重なるカルチャーショックに身が持たず、すっかり自信を失ってしまいました。

現地の学生とうまくコミュニケーションが取れず、ノリとスウェアワードでその場を乗り切ろうとしていた自分は、今思えばとても惨めでした。

文法とボキャブラリーは確かに大事ですが、それをテストした結果得たハイスコアは、結局私に薄っぺらな自信しか与えてくれませんでした。

それでも私は留学を経て、人生で大切なことをたくさん学ぶことができました。

英語に興味がなかったら留学することさえもなかったのだから、今自分は英語が好きでよかったな、英語を一生懸命勉強してきてよかったな、って心から思っています。

だから私はただ英語を教えるだけの教師でなく、英語教育を通して 生徒の人生で大切なものを見つけられる能力を育てる英語教師になりたいです。そしてこの大学生活で少しでもそのような人間に近づくために様々なことにチャレンジし、自分らしくマイペースに、学習を続けていきたいです。




2017/04/25

STARTプログラムの経験を活かして 2017/3/11~3/25


以下は、広島大学の留学制度であるSTARTプログラムを利用してニュージーランドにいったUNさん(現在学部2年生)の感想です。

学部1年生が最初に少しだけ海外生活を体験するにはこのSTARTプログラムは優れています。

広大でどんどん機会を見つけて世界を広げてください!




*****


私は、広島大学が提供するSTARTプログラムを利用してニュージーランドへ約2週間の留学に行きました。この留学を通して、自信をもって何度も話すことの大切さを強く感じました。

研修前や研修中の初期は、周りの友達が話す英語に圧倒され自分から英語を話すことに恥ずかしさを感じ、自分の英語と他学部の友達の英語を比べショックを受けることも多くありました。また、ホストファミリーとの会話の中で、何度も何度も話を聞き返したり、私の話していることを理解してもらえなかったりする度に「自分の英語ではネイティブスピーカーに伝わらないのだろう」とがっかりしました。

しかし回数を重ねるごとに聞き返す回数は減り、より深い内容まで一緒に話しあい、意見交換をすることができました。コミュニケーションが多くできるようになったのは、ホストファミリーや大学の先生らと英語でコミュニケーションする環境のためだと思います。英語でしかコミュニケーションが取れない環境にいることで、英語が聞き取れるようになり、思ったことを伝えられるようになりました。

自分よりできる人がいるとかこれは私にはできないと考えるより、どのようにして自分の力を伸ばそうと考えることが大切だと思います。日本でできることも多くあるため、自分のモチベーションを高く保ち、STARTで学んだことを活かし勉強し続けていきたいと思います。


2017/04/21

教英卒業生の実践が大修館書店『英語教育』の5月号で取り上げられました!


教英卒業生で、新採3年目の島村詩穂先生(高知県立室戸高等学校)の実践が、大修館書店『英語教育』の2017年5月号の「阿野先生・太田先生のにっぽん全国 教室おじゃまします!」で取り上げられました (46-47ページ)。





記事では阿野先生と島村先生の対談も掲載されています。

島村先生の研修会に積極的に参加し、講師の先生の先生に悩みを聞いてもらっては、そこで得た助言を元に考えて試行錯誤を繰り返しているそうです。

現在は、生徒一人ひとりの気づきを大切にするようにしたことが、特に英語力の向上につながったそうです。


卒業生が元気でやっているのは嬉しいです。

島村さん、そして全国の教英卒業生の皆さん、充実した毎日を送ってくださいね。

もし何か嬉しいニュースがあれば、遠慮なく教英スタッフにお知らせ下さい。

皆さんの活躍をこの広大教英ブログで伝えることで、元気が読者の皆さんに伝わればと願っています。


2017/04/19

今年の昼読はさらに多言語空間になりそうです。



今週から始まった「昼読」ですが、二回目の本日は特にさまざまな言語での読書会となりました。

参加者は院生5名、留学生1名、教員2名の合計8名。

読んだ本の言語は英語とロシア語がそれぞれ2名。あとはフランス語、ドイツ語、中国語、日本語となりました。






読書、とりわけ外国語の読書を継続することはそれほど容易ではありません。次から次に来る細々した仕事に追われて後回しにされがちだからです。

「昼読」で(外国語でのものも含めた)読書の習慣が形成されればと思います。

加えて、最後の10分間での意見交換は本当に面白いです。

世界が広がり深まります。

「昼読」は緩やかな集まりですから、ご興味をお持ちの方はお気軽に月・水・金の昼休みに教育学研究科A210室にお立ち寄りください(誰もいなくてもどうぞ勝手に入って下さい)。








