2016/10/28

「ようこそ先輩」-昭和37年高外卒同期会の皆様、大学訪問


平成28年10月27日(木)午前10時、広島大学教育学部昭和37年高外(現 教英)卒同期会の皆様10名が,西条キャンパスを訪問されました。ご卒業以来、ほとんどの方が初めてのご訪問であったそうです。





学部玄関に置かれた教育学部の沿革表にあった旧校舎の写真を懐かしそうにご覧になり、また、新キャンパスの状況、第三類英語文化系コースの様子、英国留学研修などについて熱心に耳を傾けてくださいました。その後、構内を散策されて、卒業後54年を経た「母校訪問」で最後の同期会を終えられました。




これからもお元気で。また、いつまでも広島大学のサポーターでいてくださいますよう。

(F)

2016/10/26

One Look Dictionary Searchはお使いでしょうか?

皆さまはOne Look Dictionary Searchをお使いでしょうか?任意の単語を複数の辞書で一気に調べること(「串刺し検索」)ができる便利なサイトです。



One Look Dictionary Search



以下は、「英語教師のためのコンピュータ入門」でそのサイトを知った学部一年生の感想の一部です。


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■ OneLook Dictionary Searchには本当に驚いた。OneLook Dictionary Searchについては実際に購入したら何万円もする何種類もの辞書を無料で見比べられる。そしてそれをブックマークに登録していれば簡単に調べられる。この便利機能を知っていて利用しないことがあるだろうか、いやない。とことん活用しようと心に誓った。

■ いろいろな辞書を比較してみて、Merriam-Webster.comのSimple Definitionはとても見やすくわかりやすいものでしたが、現段階ではCollins English DictionaryとCambridge Advanced Learner's Dictionaryに惹かれます。複数の辞書で検索をかけて適切な表現を取捨選択することは、教員になっても継続されて求められることだと思うので今のうちにその練習をしっかりしておきたいと思いました。

■ 授業全体を通して、やはりパソコンは便利だなということを実感しました。Web辞書の便利さ、特にCambridge DictionaryとOxford Dictionaryが自分に合っているなと思いました。これまではWebページ上で分からない単語を見つけたら、その単語をコピーして新しくタブを開き貼り付けて検索していたけれども、分からない単語を見つけたらダブルクリックするだけで意味がわかる便利さを知った途端に、これまでの一連の作業がとても時間の無駄だったなと思いました。

■ オンラインの辞書はvocabulary.comがお気に入りであることに気づいた。この辞書のよいところは類義語の表記がブレインストーミングのように広がってなされている点である。日本語では分類が細かくされている言葉でも英語では一単語であらわされているように、英語にも日本語にはない表現があって使い分けたいときに便利だと思う。オンラインの辞書が非常に数多くあることを知らないまま教師になって紙や電子辞書を使いつ図ける将来を思うと、この授業で知ることができてよかった。

■ この授業を受けていて感じるのは、自分がPCを今まで全然使いこなせていなかったことを痛感するのと同時に、自分たちは学習するのにとても恵まれた環境・時代に生きていることを痛感します。そんな時代に生きているからこそ、甘えることなく積極的な学習姿勢が私たちには求められていると思います。

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英語を日本語を通じてでなく英語を通じて学ぶようになると、学習が急速に加速し広がり深まります。読者の皆さまももしまだでしたらOne Look Dictionary Searchをご活用ください。


2016/10/25

学部一年生が、面白いTED動画と英語読み物をブログで紹介しています


授業課題の一環で、学部一年生に自分が好きなTED動画と自分が読んだGR (Graded Readers 学習者用に編集された英語読み物)をブログで紹介させるようにしています。


広大教英生がお薦めする英語動画集

広大教英生がお薦めするGraded Readers


以下は、これらのブログ記事執筆を始めるにあたって一年生が書いた感想のごく一部です。英語教師の卵が、こういった課題をどうとらえているかという観点で読んでいただいても面白いのではないかと思います。一年生がこの初心を貫いてほしいと教師としては願っています。


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■ GR紹介、英語動画紹介の投稿においても、「人に面白いと思ってもらうには、面白いと思う感性が必要」との説明には頷く。まずは自分が感じずに、わくわく感を表現はできないだろう。わくわく感を表現できないにもかかわらず、発信相手にはその面白さが伝わるといったようなことは、少なくとも私には、なかなか想像が難しい。また、感じることに難しさがあると、「共感できる、人の気持ちを想像できる」ような、「教える」ことに必須なコミュニケーションのことに関しても、難しさが生まれてくる。

 先生が批判的に例としてあげた、教科書や問題集にしか接していない教師に関してだが、そのような先生から発信される英語というのは、言語という性質上英語が持つ「生きている」感じ、人の近くにあるような、なんだか近づいてみたいわくわくを起こさせるような「生き生き」感を伝えるものであるだろうか。私にはこの例が、その教師の (ここでは、英語の生き生きが生徒にも伝わることを当たり前のよいこととした場合の) 感性の足りなさ、乏しさを表すものと思える。「感性の足りなさ」が公教育という責任ある場にはどのような よくない影響 をもたらすのかということを想像させ、危機感を起こさせるものだった。

