2017/12/12

「ああ、こんなにも教育は産業や資本のいい鴨にされてしまったのだな」

以下は、「コミュニケーション能力と英語教育」の授業を受けている学部3年生の感想です。彼女は特に、「 教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--」の記事について書いてくれています。





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近年の産業化、資本主義化によって目標合理主義が高まったことにより、今やその波及が教育や学問にまで及ぶようになってきている。その波及効果として、目標数値にしか目が行かない人々、思考力不足、教育の根底にある人を育てるという大切なことを忘れ情熱を失う教師などが挙げられる。

産業化、目標合理主義に巻き込まれた教育に関して私が真っ先に例として思いついたのが塾、特に受験に突破させることだけが目標の塾だ。もちろん塾が全て悪いと言うつもりはないが、「○○高校・大学合格者○○人!」「偏差値○○以上まで上げることをお約束します!!」といった広告が特に地元で出回っていたのを思い返すだけで、「ああ、こんなにも教育は産業や資本のいい鴨にされてしまったのだな」と感じる。

今となってはようやくそれに気づくことができたが、実際に私を含め、周りの友達の多くが高校受験合格に向けて何かしらの塾に通っていた。目標数値があり、その数値に届くために必要な訓練をひたすらするので確かに成績は上がった。しかし、自分でじっくりと考えることよりも、効率よくいかにその数値に近づくかばかりが優先されている気がして、当時は中学生なりに時々疑問に思うことがあった。

疑問に思った時点で辞めるべきだったと考えることもできなくはないが、第一に問題だったのは、私が住んでいた地域では、塾へ行くことは当たり前のような風潮があり、中学校もそれに頼って若干塾任せと言えるような授業しか展開してくれなかったのである。学校は最低限を基準にした授業、生徒に考えさせない、周りは仕方ないから塾に行って志望校を目指すといった環境の中で、塾で効率の良い勉強をした人を抑えて行きたい高校に行くには、自分も塾に頼らざるを得なかった。(幸い高校進学後は学校に頼れるようになったが)

この危機的な状況を思い返すと、教育と生産を混同してはいけないという記事の意味がよく分かる気がする。経済や産業を発展させるには合理性や効率性は非常に重要な要素だろう。しかし、それだけを社会や教育にまで問い詰めるのは違う。目標数値や効率ばかりにとらわれると、その教科の楽しさや考えるという貴重な時間を潰してしまう気がする。私が育った区域では、効率主義、資本主義である塾の浸透だけが問題なのではなく、それをはっきり問題だと気づくことができなかった(気づいていたとしてもきちんと対応していなかった)公立中学校側にも大きな問題があると思う。

しかし、その中で唯一私が尊敬していた数学の先生(私が先生を目指すきっかけになった先生)だけは、経済的な理由で塾に行けない生徒や全ての生徒のことを思って、効率・合理主義な塾にはできない本来学校であるべき、考えることの楽しさや教科の面白さを教えてくれた。(それまで私は数学が大嫌いだったのにも関わらず、その先生の数学の授業だけは楽しかった。)まさにこれが生産と教育を混同していない、あるべき教師・学校の姿だと考える。





2017/11/10

自分にもできんのに怒鳴ったらアカン


以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業に出る院生の振り返りです。

教師は教室という小さな権力者になります。権力は適正な社会的関係を保つには必要不可欠なものとも言えるかと思いますが、その濫用は言うまでもなく誰の益にもなりません。「教師という権力の適切な行使とは何か」という問いを常に心に抱くことが教師には必要かと思います。



管理人の私見ですが、
教師の権力(の適切な行使)を考える上で、
この本は非常に啓発的でした。


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第10章ではとっても耳が痛い話をデューイ先生にいただいたので、それについて反省しつつ、「自制」(discipline)について考えます。

 デューイによれば自制 (discipline) とは始めた行動を完結させるために、有効な手段を使いこなすことを意味します。(p.124) 行動の開始と完結の間に多くの手段や障害が存在する場合には、熟考 (deliberation) と粘り強さ (persistence) が必要です。率直に言ってしまえば、私はデューイの「自制」に関する議論を修論執筆や論文執筆、または院生生活とのアナロジーで理解しました(そして、自分の自制からの程遠さを見てかなり落ち込んでいます)。

 がむしゃらに頑張ること (obstinacy) は、確かに自分が何を見通してその行為を行っているのかが見えていないのに、ただやっている「つもり」になっている点で、意思 (will) の二つの側面である「結果の見通し」が欠けています。完全にそうだと言うことはできませんが、特研発表の締め切りが近づいた際の私のがむしゃらな頑張りといったらもう、それこそ「力いっぱい頑張っている」という表現が最も適しているほどに見通しが立っていないことが多いようです。

 それなりに知性を備えているはずの大学院生としての私が恥を隠さずに、自分の自制能力の無さを明らかにして、ここで気づかされるのは、脱線してしまうのですが、「もしかして教師は、自分にもできやしないことを生徒に強制して、できなかったら怒っていないか?」ということです。

 集中して授業を聞くことができない、居眠りをしてしまう生徒に対する教師の言葉かけは、多くの場合とても強い口調での説教となります。私自身は、高校生、学部生として多くの授業、講義を真面目に聞かなかったり居眠りをした経験がありますし、それなりに怒られた経験があります。(大学院では流石にやっていません、大人になりましたので)。また、教員向けのセミナーや研究会に参加した時に見る先生方のうち、(もちろん真面目に聞いておられる方々ばかりですが)一部は別のことをしていたり、居眠りをしてしまっている方々もいます。この人たちは、学校に帰ったら宿題をしてこない生徒を叱ったりするのだよな、と、様々な事情があって集中できないのだろうけれど。、そう考えてしまいます。

 人間の「自制心の弱さ」がどのような複雑な形で生じてくる現象なのかについてデューイが述べているようなことは、指導というものを考えるうえで重要だと思います。直接的な指導によって生徒を変容させることはできない、できるのは環境を整えて間接的な指導を行うことだ、との立場に立つならば、生徒の「自制心の弱さ」のようなものを簡単に説教で変えてしまうことができるとか、自分の意志の弱さを明日から切り替えて締め切りを守っていこうとか、そんなことが絶対にできやしないのはわかっているのに、どうしても自分の理想に沿わない生徒について、強い口調で説教指導をしてしまうことがある、のが、私を含めた人間の弱さだと思います。少なくとも、デューイを読みながらそのことに気づかされた私はそうした指導をしてしまった際に間違っても達成感を感じることはなく、デューイのことをを思い出しながら自己嫌悪するのだろうなと思います。