留学生も含む学部生による「対話」についての振り返り



ここ最近、管理人はさまざまな機会を通じて「対話」の実践を促進しています。

以下は、学生間の対話を導入した学部4年生の授業(「現代社会の英語使用」)の第一回目の授業での感想の一部です。一人は留学生(ただし教英所属ではありません)ですので、日本語の慣用法からは少し逸脱した書き方もしていますが、意味理解にはまったく支障がありませんでしたので、敢えて修正などはしませんでした。「慣用から少し逸脱しているとしても、これだけ深い内容を伝えられるのなら、この日本語は一つの個性として認められるべきではないか」と考えたからです。

このように母国語話者による修正を最小限に抑える方針(=意味理解に支障がでる場合や意図していない誤解を生んでしまっている場合以外は基本的に修正しない方針)については、アメリカの大学の多くのライティングセンターでは採択されていると聞いたことがありますが、自分自身でその方針についてそれほど共感していたわけではありません。ですが、今回は実際の留学生の日本語を読んで上のように感じた次第です。

もちろん修正についてはいろいろな意見があるでしょうし、文章執筆の目的によっても方針が異なるだろうことは承知していますが、今回は敢えて修正なしの方針を取りました。

ともあれ、以下の「対話」についての学部4年生の意見をお読みいただけたら幸いです。





*****


■ 個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、あらたな考えを創造できる。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 けんかにならないように、などと思って反論しないでいると、対話にならない。傷つけない言い方ができれば、相手を思いやりつつ相手とは異なる意見を言い合えて、対話が進んでいく。

  対話ができた経験があるか、という問いに対し、私は授業や実習で授業を作るための話し合いがそれに該当するだろうと始め思った。しかし、講義中の対話で指摘してもらった通り、授業を作る話し合いは決められた時までに終わって授業を作りきらないといけないという点では、私たちが講義中に捉えた対話の在り方とは少し異なる。具体的に授業を作る話し合いの際は、時間的な制限によって妥協せざるをえない時もあるだろう。他に、わたしはサークルの運営についてサークルのメンバーと話し合うときも対話であったのではないかと思っていたが、その中にも、何月何日までに決めないといけない、など時間的な制限がついていたものがあり、それらも少し違うのだと思った。

そこで後々、対話をした経験は本当になかったのだろか、とさらに考えてみた。ずっと部活やサークルの話になるが、大学の吹奏楽団のみならず、中高の部活についても、母や運営上の関係が強い相手と部活の課題やその解決について話すことがあった。大体、そのときは明確な答えが出るわけではなくてむしろ「難しいね」などとひとまずは話を終えるのだった。そしてまたしばらくして同じ話をする。少しずつしか進展はしなかった。なかなか解決できない、という思いはあるが、いつか答えが見つかるのではないかという前向きな思いは常にあって、辛いとか悲しいといった否定的な思いにはさほどならなかった。対話ができた関係というのは、相手を信頼して安心して発言ができるし、相手も自分の意見を聞いてくれると思って発言できる関係であるから、そのような関係を持てたことはありがたいと思った。

 上司など上下関係がはっきりある相手には、反対の意見を言い出すのも難しく思われる。そういう関係でも対話を意義あるものとして成り立たせるには、上司の側に工夫が必要だろうと思う。あるいは、講義中の意見でも出たように、お互いを知らない時も、反対意見を出すことに抵抗を覚えることがあるだろう。このような時に、対話をうながす態度や話し方ができるようでありたいと思った。それらがどのようであるかということを考える際に一つ思い当たったのは、講義中の対話を見てもらって「間と話しだしの捉え方が人によりけり」と言われたことだった。間の感じ方、これだけ空いたら話せる、という感じ方は違うことを、特に他の国の方と話す時に感じたことがあったが、それは実際には国籍に関係なく生じる個人差である。発言権をバランス良く回す必要があるし、それだけでなく、質問をしたりして議論に巻き込んでいかなければより良い対話にはたどりつけないと思った。