 私たちができる、目前のこととして、読書や、自分に向き合った主体的な学習があるのだろう。例えば自分の興味ある分野をじっくり考えて、そこを掘り下げ、その興味から多くのものに積極的に触れてゆくことで、自分の個性をより豊かなものにしていくこと(前回の動画課題の意図は、気づきやきっかけづくりでもあるのかなと思いました)。語彙をため、表現力を身につけ、発信の可能性をより豊かなものにしていくこと。

 特に英語教師には、自らの感性をはぐくむこと----この意味での「自ら学ぶこと」が要求されているのだと考えた。



■ 一般公開にふさわしい文章を書くことは社会に出ると必要不可欠なスキルだが、なかなか練習する機会はないと思う。かといって4年生になってから始めるというわけにはいかないので、自分に興味のあるトピックで今から練習できるのはうれしい。

またGR課題もそうだが、動画課題は単なる英語学習ではなく、教材が個人で選べるため学習しやすく、同時に自分の感性も広げることができる。加えて、他の人の文章をみることで他者の興味、関心、視点に刺激を受け触発され新たな考えを知ることができる。

 TEDの動画課題は教英生にとっても良い学習システムであるが、一般公開のため、一般の人にも良い学習教材になる。TEDは世界放送のため世界中の人々が様々な考えを、また社会の流れを知り、教養を深められ、世界というフィールドの中で知的な営みの流れを作りだせる取り組みだと思う。



■ ただ今回の課題で一番難しそうだと思ったのは動画の紹介文を書くことでした。自分のワクワク感を上手く相手に伝えるには自分の語彙力などは非常に乏しすぎると感じたからです。先生がおっしゃっていたように、日頃から読書等をして文章を書くための土台となる力をつけなければいけないと思いました。



■ 始業前に、以前生協で購入した岩波文庫の「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)を読んでいたのですが、まともに教科書以外で本を読み始めたのは夏休みに入ってからです。(前期に課題・レポート以外で全く読まなかったのを反省しました。)小中校では朝読書の時間が設けられており、毎日本に触れていたのですが、卒業してからは時間があったにもかかわらず、めっきり読まなくなっていました。タイトルや表紙で嫌厭していたものもありましたが、いざ読んでみるとそんなに苦ではなく、始業前に読むと落ち着くと感じるようになりました。読書好きな人に比べると明らかに少ないと思いますが、まずは月一冊読み切ることを目標に少しずつ量を増やしていきたいです。


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これら二つのブログ(再掲)は一般読者の方が見ても面白いかと思っております。



広大教英生がお薦めする英語動画集

広大教英生がお薦めするGraded Readers



前者はTED動画で面白いものを見つけることに直接役立つでしょう。

後者はやや地味ですが、時々、「印象的な英語表現」を探す時に学生さんの感性が光ることがあります。

広大教英は、日本の英語教育の改善のために全力を尽くしています。

志のある方、ぜひ一緒に勉強しましょう。






2016/10/22

博士課程後期学生のための不定期ゼミを開催しました。


本日、管理人が担当するゼミ生のために「不定期ゼミ」を開催しました。



「不定期ゼミ」は、定期的に授業に出ることが困難な博士課程後期学生(博士号を取得することを目指している大学院生)のために管理人が不定期の日程で開催しているゼミです。

博士号を目指す人には、定職をもっている人が多くいます。そういった人は毎週の授業に出ることが困難なので、お互いにパソコン画面を見ながらのスカイプや携帯電話(かけ放題プラン)での指導をしていますが、やはり時には顔を合わせての議論が必要になります。

本日のような不定期ゼミはそのために開催しています。

本日は、準備が9時から、正式開始が10時からで、昼休み(みんなで蕎麦屋さんに行きました)を挟んで夕方5時までみっちりやりました。非常に充実した時間がもてたと自負しています。

これからもお互いに研究を助け合う文化や制度を充実させてゆきたいと思っています。

博士号取得をご希望の方は、自分が指導教員として選びたい教員に予めぜひ連絡をとってください。





2016/10/17

卒論中間発表会を開催しました。


本日、卒論中間発表会を開催しました。






卒論生もいよいよ追い込みです。

人に聞かせる・読ませるだけの価値がある知的分析を、人に楽しんで聞いてもらえる・読んでもらえるやり方で語り・書かなければなりません。

指導教員の立場からすれば、卒論をいいかげんに書かせたら学生さんは伸びませんが、きちんと鍛えたから学生さんの能力はぐっと伸びます。

多くの学生さんにとって、卒論は学校教育の最後の仕上げですから、それにふさわしくしっかり鍛えたいと教員としては思っています。

卒業予定者の皆さん、あと数ヶ月ですから覚悟を決めて、しっかりと卒論という試練を乗り越えてください。





2016/10/16

第一回学会統合検討委員会を開催しました

教英が中心的な役割を果たしている学会としては、これまで大学院修了生中心の「広島大学英語教育学会」と学部卒業生中心の「広島大学英語文化教育学会」の二つに別れていましたが、この夏に開かれたそれぞれの学会で両学会を統合することが正式に決定しました。