二名の大学院生による(比較的正直な)高校・大学生活の述懐


以下はデューイの『民主主義と教育』を読む授業で書いてもらった授業振り返りの文章です。ここにあげた二人は、国立大学・公立大学に入学し、国立大学の大学院に入ったという経歴をもっていますが、そのような経歴をもつ二人が比較的正直にーといいますのも、授業に関して教員が読む文章に対してまったく正直に話をすることなど不可能ですからー書いた文章から、高校・大学教育の一側面について知ることができると思い、ここに掲載します。






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   今回の講義では、8章の「教育におけるねらい」という章を扱った。講義では様々な議論が行われたが、ここでは自分の体験をもとに、考えたことや感じたことをまとめようと思う。

 まず始めに、ここでは「ねらい」について色々な話が行われた。そもそも、「ねらい」というものは、外部から定められた時に教育の「ねらい」は語ることが出来ないと述べられていた。また、これについては、外部からではなく生徒自身が自発的に芽生え、保持するというものであった。ここで議論に上がったのは、内発的に「ねらい」が湧き上がるために、ロールモデル〈憧れ〉となる人物が必要ではないか?というものが挙がった。これについて、私自身「確かにその通りだ」と思う節があった。

 私が高校3年生の頃、進路学習の一環として「先輩たちから学ぶ」という時間が何回か設けられていた。恐らく、他の人もこのような時間があったと思うのだが、卒業生で大学に進学した人を招いて、自身の高校時代の勉強法や受験、そして進学後はどのようなことをしているのかなどを話してもらうといった時間であった。一見、ためになりそうな時間であるが、正直なところ私にとっては、彼らの話は聞いても何のためにもならなかった。

 というのも、毎回講話に呼ばれる人は、高校時代に学年で上位5名以内に常にいて、T大やK大というような名門国公立大学に合格した人ばかりで、彼らの勉強法や進学後の話を聞いても何にも共感せず、私たちからかけ離れ過ぎており、話の中で将来のためになるものが1つもなかったのだ。話の終わりに学年主任から「先輩もこんなにいい進路を進んでいるのだから、みんなもいい大学、特に国公立に合格できるように頑張ろう!」と言われた時には、心底がっかりしたのを思い出した。ここで選ばれた卒業生は、教師(学校)にとっては素晴らしいロールモデルであったのだろうが、ほとんどの生徒にとってはこれっぽっちも憧れないロールモデルであったのだろう。講話の後に進路に向けて真剣に考えなおしたり、勉強法を変えたりした生徒は、私のクラスでは全く見られなかった。

 また、同じく高校2年生の時、私の所属していた学科では英語ディベートの授業があった。ディベートは勿論、英語でのディベートなんてしたこともなかったため戸惑ったが、導入では「犬と猫どちらが優れているか」「宿題を廃止すべきか否か」といったような、比較的簡単な題材で楽しく授業を行えていた。しかし、やっと慣れてきた矢先、担任から「みんな慣れただろうから、今日からは『日本で死刑制度を廃止すべきか否か』についてずっとディベートをすることにしよう。」と言われ、かなり困惑したと同時に、一気にやる気が失せた。というのも、この学科の生徒の中から毎年英語ディベート大会に出場するという決まりがあり、担任はそのディベート大会に向けて学校から「出来る」生徒を選出するために、大会の議題である『日本で死刑制度を廃止すべきか否か』というテーマを指定したのであった。これについては、後々担任から大会についての説明があった際に「所詮こういうことか」と、さらにがっかりしたのを思い出した。

 高校での経験は悪いロールモデルの例であったが、大学では良いロールモデルを身近に経験した。私が大学生の頃、3年生から4年生にかけて、ゼミでの講義が開始された。このゼミについては、色々なゼミがある中から、自分の興味のあるゼミ(教授)を選択し、実際に見学したり面接を受けたりして学びの場を得るというシステムであった。誰もが必ずしも受講したいゼミに入れるわけではなく、教授と実際に話して、お互いに目的が合えば受講を許可されるというものであったため、とてつもなく場違いな学生はおらず、比較的似たような目的を持つ者が集まる場であった。特に、私の所属したゼミは「英語教育ゼミ」というもので、教職の授業を追加で取っていても、将来的には必ず教員になることを志望する学生が集まるゼミであったため、私と同学年は私を含んで2名しかいなかった。また、先輩も3名しかおらず、他のゼミに比べてかなり少人数のゼミであった。

 そのためか、教授は「他学年で同時に講義を行うことでお互いに刺激になるから」という理由で、3・4年合同のゼミを週1回実施した。教授の言うとおり、身近に同じような目的を持つロールモデル〈憧れ〉となる人がいたため、「自分もそうなるために頑張りたい」「どうすれば彼らに近付けるのか?」という思いのもと、内発的な目的や目標を持つことが出来た。その先輩達は勿論であるが、指導してくれる教授もまた、少し離れてはいるものの、私にとってはまた別のロールモデルとなっていた。その教授にも違うローモデルがあり、色々な角度や視点を持つロールモデルに囲まれた空間であった。

 通常の講義では特に何も刺激にならず、同じクラスの友人の中には、私のロールモデルとなる人はいなかった。同じ学科に属しているならば、似たような目的を持っているはずなのだが、中には特に何も考えていないような学生もいたため、特に必修のクラスでの授業は非常にやる気を削がれ、(言い方は悪いが)馬鹿馬鹿しかった。大学4年間で唯一楽しみであったのが週1回の合同ゼミであった。自分が4年生になり、後輩が入ってきた時も、後輩が違う角度からのロールモデルとなり、また違った刺激となったと共に、自身がより多くの繋がりを持てていることを感じていた。思い返せば、同学年のクラスメイトとゼミ生との仲を比べれば、未だに繋がりがあるのはゼミ生と教授との繋がりの方が強く続いている。