■ 人の呼吸を感じる、という言葉が印象的だった。思い返してみると、高校の部活の試合では「よく相手の動きを見ろ」と言われた。しかし「相手が動いていないのに自分から動いていた」と試合後には同じ助言を何度ももらった。大学のサークルでは「周りの音をよく聞いて」、「口の形を見て」、と言われていたが、いつもずれてしまった。今回の授業で、人の呼吸を感じるということ、表情からその人の感情や動きを読み取る、ということはとても大切なことだと改めて思った。

アイコンタクトを取っているつもりで、何も見ていないのと一緒の時がある。人が目の前にいるのに、ただ浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出すだけの時がある。それは討論どころかコミュニケーションですらない。話していて心地よいと感じる人の特徴は表情や言葉の表現など多くあるのだが、そのうちの一つに、自分が「しゃべりたい」と思ったときにそれを察して、すっと話してから聞き手へと自然にうつるということも挙げられるのではないかと思う。

先日教英の友達と、コミュニケーション能力が高いというのは、ただ笑って話ができるというだけではないのではないか、内容も含めて言えるものではないのか、という話をした。コミュニケーション能力の定義は様々であるが、相手意識は不可欠であるのではないか。こう言ったら、相手はどう思うか、どう返すか、話の流れはどう変わるか、そこまで少しでも見通しをもって話ができれば、相手を大切にしたやり取りが可能になるのではないかと感じた。


■ 
 対話によって、話し手と聞き手の間、意味の完全な一致は前提とされず、意味は差異があることを認めており、むしろ差異があるからこそ、新しいものを作り出すことが出来るという解釈によって、対話の本当の目指すことを考え直した。対話の中に、聞き手は普通に話し手が思っていたこととまったく同じ意味での反応をしないのは、人はそれぞれの背景と価値観を持っており、その価値観によって、自分しか持っていないスクリーンを通じで対話をしているからであろう。そして、対話の中で、自分が言おうとしたことと相手が理解したことの間の差異、本当は対話者それぞれ思考方式の差異だと考えた。その差異から生み出した同じ言葉に対して違うの理解、つまり同じ言葉について考え方の他の可能性そのものは、対話の参加者たちが創造した「共通な新たな内容」ではいかと思った。 

 理想的な対話を作るため、原則的には、対話の議題は定めないことだが、実際に対話をする時に、たとえテーマを決まっていなくても、その対話の最初の発話者によってある話題が提出したら、後の発話者もその人が言ったことあるいは議題に関わる内容しか言えないようになるのは普通だと思う。また、完全に自分の偏見を見捨てて他人に傾聴することも、あるいは自分の思うことをすべて自由に述べることも対話にとっては大切だが、そういった対話をするのがやはり実際の生活でいろいろな場面でも難しいことだなと意識思った。

 対話の参加者の間での意味に差異から何かあたらしいものが生まれてくるのように、私達が言葉にしたことと自分の本当の思考やぼんやりとしか意識できない思考過程の間にきっと何らかの差異があるのだろう。その差異によって、自分の思いに対して新しい認識を得られるかもしれない。それが、私達が言語から自分について学べることなのではないかと考えた。


■ 後半の「対話」というものについて実際に対話をして見るときには,これほど日本語で対話をすることが難しいのかと驚きました。私たちのグループの対話の進め方は,提示されている質問に対して一人一人が意見を述べていくという形でしたが,後から振り返って見れば,これは対話とは到底言えないものであったのではないかと考えてしまいます。対話とは,異なる意見・異なる背景を持った人と話し合う中でなんとなくこれが真実なんだろうね,というものへと近づこうとする試みであると考えますが,私たちが行っていた話し合いではただひたすらに自分の意見を述べるだけで,人の意見を受けて自分の考えを変えたり反論して見たりすることが一切なかったように思います。母国語で対話をすることは造作ないだろうという考えは,私たちが日本語そのものに関する知識は十分なのでしょうが,対話をする経験や意義などを持っていないことに気づいていなかったからこそ持ってしまうのでしょう。