本日はその具体的な話し合いをするために、第一回の学会統合検討委員会を開催しました。




統合は、修了生・卒業生の皆さんがより活躍の場を広げることができるようにという目的を明確にした上で現在具体的な事柄を審議しています。本日の話し合いも3時間に及ぶとても実り豊かなものになりました。

英語教育界において、広大教英がどの大学・講座にも負けないのは、多くの修了生・卒業生が英語教師になっていることです。今後はこの強みをいっそう活用する仕組みを学会統合という形で作り上げたいと思っています。

修了生・卒業生の皆さん、統合後の学会を楽しみにしてください。







2016/10/12

「英語教師のためのコンピュータ入門」(教英の学部1年生対象)の授業感想の一部

以下は、先週の「英語教師のためのコンピュータ入門」(教英の学部1年生対象)の授業感想の一部です。


英語教師のためのコンピュータ入門
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/2016_4.html


先週は第一回の授業で、諸説明・諸連絡などもあり、あまり授業内容を進めることができませんでしたが、それでも以下の四つの記事を中心に考察と討議を行いました。


■ 自分が理解できないことに出会った時に
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/blog-post.html
■ 考える・調べる・尋ねる
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/04/blog-post_13.html
■ 井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/2016.html
■ 西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/2016.html

教英の授業に興味をお持ちの皆さん、どうぞ下の感想を読んでみてください。




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■ <この授業を受けて 記しておきたい大切だと思ったこと>

「 何かを学ぶとき、「つまらないなあ」ではない、柔軟な考え方をもって向き合うことが大切だ。だるだると「学ぶ」のは、きっと、しっかり自分で向き合っていることにはならない。(つまり、それが学びだとはいえない。)経験に対する準備を怠らず、絶えず経験を省み、考え、そこから学ぶ。絶えず学ぶことで、学び方・変わり方を習得していこう。そうすることによってまた、次の反省が生まれる。
 『学ぶことは人生である』とは、上記のとおりであると感じる。
 この授業では、コンピューターと英語で、コンピューターと英語によって、学ぶ。ここでの 学ぶ と一緒に、新たな発見をしながら、自然とコンピューターのスキルも、英語のスキルも磨かれていく。
 いうまでもなく、予習復習が大切である。」
 
 この授業では、触れる材料を通してなにか共通のメッセージを感じるように思う。クラスメイトの意見を聴き、みんなの新しい姿に触れる。興味深く、おもしろい!考え考え、自分で言語化していき、人にわかりやすいように、面白さが伝わるように発信できるようになりたい。この授業では、この練習がたくさんできる!授業づくりの大切な約束はしっかり守りつつ、自由に自由に、等身大に、考え考えしていこう。たくさん考えての失敗、これからのための失敗ならばよし!といったことを考えることができた。どちらかといえば、感じることができた かな、と思う。



■ 今回は初回の授業ということもあり、ガイダンスの時間があったわけだが、そこで先生のお話を聞いただけでも、夏休みをほぼサークル活動のみに費やし、休みボケをしていた自分に、英語を再び勉強する気をしっかり起こさせるのに充分だった。

  〜前半〜
 今回読んだ記事は「自分が理解出来ないことに出会った時に」「考える・調べる・尋ねる」ということだったが、私はこの二つの記事を通して「人に頼る勇気が必要である」ということを感じた。もちろん、できないからといってすぐに頼っているようでは人は成長しない。できないことに出会った時、自分に何が足りないのかを分析し、それを克服する努力をしていくことが大切であることは言うまでもないと思う。しかし、まだまだ学ぶことが多い学生には、どうしても限界が生じてしまうだろう。その時に、その問題を放っておくのではなく、人に頼って尋ね、自分の知識や見解を広げていくことも大事なことだと思った。

 〜後半〜
 僕自身が人工知能などのITに関して詳しく勉強しているわけでないので、自分の知りうる限りの知識で振り返りをしたいと思います。同じことを淡々と繰り返す機械的作業の効率に関しては、人間よりも機械の方が効率が良いと思う。現在、色々な仕事がどんどん機械に任されるようになってきていて、世界の産業はどんとん発展を遂げている。そうして機械が人間から仕事を奪っていった時に、機械にできない人間の強みを考えていかなければならないと思う。

 僕が現時点で思いつくのは、①予想外のことに対応できること②自ら進んで動けること③完全・完璧でないこと(人間味があること)である。 ①に関しては、基本的にコンピュータは事前にプログラムされたことしかできないため、プログラムされてない想定外のエラーが起きた時には、どうしても傍にいる人間の修正が必要になる。対して人間は、日常は想定外の連続であるし、想定外のことが起きた時に自分で対応策を考えて動くことが出来る。②に関しては、①にも通じることがあるが、プログラムしていたこと(人間ならば予定していたこと)が終わった時に、次に何をすべきか、何をすればいいかを、人間は考えて動くことが出来る。自律的に、積極的に動いていけるのも人間の強みだろう。③に関しては、少しピンポイントな話になるかもしれないが、絵画や音楽などの芸術は、完璧過ぎても人の心に響かないという説がある。そういった人間らしい芸術を作っていくことができるのは人間だけだろう。機械を有効に活用し、人間は人間の出来ることをして、上手く機械と共存していくことで世界はより良く改善していくのではないだろうかと思った。