 年齢も性別も違うのに、なぜ未だに繋がりを持ち続け、未だに良い刺激を受けているのだろうか?私の考えとしては、似たような目的やねらいを持っており、それをゼミという環境の中で共有し、共感し、お互いに良い刺激を得ることが出来ているからではないかと思う。関係性は勿論、私たちの中で教授に決められたわけでもなく、自然に決定した「ねらい」は、私たちの現状に基づいたものであったからだと考える。また、個人や状況に応じて、少しずつ変更されていたというのも理由の一つだと考える。高校時代のような、自身からかけ離れ過ぎた「ねらい」やロールモデルは何の意味も持たない。かえって無駄で逆効果なものになるかもしれない。ある「ねらい」を持つために、私たちは常に柔軟な変化をしながら、私たちの現状に基づいた「ねらい」を設定しなければならないなと、今回の講義を経て痛感している。






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 今回の授業のテーマは,「教育における目的 (aim)」だった。私は,自身の中高生(特に高校生活)を振り返りながら,学校教育における目標の捉え方,またあるべき目標の捉え方について論じたい。

 Deweyは8章で,日本語の「目標」にあたる英語として,”aim”, “outcome”, “end in view”, “foresight”などを挙げている。これらの言葉に共通している概念に,”future direction”すなわち将来への「見通し」を含んでおり,”flexibility”なすなわち「柔軟さ」を持っていると考えている。しかし,現在の学校教育は,”aim”を達成するための”target”に偏重しており,そうした事態がもしかすると子供の自発性・自立を阻害しているのではないかと私は自分の経験から痛切に感じる。子どもは”target”を達成することに必死で,達成した後の姿を想像しない,あるいは想像できない。たとえるなら,目隠しをして言われるがままに作業をこなすが,目隠しを取ると,自分が全く知らない世界に放り投げられている状況ではないだろうか。

 私の高校生活を振り返ると,三年間偏差値をいかに上げるか,いかに(世間で言われる)いい大学に入るか,そのことばかりを気にしていたような気がする。友人とは模試の点数を比較してどちらの方が点数がいいとか,どれくらい伸びたかとかそういった話で持ち切りだったし,点数が低いと自分はなんてダメな人間なんだろうと自分のふがいなさにやる瀬なかった。極端な言い方をすれば,自分という存在を確かめるのに点数の良しあしという物差ししかなかったのかもしれない。友人に点数で勝つため,いい点数を取れば学校で褒められるため,真面目に勉強していればいつか報われるためといった動機のもと勉学に励んだ。しかし,目の前に襲い掛かってくる模試や競争に疲弊していたし,大学入学後のことなんか考える余裕はなかった。自分自身を勉強に奮い立たせていた動機も大学受験突破という”target”のための”target”に過ぎなかったのかもしれないし,こうした”target”が自分を小さく狭くしてしまったのかもしれないと考えている。実際,大学入学後サークルや部活,バイトなど高校生活にはない「自由さ」に最初は戸惑ったし,右往左往してしまった。自分がどうすればいいのかふるまい方が分からなかったのを今でも覚えている。

 上記に述べたエピソードはあくまで,私の個人的な体験であり,多くの中高生がこうした状況にあるとは思わない。しかし,真面目に学校の課題をこなしたり,学校でよい成績を取ったりしている生徒ほど,学校という環境を出た後に自分自身を見失ってしまうのではないかと私は考えている。

 だからといって,私の高校の先生方の教育方針が間違っているとか,現在の教育を否定するわけではない。高校の先生方も勉強には熱心であったし,様々な面で支えてくれた。従って,受験(あるいは卒業など)といった目の前に迫ってくるものに対処するだけではなく,将来の自分の姿を思い浮かべながら「自分」(aim) を見つけるために教師としてできることを考えていきたい。

 第一に子供の得意な分野を見つけそれを生かすような進路を考えることが重要であると考える。これは当たり前のようでいて,実際実行するのは難しいのではないだろうか。どうしても偏差値から逆算したり,学校の進路実績を上げたいという思いが強く働きすぎたりすることもある。生徒の好みに合った分野を紹介したり,得意分野を生かす指導を行ったりすることで生徒の側にも内からあふれる「自信」が芽生えてくるのではないかと思う。この芯からあふれ出る「自信」を持つことは,生きていく上で,絶対にその人にとって強みになると考える。

 第二に,さまざまな人のエピソードを語ることである。ただでさえ,学校教育それ自体が閉鎖的だと揶揄されている。受験で成功した秀才ばかりを集めてそのエピソードを語らせるのは生徒を逆に卑屈にさせたり思考を狭めたりしてしまうかもしれないし,学校教育の一つの目標(target)の押し付けになりかねない。私が教師であれば,自分の失敗談をはじめ,大学時代の経験を語ったり,異分野,他分野で活躍している人のエピソードを語りたい。そうすることで,生徒には「高偏差値=いい人間」という価値観を離れ,多様な価値観を持つこと,将来の自分の姿を想像すること,またそうした様々な生き方を知ることで,生徒にとって勉強することの本当の目的  (aim) を見出すことにつながるのではないかと信じている。



2017/11/01

O先生の大学院授業の様子


以下はある授業の振り返りで、ある院生が書いたO先生(といえば卒業生はお分かりでしょう)の授業の様子です。

大学院では学部以上に、学生の思考力を鍛えます。しっかり勉強したい方、ぜひ広大教英へお越しください。






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もう一つエピソードを述べさせていただきたい。それはO先生の授業での経験である。前期の授業では,Dickensの作品の精読を演習形式で行った。学生が1ページを担当し,担当内のページで問題にしたい箇所を指摘し,受講生皆で考えていくというスタイルである。

 最初の数回の授業では,テクストのどの箇所を指摘するべきかすらも正直掴めなかったというのが私の率直な思いである。そのようなわけで,受講者側からの指摘が尽きると先生の方から質問が飛んでくるが,私 (も含めて多くの受講生) が目に留めなかった箇所を指摘されるので,私(たち)は答えにどうしても窮してしまった。そのような時先生は学生の方から何か反応があるまで待ち(かなり長い間待つこともあった),学生側の指摘を拾い尊重してくれた。最後には先生のお考えも示されるが,どうしてその箇所を問題にしたのかも説明し下さり,こちら学生としては,学ぶことが多かった。

 また先生は「分からないこと」を大切にしており,私(たち)は自分自身の知識や経験を全て疑って,英文を読む姿勢を学んだ。先生が明示的に教えたのは,どの辞書を使うべきかということぐらいで,ある意味私(たち)は先生から突き離されてはいたが,私(たち)はそうであるがためにより一層多くのことを学ぼうとしたし,どうすれば英文を読めるのか試行錯誤して考えた。その過程こそ,学ぶことを学ぶ (learn to learn) 過程であったのではと考えている。