■ 対話についてですが、自分がこれまで思っていたものよりはるかに創造的で高度な営みであるということがわかりました。今回の対話体験を通して一番心に残ったのは聞き手の「受容力」です。特に、聞き手は話し手とまったく同じ意味での反応をするわけではない、という点が印象的でした。自分がとにかく伝えているだけでは相手に伝わらない、したがって相手の理解を踏まえて(受け入れて)少しずつお互いが良いと思う方向にすり合わせていかなければならないことになります。ここで自分を押し付けたりせずに、傾聴する姿勢を持たなければ対話は成立し得ません。





2017/04/18

オーストラリアに留学中のIYさんからの便り


現在、広大のHUSAプログラムを使ってオーストラリアに留学中のIYさんからの便りを転載します。

彼女も書いていますように、長期留学をすると卒業が遅れはするものの、それだけ一層充実した大学生活を楽しめるようです(もちろん勉強は楽しいばかりでは済みませんが)。

管理人はオーストラリアに一度しか行ったことがありませんが、IYさんからの下の写真でオーストラリアの空の色を思い出しました。いいなぁ(笑)。





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こんにちは。ご無沙汰しております。

私もオーストラリアはゴールドコーストで元気に生活しています。今日までイースターブレイクで授業もなく、先日はFさんとシドニー、メルボルン、ゴールドコーストを旅行してきました。やっと一段落付いたので、近況報告をと思い、メールを書いています。

私は今、これまで学んだことのない分野の授業を履修しています。きっと留学を決めた人の多くはこの大学でこれを学びたいというものがあったのではないかと思いますが、私は留学に来てからそれが全くなかったことに気付きました(笑)。ただただ、留学をして英語に触れたいと思っていたみたいです。パッと目について面白そうだと思った授業を履修したのですが、しばしば苦労しながらも楽しく授業を受けることができています。



1つめの授業は、Language, Technology and Social Mediaという授業です。シラバスを読んでこれは教英のコンピュータの授業に似ていそうだと思い履修したのですが、フタを開けるとびっくり、バーチャルクラスでした。パソコンの画面越しにレクチャーを受け、受講者は先生の質問などにチャット形式で答えていくという授業スタイルです。このチャット形式というのが結構な曲者で、一生懸命打っている途中で話が別の話題に移っていたり、他の人のコメントを読んでいる間に先生の話している言葉を聞き逃したりなど、初日は特に苦戦しました。

しかし、授業内容はとても興味深いです。このブレイク前に中間試験として、言語学習を手助けするアプリやサイトを文献からの根拠とともに紹介するプレゼンテーションを録画し、YouTubeにアップして互いにコメントをし合いました。私はTED Edについてのプレゼンを作ったのですが(先生ありがとうございます!ネタがありました!!)、英語話者にとって英語学習に役立つサイトというのはとても興味深かったようで、よいフィードバックをもらうことができてお世辞でも嬉しかったです。




2つ目の授業は、Writing Poetryという授業です。レクチャーで詩をつくるときのテクニックを学び、チュートリアルで週に1人ずつ自分で作った詩を発表して他の受講者からアドバイスをもらうというものです。正直なところ、詩に出てくる単語の意味を取ったり調べたりがやっとで味わうというところまでいけていませんが、それでも毎回新しい表現や技術を学ぶことができ、自分の詩に活かすことができるととても楽しいです。

先週は私の発表の番だったのですが、シンプルなワードチョイスが良いと言われ、私のスカスカの語彙力も捨てたもんじゃないなと思いました(笑)でもやっぱりネイティブの子の書く詩は技巧が凝らしてあり知っている単語が私は思いつけない方法で使われていて、羨ましいし近づきたいです。




3つ目の授業は、Understanding the Social Worldという社会学の授業です。今まで社会学のしの字も触れたことがなかったのですが、‘Make the familiar strange’という標語に釣られ受講することにしました。授業内容もまさにそのままで、Race, Age, Culture, Class, Genderなどの身の回りにあることについて社会学の3つの考え方を使って考え直し、ディスカッションをするというものです。

ディスカッションは聞き取るのが精一杯ですが、柔軟な考えやステレオタイプの違いに毎度驚かされます。授業後には1つのテーマに沿って500単語程度のリフレクションを書くのですが、なんとか母語ではない言語でインプットしたものを母語ではない言語でアウトプットすることの難しさを痛感しています。リフレクションの良し悪しは別として提出した瞬間の達成感を求めてなんとか頑張れています。3つの授業の中で一番興味があり、楽しく受けられている授業かもしれません。