■ まずこの授業に関して、自分自身の英語や教育に対する考え方に大きな影響をもたらす授業になるであろうと感じた。なぜなら、みんなが一つのテーマに対して考え、それぞれの意見を交換し合うことができるため自分のperspectiveを広げることができると感じたからだ。

 前半
「自分が理解できないことに出会ったときに」無関心になったり、怒りを抱いたり、冷静に問いを立てたりするといった例が挙げられていた。私はこれらに加えて不安感を抱くことがあるのと同時に、理解できない問題に対して一つずつ「なぜ?」と問いを立てていくうちに理解できないことが多いという事実に直面して余計に自信を無くしてしまう。しかし今回の授業を通して、それは自分自身の中で理解できないことへの劣等感というものを知らず知らずのうちに感じていたからだ、と気づくことができた。そしてその劣等感を払拭してさらに問い学び続けることがこれからの人生を形成する基盤となるということを学んだ。

 後半
「人工知能」に関して最も印象的だったのは、中学校や高校の教員は小学校の教員よりも人工知能に代替されやすいということだ。前期でM先生の教養ゼミで学んだが、なぜ人工知能に教職を奪われることが自分の中で望ましくないと思うのか未だ明確にはわからないけれど、そうならないために英語教師を目指すうえで英語を学ぶ意義や楽しさ(what to)をどのように(how to)生徒に伝えていくかをこれからもっと考えていかなければならないと実感した。


■ 達成感を得るためには自分で努力をする必要があると考えた。どう努力するかというのが、自分で「考える・調べる・尋ねる」ことによるものだ。学習している際に一番記憶に残っていると感じるのは、何事に対しても人や答えばかりに頼らず、まずは自分自身で考え、調べた時であった。たとえその際に、結局理解できなかったとしても自分で考えたことは忘れにくいものである。高校生の時、数学で三項間漸化式が何度やってもうまく答えが導き出せなかった時、数学の先生の解法を何度も真似をして似た問題を複数解いた。そのうちに解法の理解が深まり、応用問題まですらすら解けるようになった。自分で何度も考えていくことは、本当に重要だと思った。教師になった時、生徒たちが時間をかけてでも自分で考え、時には調べるという時間を十分にとるべきだと思った。それは授業時間に限らず家庭学習の時間も含めてだ。と同時に、生徒が質問しやすい環境・先生になるべきだと思った。


■  現在広島大学の茶道研究会に所属しているのだが、最初は入部したばかりにもかかわらず割り稽古も何かをしてほしいという指示もなかった。今でこそ言えるが、当初は高校生気分が抜けておらず、完全に受け身の姿勢でいた。茶道はお道具がたくさんあり、お稽古を始める前の掃除や準備で1時間ほどかかる。準備や後片付けの仕方をなぜ教えて下さらないのだろうと思いながら、他の1年生と部屋の隅に座っていた。しかし、目の前で先輩方が働いているのに何もしないわけにはいかないと思い、自分にできることがあるか訊いた。質問をすることで高校まで習ってきた茶道との違いを発見することにもつながったし1年生だけでも準備ができるようになった。私は人にわからないことを尋ねることにあまり抵抗はないが、たまに訊きすぎたなあと反省をすることがある。尋ねる前に自分で考え、調べる回数をもっと増やしていきたい。



■ 「自分が理解できないことに出会った時に」を読んで
 私は、(1)一切の努力を放棄し無関心になる、(2)不機嫌になり理解できないことに対して怒りをぶつける、(3)冷静に「どういうこと?(what is that?)」、「なぜ?(why is that?)」と問いを立てることは、人が理解できないことを理解するまでに経る過程ではないかと考えた。私は高校生の頃、数学が大の苦手であった。まず、私は理解できない問題に直面した時に「どうせ分からない」という気持ちが先に出てしまい、分かろうとする努力をせず考えることを放棄していた。そうするとできない自分に苛立ちはじめ、数学に対して怒りの気持ちを向けていた。しかし、気持ちを切り替え一度冷静になり考えてみると自分がなぜ分からないのか、この問題はどういうことを問うているのかと自問自答していくうちにその問題を理解し、数学と向き合うことができるようになった。このように、(1)から(3)全てのプロセスを階段のように踏んでいくことが大切なのだと思う。多くの人は(1)や(2)で止まってしまい理解できずに終わるのではないだろうか。また、(1)や(2)の経験がない人はもう一度冷静に考えてみようという(3)の気持ちも起こらないかもしれない。教育の視点から考えると、学習者が理解できないことに直面した時に(1)や(2)の段階で終わってしまわないように、また、(3)に自ら気付くことのできない学習者のために指導者が(3)へ導いていくことが大切だと思う。一度冷静に考えることを学ぶと、学習以外の場面でも理解できないことに直面した時に冷静に考える力がつくのではないだろうか。



■ 10月5日前半の授業では「自分が理解できないことに出会ったときに」と「考える・調べる・尋ねる」について学んだ。

 それについての記事を読む中で最も印象に残っていることは、「自分が理解できないことに出会ったときに」の反応の1つである(1)「一切の努力を放棄し無関心になる」である。自分自身、この反応を作り上げてしまったことがあるからだ。