 先生の授業を取り終わった今でも,英文を読む際には授業で培った視点を取り入れている。実際私は以前よりも読んでいて「分からない」感覚が増えたが,同時に読むことが楽しくなったし,力がついたと感じることもある。しかしもし先生が一方的に講義をしてノートを取るだけの講義であれば,「分かる」という感覚も味わうことがきなかっただろうし,あるいはこれまで通り,安易に人に聞いてすませていたかもしれない。




絶え間ない変容を可能にする教育+到達点を前もって見ること


以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業を受講している院生の書き込みです。
彼も書いているように、教育とは、絶え間ない自己変容を促進するものであると同時に、その自己変容に対してある程度の大まかな見通しをもたせるものでなくてはならないものかと思います。






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【先週の授業の振り返り】

絶え間ない変容を可能にする教育


授業では第三章と第四章を読みました。特に重要だと考えるのは、四章三節"The Educational Bearings of the Conception of Development"でデューイが述べる、教育という過程の考え方です。


"...the educational process has no end beyond itself; it is its own end; and that (ⅱ) the educational process is one of continual reorganizing, reconstructing, transforming."(p.48)


 教育にそれ自体を超える目的はなく、教育は絶え間ない再組織・再構築・変転の過程であるという考え方は、それ自体では難しくてつかむことができないものですが、デューイが第一章で生命や社会について述べていたことを思い返せば理解できます。

  生きることは絶え間ない自己変容の過程であり、その性質を持つ人間の営む社会も同様に絶え間ない変容を行っていくものであるということから考えれば、社会において新たに成員となる子どもたちを教育する際に目指すべきものは、変容を止めない社会で生きるために変容を止めない子どもを育てること、つまり子どもの有している豊かな可塑性を強く引き出し、大人になっても、教育課程を終えてからも成長を続けて行くことができるようにすることである、と考えました。

 教育の目的を外部の大人の規準から引き出し、それを子どもに課すということは、一見システムの合理性のうえではとても効果的に働くかのように思われますが、デューイの掲げるような人間観、社会観のもとでは「教育ってそんなもんではないよ」ということを言ってしまっても良さそうです。

 社会のあり方や人間のあり方について、完全に正しい正解が存在していて、それはゆるぎないものであるためにそこに至って完全に停止することが最も正しい、という考え方を簡単には受け入れられないように、教育についてもいつでも正しい固定された目標に到達してしまえばおしまい、という考え方は受け入れることができません。民主主義社会も同様のプロセスをとる方が望ましいとデューイが考えている、という理解で間違いなければ、僕もこの考え方に大きく賛成したいと思います。





【予習書き込み】

到達点を前もって見ること

 第八章では教育の目的についてが語られます。デューイは「ねらい(aim)」を"an orderly and ordered activity, one which the order consists in the progressive completing of a process"(p.97) として定義して、そのようなねらいのもとでで私たちは到達点(end)を予見することができると述べます。到達点を予見することができないような活動の中で目的について語ることは無意味である、とその後述べられています。

 到達点がわからないままに何らかの活動を押し付けられてしまうというのはどういうことか、と考えると難しいのですが、例えば学校の英語科で考えるならばどういったことがそれにあたるのでしょう。

    毎日宿題として課される単語ノートは、その意味では教師が思うような「この宿題を通して語彙を豊かにしてほしい」のような到達点を子どもが予見することなどできず、「宿題を終わらせる」という誤った到達点に向かって単語ノートに取り組んでしまうかもしれません。文法事項の暗記を強調するような定期試験が到達点としてあるために、普段の授業や学習も、文法事項を暗記して定期試験で点数を取るためのものになってしまうということでしょうか。

 今挙げたような理解はもしかしたらデューイの述べたようなこととは少しズレているのかもしれませんが、第八章でデューイが言いたかったことをもって現代の公教育の諸制度を見るならば、私たちがその中で生まれ育って教育されてきたがゆえに疑いすら持てないほどに自明のものとなっているものを、相対化できる可能性があるように思います。


ライティングセンターはれっきとした教育の場であり、相談者とチューターの間で行われるコミュニケーションの場であり、「自律した書き手を育てる」というねらいを根本に据えた場である


以下もデューイの『民主主義と教育』を授業で読んでいる院生の書き込みです。

ちなみに広島大学のライティングセンター (WRiting Center: WRC) は、非常に意欲的な試みをしています。ぜひご注目ください!










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 今回はDemocracy and Educationの8章で述べられているaim 「ねらい」に関連し、今タームから勤務し始めたライティングセンター(以下、WRC)の新人研修期間で考えたことを述べてみたい。

 新人チューターとして勤務し始めてからまだ日も浅いが、毎回の勤務で様々な課題に直面している。私は制度上の新人研修期間を先日終えたが、その中で自分の課題として持っておくべきだと感じたのは、「自律した書き手を育てること」をWRC全体で共有するねらいとして忘れないことだった。私は初勤務時にこのねらいについて説明を受けたが、その後の研修期間でその意識が薄れ、それぞれの相談者にチュータリングしている時間内に色々なことを押し込み、相談者の要望や課題をを出来るだけ多くその場で解決しようとしてしまっていた。

(中略)

 WRCというと文章を書くための「相談」「アドバイス」という印象が強いかもしれない(私もWRCを利用する前はそうだった)が、実際はれっきとした教育の場であり、相談者とチューターの間で行われるコミュニケーションの場であり、(時には微調整しながらも)「自律した書き手を育てる」というねらいを根本に据えた場であると思う。私自身、WRCの理念を意識し、「自律した書き手を育てる」ことができるチューターとして今後何ができるのか考えていきたい。WRCは相談者だけでなくチューターも成長していける教育の場となっている。今回もまた、教育や社会について述べるデューイの議論を参照することにより、自分自身の経験を振り返ることができたと思う。

2017/10/31

中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである

以下は、授業でデューイの『民主主義と教育』を読んでいる大学院生の授業振り返りの一部です。私も思うのですが、英語の授業って惰性でやっているだけの活動が多くありませんか?