すごく長くなってしまいましたが、不平不満をときに漏らしながらも本当に心から留学を決意して良かったと思います。卒業を1年遅らせることに不安を抱いて悩んでいた時期もありましたが、今はそれだけの価値はあると昔の自分に胸を張って言えます。授業はもちろんですが、普段の生活から学ぶこと、感じることが大渋滞しています(笑)。

私は今オーストラリア人3人とアイスランド人1人とハウスシェアをしているのですが、英語はもちろん文化や常識の違いを知ることができます。カルチャーショックを受けるときもありますし、見習わないとと思うこともあるので共同生活も面白いです。留学に来てから約2ヶ月、あっという間だった!というわけでもなく、良く言えば毎日が充実している、悪く言えば緊張感が続いた濃い2ヶ月でした。あと約半年経てば嫌でも日本に帰らなければいけないので、今のうちに学べるだけ学んで、楽しむだけ楽しんでおきたいです。

ふと書き始めてこんなに長くなるとは自分でも驚きました(笑)新学期も始まってお忙しい中、読んでいただきありがとうございます。先生もお体には気をつけて、お仕事がんばってください。
それでは、失礼します。

IY








2017/04/17

教英新入生の意気込み



以下は、学部新入生対象の「教養ゼミ」で私が話した際の学生さんの感想の一部です。私は以下のような趣旨で、90分間「学生時代の落とし穴」という題でお話をしました。


教英入学式での挨拶


下の文章を見てもわかるように教英生といってもいろんな個性があります。そんな新入生がこれからの4年間で、ますます自分自身を見出し、しっかりと自分自身のことばを身につけてほしいと切に願っています。






*****


■ 今日の授業を受けて一番強く感じたのが、夢へ向かって歩む道のりで感じる不安な気持ちに、特効薬はない、ということです。

これをすれば大丈夫、これさえ出来れば過程段階で手を抜いても良い、などという保証はどこにも無く、今までもきっとそうだったのだと思いますが、大学生活では特に一人一人に、自己の行動に対する責任がのしかかってくるのだと感じました。少しマイナスにも聞こえる表現を使いましたが、裏を返せば、目標までの過程で何をしても良い、自分の好きなことをとことん突き詰める自由が与えられているということでもあります。

今日の授業で先生もおっしゃっていましたが、高校まではどことなく、先生が描く理想の答えのようなものがありそれを察しその通りに行動するよう求められていました。この雰囲気の中で、全体に共通する社会規範が自分に叩き込まれ、基礎として私の中に残り、コミュニティにおけるあるべき姿としての人格が、1つのパターンとして形成されたと思うので、この風潮が悪いものであるとは思いません。しかし、その流れの中で、自分の好きなこと、したいことを見失ってしまったのも事実です。私は、英語教員、という一つのゴールを見据えて、受験生の時間を過ごし、広島大学に入学しました。英語が好きで、教師という職業にずっと憧れを抱き続けていました。いざ教師という夢の第一歩である教育学部に進学し、学びたいことを自分で選択できるようになると、ゴールに至るまでの過程段階で何を積み重ねたいのかが思い浮かばない自分がいました。その時に初めて、大学生活の難しさのようなものを突き付けられた気がしました。

自由が与えられている、これはその自由を行使する権利があるのと同時に、自分で選択する、いやそれよりも前に、選択肢を自らに提示する義務があるということです。もし、自分なんて~~だからこんなこと出来ない、と思うのであれば、~~の部分を自らで変えなければならないし、周りが〇〇だから、という場合は〇〇であったとしても可能な選択肢を増やさなくてはならない。どんな要因も言い訳にはならないことを強く実感しています。

 冒頭で触れた不安な気持ち、を軽くするにはどうすればよいのか、この答えはまだ導き出せていません。しかし少なくとも不安な気持ちを持つ自分から逃げて楽に走ろうとは思っていません。不安を抱える今の自分と向き合うための意志を確立するきっかけとなった授業だったと思います。