 私は高校時代数学が苦手だった。初期の頃はなんとかして理解ができるように努力をしていたが、学年が上がり教師が代わって「できない者は置いていく」というような形式の授業になった。その時期から自分の中で急激に意欲が減っていったことを覚えている。頑張っても理解できず、やっと解けたと思ったらいつの間にか授業は3歩も4歩も進んでいる。スピードだけでなく問題の難易度もどんどん上がり、この先生とこの授業には付いていけないと感じた頃、自分は考えることを止めた。弁解するわけではないが、自分のように思考を放棄した生徒は他にもいた。

 その授業から全く離れた今になってできる限り客観的に考えた上で、この努力放棄を生み出したのはやはり前述した教師と授業形式だろう。できないなりに理解を諦めてなかった生徒を突き放していく授業、とは言い過ぎかもしれないが少なくとも生徒の意欲を剥ぎ取ってしまったのは確かだと思う。

 そして恐らく、そもそも初めから理解をしようとせず無関心な態度を取っていた者よりも、なんとかして努力していた(記事中(3)「冷静に問いを立てる」の反応をとっていた)が結果その努力を放棄してしまった者の方が、その後同じ問題に対する拒否感が強いのではないだろうか。「努力を尽くしても自分にはできない。だから取り組む意味はない」という考えを持ってしまうように思う。

 個人的ではあるが以上の経験から、生徒を伸ばす役目を持っているはずの教師が生徒に(1)の反応を覚えさせてしまう場合があると考える。授業中どなたかが「反応は(1)⇨(2)⇨(3)の順に変化していくのではないだろうか」と発言されていたが、自分のように逆に変化する可能性もたくさんあるのではないだろうか。

 この経験は自分自身が生徒であった頃の実体験であるため、この先教師になった場合慎重に思慮し続けなければいけないと思う。



■ 私が10月5日の授業で一番疑問に思ったのは、今の教育で果たして、いずれ来るであろうコンピューターの時代に人間が立ち向かえるのかということです。授業でも話しましたが、私は空港のレンタカーでバイトしているために外国の方と接する機会が多くあります。その中で感じた事は、今でこそバイトの同僚や、社員の方が外国の方とコミュニケーションが取れない時に、大学で英語の専攻だからと助けを求められますが、大方のことはコンピューターで対処できるということです。例えば、ナビゲーションシステムはワンタッチでいろいろな言語に切り替えられ、契約書や保険の案内などもワンクリックで多言語のものに変換できます。私たちがわからない言語の方がいらっしゃっても、コールセンターにより対応できるというものがあげられます。つまり、ここで言いたいのはコンピューターで大半のことがこなせる時代に、人間ができることは限られてくるということです。いつかコンピューターの時代がきて、ロボットの最低賃金が人間の最低賃金を下回ったとしても、人間を選ぶメリットはどこにあるのだろうと考えさせられました。それが思いつかない今の状況が一番いけないということにも気づかされました。



■ 今、人工知能の性能はどんどん発達しており、翻訳機能の正確性も向上を続けている。そんな中で、言語教育が目指すべきなのは、言語教育の本質や意義を教えることだと思う。文章にも述べられているように、1つの単語でも様々な意味、使い方がある。また、客観的数値では表せないものを、言語教育を通して掴むことができるのではないかと思う。それが何かは、まだ分からないし、1つと決まっていることもないと思うが、将来絶対に見つけたいと考える。

 人工知能などの機械と人間の違いについても、文章で述べられている。機械は、あらかじめプログラミングされていることに基づいて、動作する。アップデートも定期的にあり、最新の技術も備わっている。しかし、その機械の想定外・守備範囲外の事態が起きた場合、適切な対処は難しい。一方、人間は日々、1分1秒ごとにアップデートされている。We learn from reflecting on experience. と言われるように、自分が経験したことを省みて学ぶだけでなく、今自分がいる現実世界で、今自分が見ているもの聞いているもの触れているものからも学べる。そこから、新たな発見もできる。そこは、機械と人間の決定的な違いであると学んだ。

 今回の授業で4つの文章を読み、多くのことを学ぶことができたと同時に、自分がいかに何も考えずに生活しているか、無知であるのかを改めて痛感した。また、このままでは教師になる資格はないと思った。大学生活をより有意義なものに、将来に繋げるために、今自分ができることを継続していきたいと思う。もちろん、この授業も意欲的に取り組んで、様々なことを吸収していきたい。