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 次に、「習慣」について述べられていた。中でも、知性のない習慣は悪い習慣になってしまうということが特に印象に残っている。

 教育の場において、このような場面は良く遭遇するものだ。悪い習慣というのは、例として著性のないルーティーン化したものが例として挙げられる。今回の講義でも、その一例として「英語の授業内容のルーティーン化」が挙げられた。

 思い出してみれば、私が中学生の頃にもこのような習慣を体験させられていたことがあった。授業で新たな単元に入る際、毎回新出単語の発音練習をしていたが、これが本当に意味のあるものか疑問に思ったことがあった。というのも、中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである。その後に毎回行う「列対抗単語意味当て競争」も「最後まで経ち続けるのが恥ずかしいから」という、全く知性に欠けた活動も同じく、悪い習慣をただただ刷り込まれていたことを思い出した。

 ただ、2年生から担当の先生が変わって、「毎回の単語の確認と練習がこんなに意味を持っていたのか」と気付くことが出来るようなやり方に変わり、私自身の悪い習慣が浄化された。よく考えれば、その悪い習慣を取り入れていた教師は、私と同じく悪い習慣を刷り込まれてしまって今に至ったのだろうなと今に思う。そして、そのやり方を教えた教師も、悪い習慣を刷り込まれたために、そのやり方しか分からなかったのだろうと思う。

 まさに、英語教育における負のスパイラルだと思った。どこかでその負の連鎖を途切れさせることが出来なかったのも残念であるが、その本人が負に感化されて何も気づけなかったという点が一番残念でならない。

  そもそも、このような悪い習慣となるのは、何の見通しもなく無知性で意味のない、つまり何も考えていない (理解していない) ということが原因である。教育は、子供たちが成長するために色々な意味あるあ環境を与えなければならないと私は考える。知性を伴った、先の見通しがある教育が出来るように、私自身よく考えて行動しなければならないと改めて痛感した。




2017/10/26

今の方がspeakingを求められている時代なのになぜしっかりとした発音を教えないまま「話す力を伸ばしましょう」なんて言っているのだろうか、無責任だなと思いました

以下も学部一年生による授業感想の一部です。このような当たり前の疑問を大切にして英語教育を改善しなければと思わされます。


 


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 今回は発音を丁寧に教えてもらって、発音の難しさを久々痛感しました。中高では一度も発音記号について教えられることはなく、発音がわからないときに単語帳の下に書いてある発音記号を見てわからないのは調べる程度の発音記号の知識だったので今回とても細かく知れてまだたくさん改善しなくてはいけないと思いました。

 この授業を聴講している院生さんがおしゃっていましたが少し前と今の発音教育は違い、今の生徒は先生の発音をしっかり教えてもらう機会はなく、向上心のある生徒が先生の口を見て真似るぐらいです。

 私が不思議に思ったことは、今の方がspeakingを求められている時代なのになぜしっかりとした発音を教えないまま「話す力を伸ばしましょう」なんて言っているのだろうか、無責任だなと思いました。

 (様々な理由があるにせよ)だからこそこれから教師を目指す私たちがしっかりとした発音教育をしたり、「コミュニケーション」の授業を本当にコミュニケーションをとる時間にするなどして、生徒たちが英語を話す機会を増やしていくことが求められているのかなと思います。勿論、教科書の指導などもあるので教科書をうまく使う訓練も必要になってくると思いますが。 

 今回の授業は自分の発音を見直すきっかけとともに、将来の英語教育(発音を中心にして)を考える機会にもなりました。



私は教英生だ!という謎の根拠から、自分は英語が得意なのだと思い込み、自身を磨く努力を怠っていた

以下は、学部一年生による授業の振り返りの一部です。大学入学はゴールではなくスタートだという当たり前の事実を大切にしたいと思います。





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今週の振り返りの提出義務はなかったと思うが、あの時感じたことを忘れないでいたいので、ここに残しておくことにする。以下、英語の発音・学習を継続する方法の2つから私が考えたことである。

 今回の授業を通じて、自身の努力不足を改めて感じた。というのは、私は教英生だ!という謎の根拠から、自分は英語が得意なのだと思い込み、自身を磨く努力を怠っていた一面を見たからである。

最近、私はとりわけ英語学習に関して、自身に胸を張れた試しがない。大学から始めた言語系のボランティア活動では、外国人が他学部の友人の発音を褒めているのを横から見たり、相手の英語のスピードについていけなかったり、と悔しい思いを何度もした。それと同時に、自身の英語の能力と他人のそれとを比べて、落ち込んだ末に焦りをも感じた。私は長年英会話教室に通っており、そこでの発音の指導は厳しいものだった。

しかし、振り返ってみれば、会話については「お客様」扱いだった。先生から話しかけてくれるうえ、私の英語がどれほど遅かろうが間違えようが、最後まで聞いてくれた。だが、英会話教室という場を離れた途端、私の英語の自信は揺らぎ始めている。半端な努力では、相手と対等になれないのだと日々痛感している。このままではいけない、足りない。ネガティブな感情が学習の動機になるのはよくないことなのかもしれないが、それでも私の英語学習への原動力にこれらが少なからずあるのは事実だ。

しかし、すべてがネガティブなわけでもない。もちろんポジティブなものもある。授業中にK君が言っていたように、好きなことと結びついた動機である。英語学習ではないが、私は第2外国語としてフランス語を学んでおり、これを嫌に感じたり、止めようと思ったりしたことはない。なぜなら、私の大好きなお菓子作りの世界とフランス語には深い関係があるからだ。レシピで知った単語がフランス語の授業中に聞こえた時、私の心は躍る。逆に、授業で学んだ単語をレシピで見つけた時にも、学んだことが自分の生活につながっている感覚を覚える。そして、フランスで買ったレシピ本を読める日を夢見て、学習を継続したいと思う。

英語学習の際にも、疲れたら料理の分野で英語に触れるようにすれば、私は学習のモチベーションを高められるのではないか。これが今回の授業を振り返って得たアイデアだ。

2017/10/19

塾での資格試験面接対策について


以下もDeweyを読んでいる院生の授業用書き込みです。私(管理人)の授業では、本で学んでいることと学生さんが実生活で経験していることをできるだけ結びつけるように勧めています。




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今回はDemocracy and Educationの第3章を読み、その後最近自分が考えていることを書いてみた。本文と以下の内容では直接対応している部分が多いわけではないが、第3章を読んでいたとき以下の経験が思い浮かんだので、ここに書いておきたいと思う。以下は塾でアルバイトをしていたら誰しも経験するような内容になっていると思われる。