 広島大学で、教英で過ごすこれからの時間の中で、多くのこと・もの・ひとと主体的に関わり、「生きる力」を身につけ、将来の生徒に伝えていけるよう、精進します。




■ 授業の感想というよりは、自分の中で先生のお話を反芻して考えたことを記す形になると思います。

 まず、大学では、とにかく自分で考えて、すすんで動くことが大切なのだと改めて感じました。これまで私は、先生がおっしゃることにそのまま従うだけで、自分なりの意見を持とうとしてきませんでした。ですから、大学に入って、自分で時間割をつくるというのでさえ非常に戸惑いました。履修登録の時には、何もかも決めてくれる人がいたらどんなに楽だろう、と何度も思ってしまいました。しかし、全ての行動や判断を他人に委ねてしまっている限り、私は「お子ちゃま」なままだ!と気づくことができました。

今まで自分で考えることを放棄してきた代償として、私は自分が本当にしたいことが何なのかを見失っています。自分に素直になれ、と言われても、素直な自分とは何なのか?と思ってしまいます。ですから、大学ではすすんで人と関わり、その方々と話をする中で、素直な自分の感情を取り戻したいと考えています。そして、誰かにただついて行くのではなく、自分なりの意見を持てるようになりたいです。

このことと関連するのですが、これまでの私は、先生のお話にもあった「優等生」キャラだったように思います。まわりの人に優等生と言われることで、自分の価値を見いだしてきました。しかし、大学生になって、優等生という肩書きにすがる生き方が、いかに空しいものだったのかを痛感しています。例えば、新歓で同級生や先輩方と楽しくお話したかったのに、思うようにコミュニケーションがとれなかった時。自分の殻に閉じこもって、人付き合いが下手な私・・・と悔しい思いをしました。成績より大切なものは、いくらでもあると目が覚めた出来事の一つです。新しい環境では、これまで私は優等生をしていた、などのことは全く意味を持たないから、自分で自分の強みを探さないと!と思いました。

また、私は周囲の大人からの「優等生」という評価に依存し、何度も苦しい目に遭ったので、私が大人(先生)になった時には、周囲の人(生徒)を型にはめるのではなく、その人をしっかり見つめようと思いました。

次に、教職についてのお話を聴いて、自分の将来を真剣に考えねばと思いました。なぜなら、私は少々ゆがんだ理由で教師になろうとしていたからです。最近、純粋に教師を志している教英の人と話をしては、自分の不純さや周囲との温度差を感じて苦しい思いをしています。私は教師を目指してもよいのか、としょっちゅう悩んでいます。そんな時に先生のお話を聴いたので、正直耳を塞ぎたくなりました。しかし、いつか決断しなければならない時は来るので、そのための判断材料としてのお話が聴けてよかったです。教師を目指すかどうか、すぐには決められません。今のところ私にとっての最大の課題であり、まだまだ悩む予定です。

また、先生は時間の大切さについてもお話されたと思いますが、私も今、時間の大切さを実感しています。一人暮らしを始めて、家事に時間をいっぱいとられるようになり、自分が好きに過ごせる時間が激減しました。SNSのアプリばかり開いてボーッとしている時間がもったいないと思うようになりました。先生がお話されたことと趣旨はズレているかもしれませんが、自分なりに時間の大切さを理解しました。それと同時に、限りある時間を自分磨きなどの、自分で納得できるものに使いたいと思いました。ですので、たとえどれほどお金を積まれても、私は自分の時間を売ることはないと思います。

最後に、私は大学で本当に自分のやりたいことを見つけ、人と比べるばかりの生き方から脱却したいです。そして、授業料以上のものを授業で身につけ、将来は、今までたくさんの方々が自分に注いでくれた愛情を、今度は私が関わる人々に還元したいと考えています。そのために、これからしっかり学び、さまざまなことを経験したいです。



■ 正直、先生のお話を聞いて不安感を覚えました。なぜなら僕は中、高校生のときから人よりも英語が得意であることに自信を覚え傲っていたからです。そして英語ができればそれでいいと考え、満足していたからです。英語が十分に話せても、文法を熟知していても、それでは教師として立派であるとはいえないのだと気づきました。同時に、僕は深みのある人間になりたいと強く思いました。含蓄のある話がしたいと考えました。