■ 『人工知能と経済の未来』の記事を読んで

 人間には「心」があるが、機械には「心」はない。教育の観点から述べると、私は教育は学力を伸ばすことだけが目的なのではなく人の「心」を育てる場所であると思う。「心」が育たなければいくら計算ができていても知識を持っていても、将来会社で他人と協調性を持ちながら仕事をすることはできず、人の「心」に訴えるようなプレゼンテーションを行うことも不可能だと思う。また、旅行英会話程度は翻訳機が行ってくれるので学ぶ必要はないのではないかという文章があったが、私は旅行英会話は現地の人に道を聞いたり助けてもらったりするための単なる「道具」ではないと思う。旅行英会話も人と人とのコミュニケーションである。コミュニケーションは「頭」だけでは成立しない。言葉に感情が伴い、相手に伝わることではじめてコミュニケーションは成立するのだと思う。私が高校生の時は英語の授業のはじめに隣の人と会話をする時間があった。私だけでなく、クラスの誰もが話す内容とともにその時の気持ちが自然と表情に表れ、言葉だけでなく表情で自分の内側の気持ちまで相手に伝えようとしていた。したがって、私は、旅行先の人々が困っている観光客を助けようと会話をしている一方で、こちらは何も考えず機械を使い、こちらの感情は無であるという状況はおかしいと思う。もし私が観光客に道などを外国人観光客に聞かれ、一生懸命教えようとしているが相手は機械を使い、目を見ることや思考を巡らせながら頑張ってこちらに伝えようとする努力をしていなかったら寂しい気持ちになると思う。このような状況に陥らないために、私は英語教育は知識の習得への偏りや感情の伴わない会話の練習ではなく「心」を育て、「感情」を生かす授業へと進化していくべきだと考える


■ 人工知能関係の文章二つを読んで、教師という職がAIに取られてしまう事態が起こらないためには、どのような教師が求められるのか気になった。まず、現在の教師、特に英語教師の姿を見ると、英語を学ぶ授業というよりはセンター試験の英語の攻略法を学ぶ授業を行っているように感じる。実際に、私の通っていた高校は県内では進学校の部類に入り、受験勉強に重きを置いた授業を行う高校であった。しかし、そもそもセンター試験とは四択マーク形式のテストで、採点も機械が行っている。機械が採点するようなテストのためにわざわざ人間が英語を教える必要があるのだろうか。採点が機械なら教えるのも機械で十分ではないかと思う。したがって、これからの授業では英語を学ぶ、具体的に言えば本文に述べられていたように、人間の言語に特徴的な言語記号の意味解釈を広げていくような内容を学べるようにするべきだと感じた。加えて、AIにはできないことで人間の教師がするべきことがもう一つある。それは、先生と生徒間のコミュニケーションを大切にしたり、英語は楽しいのだということを生徒に感じさせたり共感させたりすることだ。


■ 人工知能に「代替可能」かもしれないとされている高校・中学校教師にできることは、生まれる利益や合理性だけではなくて、人間の固有性というか、人の感性 (言葉と密な関係であると考える) とそれにより生み出されたもの (言語文化もそうである) に価値を見出せるような人を育てることではないだろうか。つまり、生徒の感性を育てられる教育、教師である。そして、感情をもって個別の状況に対応できる人間の教師は、たとえBasic Incomeが必要により導入された「生かさず殺さず」の世だとしても、存在意義があるのではないか(人の感性が生き残っている限りだが)。

 私が学んでいるアクセシビリティの考え方も、これから社会に出ていく子供の感性をはぐくむ助けにはなれないだろうか。子供の感性(もちろん教師のものも)を育てるには、英語教師の視点だけではなく、複数の分野での協力が必要に感じる。これからも、(一見)他分野(に思えること)でも学習を深めて生かしていきたい。


■ <人工知能と経済の未来>

 人工知能やロボット等により、日本の労働人口の49%がとってかわられるかもしれないことや、代替可能性の低い職業の中に小学校が入っているが中学校教師・高校教師が入っていないことに少し恐怖を感じた。前期のパッケージの授業で「社会福祉と貧困」というものをとって、正規の職がなく日雇いで生活している人のドキュメンタリー番組を見たりや非正規雇用労働者数の推移を学んだ。現在の時点でも非正規労働者の数は多いと感じたのにさらに多くの人が失業してしまうとなると、日本の経済に大きな影響を与えるとともに、貧困の状態は家系で連鎖しその状態から抜け出せる確率が非常に低いことを学んだが、今言われている子供の貧困も負の連鎖として続いてしまうのでは枚かと考える。

 また、将来機械翻訳ができるようになることも遠くなく、「旅行用英語」などができれば、多言語の習得は必要なくなるかもしれないという意見に対して、自分の言語が通じないところで生きていくためには必要ないかもしれないが、生きていく中で自分の糧になるもの、例えば日本や日本語では得られない感覚や価値観など、をえるためには必要だと考える。授業内で隣の人と意見を言い合うときに、汎用型AIで英会話の練習をすることができるようになりそれから返事が返ってきたら怖く感じるという話になった。コミュニケーションするときは、言語だけでなく話す人のその場の心情も必要であり、コミュニケーションの楽しさといえば、自分の言ったことに対して、(コンピュータであれば状況に合わせた何通りかの決まった返事が返ってくるであろうが) 人間である相手は、自分が予想もしなかったことを返してくることがあることではないだろうか。



■ 「西垣通(2016)「ビッグデータと人工知能」中公新書」について

ここではまとまりなく、箇条書き的に書く。

・もしもIT化が進んで1つの業務まるまるAIが行うようになったとして、そのAIが重大なミスをした場合、その責任の所在はどこにあるのだろうか。

・汎用AIは人間の脳を元に作られているとのことだが、AIの情報量のほうが多いし成長速度もより速いだろう。人間は他の民族、他の宗教、他の人種を疎んじ、自らがより優位だと考えがちで、場合によってはそれが原因で争ったりするものである。そんな人間の脳を元にしてつくられたAIが同じような発想に至ったら....と妄想してしまう。