 私は最近、塾で英検の面接対策をすることが頻繁にある。私が高校生のときと比べると、やはり受験しようとする生徒が多いと思う。生徒たちもそうだが、親御さんたちや学校、塾の先生の熱気も非常に強い。小学生から高校生まで、皆揃って受験している。彼ら彼女らの進路に有利ということで、卒業までに特定の級の取得を学校側が求めることが多いようだ。

 しかし、英検の対策を塾で補っているということは、学校がサポートしきれない部分が大きいということだろう。そういった英検取得を求める学校は、学校内でも補習に回す時間で英検対策を実施しているところがあるが、それでも英検に合格できるほど十分ではないらしい。その結果、塾に通える子どもは対策の時間が各段に増えるものの、通えない子どもは泣き寝入りするしかない、というのが現状であると思う。

 それでは、塾に通える子どもは英検面接が十分にできて一件落着かというと、現状はそれほど楽観できるものでもない。多い生徒で週2~3、少ない生徒で週1回あるかないかの頻度で対策を進めている。さらに、一日に英検対策に回せる時間にも限りがあるため、生徒一人に対して使える時間は一日20分そこらである。面接対策が始まるのは一次試験が終わった直後から二次試験当日までの4週間ほどなので、少ない場合だと合計で2時間にも満たない。しかし、そのような状況でも、生徒たちは学校や親御さん、塾からの熱い期待のまなざしを受け、面接対策を受けに今日も私の前にやってくる。

 面接対策をしていてやはり気になってしまうのは、面接中のやりとりが決まったパターンの繰り返しになってしまうことだ。面接官がこう言ったら、こう返す。学校などで面接対策を既にしていて慣れている生徒に、むしろこうした傾向が強いと感じている。自分の発話に意図があるとかないとか関係なく、相手が言ったことを自分が記憶しているパターンのリストと照らし合わせ、それに合うパターンの発話を返す。

 一見コミュニケ―ションが成立しているように見えなくもないが、実際のコミュニケーションとの違いは歴然だ。それは、こちらが少し発話のパターンを変えると、たちまち生徒たちに焦りが見え始めるという点だ。この点については、生徒に責任があるのではなく、私たちのような塾や学校での対策のやり方に責任があると思っている。限られている時間の中で効率的に合格を狙うのであれば、パターンを刷り込むことは効率が良いとされている。理屈はいたってシンプルだ。しかしシンプルなだけに、そのようにして固定したパターンから抜け出すのは困難だ。

 面接官の言ったことに出来るだけ早く正確に反応していく。自分の記憶している定型文を相手の言ったことに合わせて当てはめていく。実際のところ英検準二および二級あたりまではこの手が通用してしまう。二級を卒業までに取得するよう促進している高校が増えてきたが、定型文を正確に産出するやり方で通用してしまっている以上、実際のコミュニケーションにはさほど近くない会話テストを奨励していることになってしまう。

 世間一般ではそれで会話ができるということになっているのかもしれない。それだけ英検の影響力は強くなっている。けれども、仮に英検面接で見られるこのようなやりとりをコミュニケーションと呼ぶにしても、この特殊なコミュニケーションは英検面接に関わる人々の中でしか通用しないことが多い。英検面接の世界でのコミュニケーションだからである。たしかに、コミュニケーションの目的も、手段も、英検面接の共同体の中では共有されているかもしれない。しかし怖いのは、この共同体から一歩外へ出て、外の世界から実際のコミュニケーションを基準とした評価を受けるときだ。英検〇級というステータスが重圧になることもあるかしれない。 

 塾で英検対策を受けられない生徒にとって、英検の特定の級取得を進学の際に有利なものにしたり、大学の受験資格にしたりすることは格差を拡大させることにつながる可能性がある。一方で、英検対策を受けられる生徒にとっても、こちらはこちらで既に上で述べたような問題が生じる。私個人は、今のところ塾に通える子どもと接することがほとんどなので、英検対策も十分にできて、なおかつ、英語を使った実際のコミュニケーションってどんなものだろうか、と生徒が考えることができるような機会を提供していきたい。塾で講師をしていると何かと難しいジレンマにぶつかることが多いが、講師よりももっとジレンマを抱えているのは生徒たちだと思う。そうしたジレンマを少しでも解消できればと思う。



子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない


以下は、DeweyのDemocracy and Educationを読んでいるある院生の授業振り返りの一部です。


この画像は下の院生とは異なる院生の予習ノートです。


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 デューイによると教育は、学習者集団の中で生まれる共感を通して達成されるものである。ここで注目すべきは、教育は、集団がそこにあるだけでは成り立たず、そこに共感が不可欠であるということである。この違いを際立たせるためにデューイは、「教育」と「訓練」という言葉を用いている。つまり、前者が、異なった背景を持つ個人が、自らの思考と意思に基づいて共感的集団をなして、ある概念を獲得しようとしている学習状態を指す。これに対して、後者は、異なった背景を持つ個人が思考と意思を持たずに、個の集合体をなしてある概念を記憶しようとしている学習環境である。

 以上を基に、英語教育の現状についても考えてみたい。現在、英語科においてCEFR等の枠組みに沿った英語力の向上が急がれているのは広く知られているだろう。つまり、より多くの英語の知識・技能を効率よく定着させることが直近の目標として掲げられている。しかも、その目標は、授業時間数への配慮などがされないまま小中高ともに大きく引き上げられる見通しだ。そして、その成果を一般的な英語の技能試験で数値化しようとする動きすら見られる。このような状況に置かれる学習者集団(教師・生徒)は、デューイが言う「教育」・「訓練」どちらに進むのだろうか。私は、その答えは明確であると思う。

 もう一点私が感じていることは、そもそも今掲げられている目標は、本当にこれからの未来を生きる子供たちの為になるのだろうかということである。AIの機能が日々向上していくこの時代に、子供たちが今「訓練」されている力が人間にしか持つこの出来ない固有の力と言える時代は、そう長く続かないような気がしてならない。もしそんな時代が来たとしたら、彼らには人間固有の言語力として一体何が残るのかを、今一度私たちはよく考えるべきではないだろうか。子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない。


2017/10/18

人工知能、メディア、身体、美といった論点を英語教育と絡ませながら共に考えました。


以下は、学部1年生向けの授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の振り返りの一部です。この日の授業では、人工知能、メディア、身体、美といった流れで講義をし、折々に学生さん同士での話し合いの機会を設けました。