そのためにはまず大学で多くを学び経験しようと思います。最低限の単位を取って卒業するのではなく、さまざまな分野の授業を慎重に組み合わせて受け、幅広く確かな知識を身に付けようと思います。ここで気を付けるべきは、ただ授業を受けに行くのではなく主体的に取り組むということです。たとえばペアワークにおいては自らの考えをハッキリと述べようと思います。もしつまらない授業が有ったのなら、なぜその授業がつまらないのか自分なりに分析するなど、時間を最大限有効利用しようと思います。

先生のお話は春休みで弛みきった姿勢を正し、緊張感を取り戻す良いきっかけとなりました。今後の大学生活をより実りあるものにするために自分にできること、必要なことを考えながら日々を過ごしていきます。



■ 今日は教養ゼミでお話をしてくださり、ありがとうございました。自分がやるべきこと、気をつけなければならないこと、そして何より自分の現状を考えるとてもいい機会になりました。

先生の話を聞いてまず、自分は両親からの多大な期待をうけて大学に行かせてもらっているんだと再確認し、その期待に最大限応えるべく、また自分の夢を叶えるためによく遊びよく学ぼうと強く思いました。図書館などの学内施設を十分に活用し、授業以外の場での勉強を充実させたいと思います。

次に”私からすれば気になる学生さんの言葉”の08で話された、「薄っぺらい英語をぺらぺら話すより本を読みなさい。」という話が自分には強く響きました。自分は9ヶ月の留学を経験しました。しかし9ヶ月で学んだことは主に話し言葉で、学術的な話を自分の言葉でするというのは未だに難しいです。なので先生がその話をされた時に自分の中のどこかにあった「自分は留学したのだから...」という甘えや傲りに気づき、英語教師になるにはもう一段階上のレベルの英語を扱えるようにならないといけないと思いました。そのために邦書、洋書を問わずに本を読み、様々な知識を蓄える必要があると感じました。

自分はまだ英語教育自体に対しての知識は乏しいですが、これから授業や本から知識をどんどん吸収して、もっと先生の専門のお話をくわしく聞けたらと思っています。また、在学中に行き詰ることがあれば相談にのっていただけたらと思っています。これからよろしくお願いします。




■ 私は合格発表が出たとき、自分はまぐれで大学に受かったのだと、本気で思っていました。

けれども、先日初めて教養ゼミという授業を受けて、私は広島大学入学した以上、この場で自分のゆき先を見つけ、この場で将来社会に出て、どうにか頑張っていくための生きる力をつけなければならないのだと思いました。

一番大事なのは、成績や地位ではなくて、社会でうまくやっていく力をつけることだ、私の父も私によく言います。

この授業で知った通り、大学の授業はたった一コマに大きな金額がかかっています。

勉強についていけるか少々不安な部分もありますが、私の大学の学費を支払ってくれている両親に感謝して、できる限り多くのものを一コマの中で得ることができるよう頑張りたいとおもいます。そして時間を大切にすること。

まだ始まったばかりの大学生活です。この4年間でもちろん教職の免許をとるという一つの目標があるのは当然ですが、免許を得ることだけ、ただそれだけばかりに目をむけるのでは無く、多くの人、本に触れて、英語だけじゃなくて、ほかにも’何か’を知っている先生となれるよう頑張りたいです。

教養、という言葉を聞くと、堅苦しいイメージがわきますが、この授業はとても楽しかったです。今後4年間、忘れてはならないことを知ることができたと思っています、そして4年間忘れないように頑張ります。




新入生歓迎の対面式と立食パーティを企画してくれたK君(学部3年生)の感想

以下は、新入生歓迎の対面式と立食パーティを企画してくれたK君(学部3年生)の感想です。教英はこのような学生さんのやる気に支えられています。教員としては教育と研究で教英を盛り上げたいと思っています。



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対面式と新歓の企画を通して、1番強く感じたことは「人に恵まれていた」ということです。

一緒に新歓の企画を行ったもう2人の幹部、企画を手伝ってくれた2人のヘルパー、対面式で素晴らしいパフォーマンスをしてくれた28生、対面式や新歓を盛り上げたり、手伝ったりしてくれた27生、対面式や新歓に時間を割いてお越しくださった上級生の皆さんや先生方、そして、まだまだ新生活に慣れない中で参加してくれた新入生の皆さん、、、有り難いの一言です。

しんどい瞬間もありましたが、当日、新入生と上級生が楽しそうに会話しているのを見たり、沢山の人にありがとうと言ってもらえて、幹部をやって良かったなと感じています。そして、企画を通して、自身の人間としての成長も少しだけ感じられました。

最後になりますが、本当にありがとうございました!