・自分たちがより機械的な人間になってしまうかもしれないことに危機意識を持つことも必要だが、AIがより人間的になることにも注意すべきだと思う。柳瀬先生は、芸術、文学方面のものは人間特有のものである、という意見であったが、私は大衆的な絵や文学ならAIでもつくれるのではないかと思う。もうすでにビッグデータを通してAIは人間に受けるものはなにかを把握し始めているし、死んだ人の人格をその手紙の文章などから再現するデジタルクローンが開発されつつあるなど、より人間に近づいてきている。

・AIが科学や文学など新しいものを生み出す力を持つかもしれない。その時に人間の存在意義はどこにあるだろうか。

・機械の論理空間が限定的で、人間の論理空間は書き換え可能な無限のものということには納得がいかなかったが、人間は現在の時点で生きているもので、機械は過去に囚われているものだ、という説明は面白いと思った。人間はいつか死ぬし、(自己啓発本に書いてありそうなことだが)人生は1度きりである。そのため常に現在に判断の重点が置かれる。また、人間は忘れることができる(私はそれにたびたび悩まされます…)。そのため過去に囚われすぎることがない。その一方で、機械には(部品の消耗はあるものの)永遠の命があり、過去の出来事を完全に記憶している。そのため現在に対してそこまで執着心がない。

・人間は本当にオートポイエティック・システムといえるだろうか。生まれる前に遺伝子の情報から大体の姿かたちが決まり、生まれた後は必ず近くにある環境から影響を受け、多くの社会にいる子供は言語を通じて教育を受ける。自ら能動的に動くといってもその範囲はかなり制限されているように思える。

・コンピュータ採点による試験は人間性をみれないからだめだという意見があったが、センター試験レベルでの試験ではコンピュータ採点のほうが手間的にも公正さ的にも妥当だと思う。ただ、コンピュータ採点の試験で人間性を見るのは間違っていると思う。

・機械やAIは人がより生きやすくなるためのツールであるはずで、それがより効率的に有用にはたらくことはよいことのはず...である。





2016/10/11

グローバル教育推進室が英語の相談にのります



この10月から教育学研究科・教育学部では、「グローバル教育推進室」が開室し、学生や教職員が英語で研究などの発表をする際の相談を受けることになりました。

詳しくは下のチラシをダウンロードして読んで下さい。




広島大学教育学研究科・教育学部は、活躍の場を広げようとする人を応援しています。

広大教育学部で、どんどん世界を広げましょう!




2016/10/04

昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想



2015年度後期から始めました昼休みの自主的読書運動である「昼読」を今期も継続します。




方針は基本的に前期と同じです。以下は「昼読」の基本理念です。



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あなたが使うことば ― これがあなたの人格を形成します。
あなたの人間関係も、あなたが生きる社会も形成します。

ことばを豊かに丁寧に使うことによって、あなたの平安がもたらされます。あなたの仲間の平安も、あなたの社会の平安も。

粗雑で無思慮なことばは、あなたをかき乱してしまいます。あなたの仲間も、あなたの社会も。


「昼読」とは昼休みに集まって、それぞれが持ってきた本を静かに読む時間を共有する場です。少々行儀は悪いですが、お昼ごはんを食べながら本を読んでもかまいません。読書の文化を根づかせるために行っています。広大の構成員(学生・教職員)なら誰でも歓迎します。

授業期間中の月・水・金の昼休みに行います(ただし初回は10/3とします)。一応12:05-12:45という時間帯を設定しますが、皆さんぞれの都合があるでしょうから、遅刻や早退はまったく問題ありません。場所は教育学部のA棟2階のA212(英語教育学演習室。英語教育学図書室の隣)です。

日本語で書かれた純文学や娯楽小説、あるいはノンフィクションや自然科学の啓蒙書、はてまた新聞でもかまいません。英語ならGraded Readersでも普通のペーパーバックでもかまいません。第二外国語の読本や参考書・問題集も歓迎します(第二外国語の習得はなかなか進まないものですから、第二(あるいは第三・第四・・・)外国語の場合は、自発的に選んだ参考書や問題集を読むことも認めることにしましょう)

ただし自由な読書文化を促進させるための試みですので、必要に迫られての授業の予習などは歓迎しません。あくまで自主的・自発的に選んだ本をもってきてください。

昼読の最後の五分では、その日の読書の感想を周りの人と共有します。その語り合いで私たちの世界が広がることを期待しています。

書物のことばは、(質の悪い例外を除けば)練りに練られたものです。SNSなどで刹那的あるいは衝動的なことば遣いが横行する現在、読書文化を守り、育ててゆきましょう。読書で培われた思慮深いことば遣いこそが近代社会の基礎となると私は信じて疑いません。



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この記事掲載に伴い、前期に熱心に昼読に参加してくれて、ハリー・ポッターの第一巻をフランス語で完読した学部4年生のM君の振り返りを掲載します。この振り返りは8月5日に完成していたものですが、私が、ドイツ語暗唱を続けてくれた学部3年生Tさんの感想と併せてブログ掲載しようと欲張っていたので、掲載が今日まで遅れました(Tさんは現在ドイツの大学に留学しています)。