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■ うかうかしていられない。前半のAIに関する講義を受けて私はこのように感じた。
AIの導入が本格的に始まるにつれ、人間の職は無くなっていく。AIがさらなる進化を遂げれば、より一層人間の職は無くなる。こうした循環の中、我々に一体何ができるだろうか。

これを考えたときに、私の脳内に浮かんだのはAIでもできるような単純な情報提供ではなく、生徒の複雑かつ人間的な感情を理解し、親身になって寄り添うという事である。

AIというのは莫大な量のデータを集約したものであるから、そのデータに基づき、最適な情報を提供することはできる。しかしAIは、人間が抱える本人にとってすら漠然とした感情に対する対処法は知らない。なぜなら、そういった感情を経験したことがないからである。

そのため、人とかかわる職に就こうとしている身として、今のうちにたくさんの経験をして、感情の豊かな人間になり、AIには対処できない部分を磨いていきたいと思う。


■ 授業中に先生が発せられた「AIが進出して人々の職を奪うような世の中になった時に、自分たちが教師としてどのような教育(キャリア教育)を行ったらいいだろうか」という問いに対して、正直自分には明確な答えが思い浮かばなかった(人間と機械の違いは感情を持っているか否かだと漠然とは思ったが)。グループでの議論や、先生や皆の話を聞く中で、やはり対話が人間にはできると思った。先生の話にもあったように、例えば勉強意欲がわかないような生徒に対して寄り添って話を聞くというのは今の段階ではAIでも厳しいのではないかと思う。

いずれ人生相談のような類もAIはできるようになるとゾッとしたが、それでもやはり心と心のコミュニケーションができるのは人間の大きな長所だろう。それに関連して、表情についての話があったが、人間が気持ちを伝える上で表情は大きなウエイトを占めることを再認識した。予習課題でもあったが、SNSの多用により面と向かった、表情を使ったコミュニケーションが少なくなっていると自分でも実感するため、少し話はそれるが、表情を用いたコミュニケーションをしていくためにも、SNSに依存することなく、うまく活用できるようにしていきたい。


■ キャリア教育に関しては、大半の仕事がAIに奪われるという将来があり、そんな未来で人間がAIと違うことが「感情がある」ことだけだとしたら、残るのは情緒あふれるもの、伝統的な技術を必要とするものだろう。教室でロボットとの会話は無機質でおもしろくなかったと言う人が多かったことを考えると、きっと感情に訴えかけるもの、エンターテイメントの需要が今よりも高まるのだと、私は思う。そうなると、英語教育に演劇をとりいれ、表情豊かに英会話ができることの必要性も高まるかもしれない。どちらにせよ、コミュニケーションにおいては、棒読みは、いくらそれが母語ではないにしろ、良いことでもない。いくら文法や語彙がよくてもそこに感情がないのなら、それは完ぺきな他言語使用とは言えないと思う。




■ まず、前半のAIについて。今回の授業で、AIの発展に伴い、英語教育やキャリア教育の内容に変化が生じることは間違いないと感じた。そして自分なりには、英語教育は、現行の英語を学ぶことを主目的とした内容から、理論の組み立て方 (英語圏の人々の思考は、日本人より理論的だと耳にしたので) やディスカッションにおいての自分の意見の伝え方等の、英語をツールとして使いこなす練習を目的とした内容へと変わっていくのではないかと考えた。

キャリア教育に関しては、良くも悪くもAIの影響によって将来の職の選択肢が激変しているであろうから、予想すら立たなかったのが正直なところである。しかし、自分が高校で受けたキャリア教育の一つにあった課題研究というものは、かなり有意義だった。これは、自分が興味のある分野の現状を知り、問題点を見つけ、自分なりの答えを出すという内容で、主体的な行動力や思考力なしには成立しない。そして、グループで書き上げた論文を大勢の生徒の前で発表する頃には、将来のビジョンを鮮明に描けている生徒も数多くいた。AIが発達した社会で生き抜くには、思考力や創造力が大きな鍵となると授業で学んだので、この課題研究という活動は将来のキャリア教育にも通用するものだと感じた。

 また、有用性以外を目的とする学びについても考えた。とても抽象的な例になってしまうが、誰でもある点までは達することができても、そこから先に進める人とそうでない人が出てくることがある。その違いは、有用性以外の学びの有無 (自分の言葉で換言するなら、どれだけ寄り道や回り道をしているか) にあるのだと思う。

 そして最後に、シンギュラリティの話題から、AIの発展について考えた。AIの行き過ぎた発展により、人間が機械に支配される社会はもちろん恐ろしいものだ。しかし、私はそれと並ぶ程に、理系があまりにも注目されている (文系学部への予算が減らされているのは、理系への期待の裏返しだとも捉えている) 今日の社会を怖く感じている。AIを含む技術の発達によって、確かに生活は豊かになり、救える命は増えるだろう。だが、その技術が悪用された時に適用される法律は十分に整っているだろうか。また、クローン技術に代表されるように倫理的なジレンマは存在する。それなのに、今の社会はリスク<効率と結論づけて文系をないがしろにしているように私は思える。文系と理系の二院制がこの先続くのかが不安でならない。

 次に、後半のメディアについて。英語学習と音の結びつきをグループで話し合った際、英語劇や感情を込めた音読等、さまざまな経験が出てきたが、その一方で本気を出すのは恥ずかしいことだという教室独特の雰囲気は、どのメンバーも共感できた。授業を通じて言語的な身体の獲得を目指すためには、まずこの雰囲気をいかに取り払うかを考える必要があると再認識させられた。

また、私の場合は、長年校外で英語を教わっていた先生が特に英語の音を大切にされていて、その先生のことが思い出された。彼女は、単語の意味が分かっていても正確な読み方が分からなければその単語を知らないのと一緒だ、と私が教わり始めた頃からおっしゃっていた。他にも音読の際には感情が入っていなかったら何度でも読み直しをさせられた。このような彼女の教育によって、何かを得られた感覚はずっとあったが、それが何なのか、今回の授業を通じて少しずつ言葉に表せそうだ。

