2016/05/31

読書と思考の大切さ (学部4年生の感想)、およびカタカナ語の乱用についての批判的見解



学部4年生のK君が、また授業の振り返りとしていい文章を書いてくれたので、ここに掲載します。深い内容をもつ本を読み、考え、文章にまとめ、その上で発言するという読み書きと思考を基盤とした対話が大学教育の基本だということを改めて思います。

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本講義では、知的努力という言葉にとても興味を持ちました。その言葉に対し、私は知的努力をすることが深い学びを促進し、言語の獲得の基盤になるということを知ったと同時に、大学4年生になった今でも、それが私自身に最も足りていないところであると考えました。

大学の講義で学んだことなどを自分の経験に照らし合わせて考え、それを文字にするという練習を繰り返すことによって、私自身の文章力は大学入学時と比べると、抽象的な内容を自身の経験に則して具体化したり知っていることを文章に取り入れて話の説得性をもたせたりできるようになったという観点から、大きく進歩したと感じています。しかし、それと同時に、即興で的確なコメントを言ったり自分の考えを整理して話したりする力がまだまだ足りていないということを痛感させられています。その原因は①圧倒的に知識量が少ない、②自分の中に取り入れた知識を既存のものとうまく結び付けて整理することができていない、の2つが挙げられると思います。

2つめの原因に関していえば、情報を集める段階で、カテゴリー化したりマインドマッピングを駆使したりすることでできることであるので、比較的簡単に行うことができるのではないでしょうか。ですので、EvernoteなどのITCの活用方法を工夫していくことで解決することができると思うので、これは確実に実行していこうと思います。

問題の1つめの原因を解決するには、やはり本を読まなければならないとつくづく痛感しています。ここ最近、いろいろな種類の活字を目にするうちに、本を読める人は本を読むことから2つの学びを得ているのだと感じています。

1つ目は、もちろん知識です。スピーチをするにしてもディスカッションをするにしても、そのトピックについて話す際に、知識がなければ思考を深めることもできません。自分の専門とする分野の知識は絶対に知っておく必要がありますが、1つの事柄に関して多角的な観点から考えを深めていくためには、様々な分野の知識に手を伸ばしていく努力も必要となってきます。情報の取捨選択はそれをした後にすればよいのであって、知識の引き出しを自ら狭めていくことは成長を止めてしまうことにつながるので、学び続けるために、探求心は失わないようにしなければなりません。また、英語教育を専攻している私たちは「英語ができる集団」であるという思いを持つでしょうが、果たして本当に英語ができるのか、疑問を投げかけたいと思います。留学に行って、あるいはTOEICなどの資格試験の勉強をして、「英語を聞いて理解したり、自分の考えなどを話せたりするようになった!」と思うこともよくあると思います。私も実際にそのようなことを思っていました。しかしながら、最近では英語を読んだり聞いたり、話したり書いたりすることができること自体が重要なのではなく、何について読んだり聞いたり、話したり書いたりするのかが重要なことだと考えるようになりました。私の言いたいことは、英語で思考を掘り下げることのできる発言ができてこそ英語が話せると言えるのではないかということです。ですので、特に英語を専攻している我々はTOEICなどの勉強だけでなく、日本語だけでなく英語の本やニュースに触れて、知識を獲得していかなければなりません。

2つ目の学びについてですが本を読む人というのは、言葉の使用について厳しい目を持つことができるようになるのだと思っています。普段の会話で友達と話をするだけならばあまり気にしなくてもよいかもしれませんが、公式な場で発言をするときなどは、自分の発言に責任を持たなければなりません。では、そのように自分の発言に責任を持つためには、自分が発する一言一句の本質的な意味を知っておかなければならないと、私は考えています。今回の授業でも取り上げられたのですが、日本人は海外の言葉をカタカナに直して使用するだけで、その言葉を理解しているようになっているという話がありました。私自身もその中の1人であり、これに対して無批判でした。教員採用試験の勉強をしていると、資料の中に「グローバルマインドの育成」という言葉が出てきました。確かにそう言われると、「グローバルマインドの育成は本当に大事だ!」という思いになりますが、実際にその言葉はどういう意味なのか冷静になった時に調べてみると、定義どころか簡単に咀嚼して日本語に変換すらしてありませんでした。このように、言葉の本質を理解していくには、本を読んで知識を蓄え、自分なりに解釈する能力が不可欠であると感じました。

以上の内容を踏まえて、自分の考えやコメントを的確に述べることができるように訓練する方法の1つとして、今後も隙間の時間を見つけてしっかりと本を読むなどの知的努力を怠らないようにしようと決意しました。








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ちなみに上に出てくる「グローバルマインド」というのは、最近の(英語)教育界での流行語の一つです。カタカナで言われているうちは、何となくわかったような気になってしまうのですが、これを "global mind"と英語にしてみると、何のことかよくわからない概念であることに気づきます(ある程度英語ができる人ならば、という話ですが)。

実際、グーグルで "global mind" を検索してみると、そこであがってくるサイトの多くは日本語のサイトです(英語のサイトは、同名を組織やプロジェクトの名前として用いているものが多く、これを一つの明確な概念として使っているサイトはほとんどありません)。

やはり英語で言うなら "global mindset" でしょう。これならば例えばFINANCIAL TIMESも、現代用語の一つとしてこの表現の定義を掲載しています。

こうしてみますと、「グローバルマインドセット」でも「グローバル精神」でもなく、「グローバルマインド」という表現を多用する人は、英語圏でのきちんとした論考・議論に基づいてこの表現を使っているわけでないことがわかります。加えて、もしこの表現の明確な定義ができないなら、その人は、日本語でのきちんとした思考も経ないまま、この表現を使い続けているのかもしれません。

「グローバルマインド」だけでなく、「スーパーグローバル」という語も、実は英語圏ではほとんど使われておらず、カタカナ語としてもっぱら日本語圏でのみ使われている語です。すべてのカタカナ語がそうだとまではいいませんが、やたらと流行語になっているカタカナ語は、英語においても日本語においても考えぬかれていない語である場合が珍しくありません。英語教育をめぐる話では特にその傾向が強いように思われます。

言うまでもなく、そういった浮ついた語では明確な議論ができません。これからの教育界を背負う若い世代は、そういった流行語にごまかされることなく、明晰に言語を使うことで明晰な思考ができるようになっていなければなりません。教員としては日々の授業を大切にしなければと思わされます。



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