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“Harry”を「アリー」と読む言語での読書体験


2016年8月5日
学部4年 MY

 今からちょうど2年前、私はパリの中心部から少し離れた通りの、ある書店にいました。数か月間のイギリス留学を終えて、帰国前に友人とフランスに寄って観光しようということで、数日間ですがパリに滞在していました。街を散策中、留学前からフランスで購入したいと考えていた書籍があったため、いくつか書店を覗きながら歩き、お目当ての本を見つけました。 Harry Potter a L’ecole Des Sorciers-言わずと知れたベストセラー、『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語翻訳版でした。

 一年生のころに第二外国語の授業でフランス語に触れ、興味を抱いたため独学ながら今も学習を進めていますが、パリに滞在した当時はまだフランス語歴(?)も一年ほどで、もちろんハリー・ポッターをフランス語で読める仏語力は全くありませんでした。知っていたことといえば、 “Harry”をフランス語で発音すると、 “h”の音がもともと発音されないため、「アリー」となってしまうことくらいでした(笑)。映画を見ていたこと、そして英語の原文で読んでいた経験はあったものの、それでは太刀打ちできない言語の壁を感じました。実際、半ばお土産として、フランスに来た記念として買ったようなところがあり、案の定帰国後は部屋の本棚にオブジェとしておかれることに。しかし、買っただけで読まないのはやはりもったいないという思いがあり、何とかこの本をフランス語で読むために学習を続けました。

 それから一年半ほどたって、私は教英で柳瀬先生と大学院生の方が主催している読書会(「昼読」)に参加させていただくようになりました。各人が読みたい本をなんでも持ち寄って読もうということでしたので、私は前々から読みたかったハリー・ポッターの仏語版にチャレンジしてみることにしました。柳瀬先生や大学院生の方がドイツ語の本を読まれていましたので、自分も変な対抗心を燃やし(笑)、何とか読んでやろうと、辞書を片手に読書会に通いました。

 最初は1ページ読むのに何十分もかかったりと、かなりゆっくりとしたペースで読んでいました。ただでさえフランス語ということで知らない単語だらけでしたし、加えてハリー・ポッターならではの、魔法使いの世界に関連する語句が多く見られました。1ページに何度も何度も辞書を引くこともありました。しかし、そのようにして読んでいく中で、徐々に読む速度も上がり、時には英語の原文との比較にも注目できるようになりました。「フランス語で読んでるぞ」という(良い意味で)妙な高揚感がモチベーションにもなり、エンディングまで読みきることを目標に、読書会への参加を続けました。

 そうしたフランス語との格闘を続けることさらに半年、先月末にようやく『賢者の石』をフランス語で読み切ることができました。もちろん、細かい文法の用法や文学的な工夫などを理解するためにはまだまだ勉強不足です。しかし、一冊の作品をフランス語で読む、という体験は目で見て分かる証拠として、私の今までの学習を保証してくれている気がします。もともと物語を読むことが大好きで、このこともモチベーション維持に一役買ってくれました。はじめて読んだフランス語書籍が、自分の好きなハリー・ポッターで良かったと思っています。

 また、英語教育を専門として学んでいることとの関連でも少し発見がありました。英語教育の現場には、私のようにある程度英語が得意だったり、得意とまではいかなくても英語が好きである、といった生徒さんばかりがいるわけではありません。また、英語を学びたての頃は誰しも、単語を一つ覚えるにも時間がかかるものです。しかし、今英語教育を専門に大学で学んでいると、そうした学び初めの頃の記憶、苦労して学んだ記憶が薄れてしまっているように感じます。それは私だけでなく、クラスメートの学生、さらには先生方にもやはり共通することだと思います。もともと英語が苦手だったのが後に好きになったという人も中にはいますが、そうでない人がほとんどです。

 こうした記憶を忘れさらないためには、学習者の気持ちが分かるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。その一つの方法として、私は第二外国語学習があると考えています。もちろん、語学学習が好きという点は学習に有利に働きますが、学習の初期段階ではスタートラインは同じはずです。第二外国語のあいさつを覚えたり、自己紹介したりすることを覚えるはずです。そのプロセス自体は第一外国語でも第二外国語でも大きくは変わらないでしょう。そうした学習経験を再体験するためにも、第二外国語学習は非常に重要です。私は学生ということもあり、専門分野の他に第二外国語を学ぶための時間もたっぷりあると感じています。大学にいるときにできることをしておきたいですね。

 「第二外国語」というと、「でもやっぱり今は英語の時代」と思われる方もいるかもしれません。しかし、英語も他の外国語も同じ言語、本質的に優劣はありません。それぞれの外国語を学ぶことには等しく価値があります。私自身、これからもフランス語の学習を続けていきたいと思います。とりあえずの目標は、ハリー・ポッターシリーズを全巻フランス語で読破することです。その後は、前々から個人的に興味のあるフランス現代思想家たちの著作を、フランス語の原文で読み解くためにフランス語の読書力をつけていきたいと考えています。


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広大の学生・教職員の皆さん、ぜひ「昼読」にご参加ください!




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月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
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