2017/04/12

2017年度前期も「昼読」を開催します


食事と運動があなたの身体を作るように、読書と対話があなたの心を作ります。

インスタント食品ばかり食べて、身体を動かさない毎日があなたの身体を鈍らせてしまうのと同じように、教科書や研究論文以外はSNSでしか文章を読まず、当たり障りのない浅い会話(あるいは仕事上の話)しかしない毎日はあなたの心を貧困で鈍重なものにしてしまうでしょう。

貧困で鈍重な心は、あなたの人生の可能性を潰してしまうだけでなく、その抑圧的で独断的な性質で他人の人生の可能性も押しつぶしてしまうかもしれません。


せめて大学では自発的な読書の習慣を大切にしませんか?






「昼読」は、自発的に集まり、各自がそれぞれ静かに好きな本を読んだ後、その読後感を共有する集まりです。感想の共有という活動は、あなたの世界を広げ、深めてくれます。

授業期間中の4/17-7.28の月・水・金の昼休みに教育学A棟のA210室に集って下さい(昨年とは部屋が異なりますのでご注意ください)。

遅刻・早退・欠席自由です。昼食を食べながらの参加も結構です。広島大学の構成員でしたら学生・教職員を問わず、どなたでも歓迎します。

緩やかに集まり、短くとも深い時間を共有しましょう。


代表管理人:柳瀬陽介(英語教育学講座)
メールは広大アカウントの前に"yosuke"をつけてください。



関連ブログ記事:
2016年度後期の「昼読」を終えて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/02/2016.html
昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/4.html
前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



2017/04/11

エジンバラ大学へ学生さんを引率した深澤先生からのメールです


この度の教英英国留学で、 学生さんをエジンバラ大学に引率した深澤先生からのメールです。


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エジンバラ研修第一日目が終わりました。みんな元気で、遅刻した学生もなく、授業中もよく反応していました。学生証をもらってバス定期の手続き等で2万歩ほど歩きました。

今日からは韓国の大学生グループと一緒に授業をうけます。バーバラさんとコース長のマイケルさんからもみなさんによろしくとのことでした。

気温6度のエジンバラから
深澤清治


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写真を見ていると、ああ、もう彼ら・彼女らはスコットランドにいるのだなぁ、となんだか感慨深くなってしまいます(深澤先生は、すぐに帰って来て仕事の波にのみこまれてしまうでしょうが 笑)。

学生の皆さん、若いうちに留学に行ける皆さんが、正直羨ましいです。

しっかり、勉強してくださいね!


2017/04/06

教英対面式が行われました


教英の学部生による伝統の「対面式」が行われました。



教英の新入生に早く慣れてもらおうと、先輩学生がさまざまな仕掛けをします。



その後、新入生一人ひとりが、全員の前で自己紹介をしますが、これもまた面白い。


管理人は例によって写真撮影をして、さきほど編集をし終えましたが、一人ひとりの個性が輝いていて、撮影者としても本当に幸福な気持ちになれました。

以下の写真は、新入生が所属するグループが決まって、その喜びを表現する先輩たちです。

踊りだす先輩たち

会場全体で盛り上げます

すぐに立ち上がる先輩w

小道具も準備しています

テンション高すぎだろw


教英の(先輩と後輩の間の)「縦のつながり」と(同級生同士の)「横のつながり」が一気に深まる行事です。


本日はこれから近くのカフェで歓迎会を行います。新入生がいるのでノンアルコールの会となりますが、これもきっと楽しいものになるでしょう。

管理人も会話と食事と写真撮影を楽しみます。

この新入生のこれからの四年間の表情を折りに触れ撮影できるのが楽しみです(あ、もちろん、授業をする方がもっと楽しみです 汗)。



「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

5/20(土)に小口真澄先生( 英語芸術学校マーブルズ 主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負していま...