 もう一つ印象的だったのが、美についてである。授業中にも美に対する考え方が個々で違っていたように、美しさを感じる対象は人それぞれで幅があってもいいのではないか、というのが私の考えである。しかし、以前に比べて各々の美の感覚に自由度がなくなってきている、または他者ありきなような気がする。これは私が前々から感じていたことなのだが、フォトジェニックやおしゃれコラージュという語を頻繁に耳にする現象が物語るように、近年のSNSユーザーの中には他者から「いいね」をもらいたい一心でフィルターやコラージュアプリを駆使して「美しい」作品を仕上げる人も少なくない。

しかし、「いいね」の数が果たして美しさの指標なのだろうか。同じ花火を見ても、SNS用の写真撮影に夢中でレンズ越しにしか花火を見ない人と、パンという破裂音の響きを体で感じながら一瞬しか咲かない花を自分の目で眺める人とでは、後者の方に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。私は決してそのようなSNSユーザーを否定したいわけではない。ただ、他者の反応ありきで成立する美は、自分の心に基づいた美なのかと疑問に感じる。自分の信念を貫いた美こそ、多様性や創造力の根本になるのだと私は思う。

 この点で、有用性以外の学びは大切だ。「私は画家になるつもりはないから、美術の授業は要らない」などと言っている場合ではない。私は今までに同様のことを何度も聞いたことがあるし、実技教科が軽視される傾向は多くの教育現場でも見られると思う。しかし、そうではないのだ。今回の授業、そして授業後のお話を振り返ってかみしめたことである。





■ 最初の話題である、人工知能について。人工知能が今後さらなる発展を遂げ、人間を凌駕する労働力となったとき、人間にできる仕事は何か、AIには不可能で、人間には可能なこととは何か、そのような未来で私たちの生徒や子供たちが生き抜いていくために私たちができることはなにか。なかなか難しく、90分の授業で簡単に答えを見出すことのできない問いかけではあるが、そもそも予想される未来に真正面から向き合い、考えていくことが大きな第一歩なのではないかと感じられた、そんな授業だった。

個人的には、「こういう教育をしたらいいのではないか」「こんな授業をしたら」とみんながいろんな案を出した上で、先生がおっしゃった「そのような授業を受けていない君たちがどうやってそうしていくのか」という言葉が胸に刺さった。

たしかに、「学習の目的を変える」という意見において、私のこれまでの学習スタイルを照らし合わせると、中学生のときは内申点が受験に響くから1年生のころから授業を真面目に受け、高校生のときは内申点が受験に関係ないから3年生だけ必死に受験のための勉強をして、先生方からもそれを望まれているように感じていたし、その期待に応えることが目的になっていたところもあり、将来これから実践していきたい教育を受けたことはないし、望ましい学習姿勢をもったこともない。

これまで教えていただいてきた先生方のせいにするわけではないが、「生きるための力」をつける、もしくはその重要性に気づかせられるような授業を受けた記憶はほとんどない。その経験がないのにどうやって自分が教える、教育する立場になればよいのだろう、と心が不安感でいっぱいになった。

ただこれに今気づかせられてよかったのだと思う。正直、私はこの授業を通して、今までの受けたことのある授業が、どんなに受け身な授業だったかを思い知らされている。この授業では、先生が問いやテーマを与えてくださり、私たちが主体的に考えることのできる授業形式になっている。こういう形式の授業を昔からずっと受けていたら、私の想像力、思考力等はもう少し高い水準にあったのかもしれないと感じる。先生の授業を通して、授業の内容も広く深い学びであると感じるが、授業の仕方も同時に学べているのではないかと受けるたびに思わされている。


■ 今回の授業を受けて、自分が得てきた知識よりも感覚の方がより良いものを生み出すことがあるのだと感じた。これまでは無難に人並みな意見を出して、目立たずに授業を終えようと考えていることが多かった。無感動に知識を詰め込むことに慣れてしまっているのだろうが、無感動よりも疑問を持ち、驚くような発見をすることでより学びは楽しくなるだろう。将来英語の教員になるのだからこの知識はいらない、なんて思わずにたくさんのことに触れて自分の感性を磨いていきたい。




■ マツダのデザインなどを例にとった「アート」の話題に関しては、「身近に感じた美」という難しい事項について考え、意見を交換したが、「美(アート)」について考えれば考えるほど、アートが軽視されており、受験に向けての勉強のみを重視している現在の日本の教育形態が浮き彫りになり、馬鹿馬鹿しいと思った。前半のAIに関する授業を踏まえても、これからの社会で重視されるべきは受験学力などではないはずなのに、未だにこのような形態をとっている日本の教育機関を恨めしく思うとともに、いかにしてそれを変えていくことができるか、われわれも考えていくべきだと感じた。


■ もう一つ印象に残った内容に”美意識”についての話がある。私は最近自分の周りにいる人として尊敬している人の多くが自分で絵をかいたり写真を撮ったりと創作活動にも熱心であるという共通点に気づき、それがなぜなのかしばし考えていた。前回の授業でアートと人のかかわりを知って私はずっとわかりそうで分からなかった答えに辿り着いたような気がした。自分独自の美意識や感覚、あらゆることを見極める目は、アートから培われ、そしてその力がその人自身を形成していくのだ。私自身を振り返ってみると昔は熱心に取り組んでいた絵画や読書などから”時間がない”と錯覚して遠ざかっていたが、これからはアートの世界に積極的に飛び込み、自分独自の美的感覚を磨いていきたい。


■ 今回の授業で私の班内でディスカッションが盛り上がったのは、「教育の現場における『美意識』とは何か」というトピックだ。一言に『美意識』と言っても、クラスメイトが持つエピソードはどれも多種多様で、大変興味深かった。私の持っていた視点とは違った角度からのアイデアは、私にとってより深く「美意識」について考える良いきっかけとなった。よって、今回の振り返りはクラスメイトが発表した「美意識」の視点から私なりに思考を広げてみようと思う。

まず「美意識は人によって異なる」といった定義づけについて、私もその意見に賛成である。しかし、私たち昨今の若者の間では、画一化された美に翻弄されたり、逆に多様な美の形を知り自尊心を取り戻したりといった二極化した風潮がネット上で顕著に見られるようになった。グローバル社会・高度情報社会は経済界に於いてだけでなく、私たちの「美意識」にも大きな影響を及ぼしたと考える。

SNSにのめり込む若者は、自分があげた写真についた“いいね!”の数を自分自身の価値とイコールで結びがちだ。人気アイドルやモデルの外見に似ていれば「かわいい」と友達からたくさんの“いいね!”をもらえるが、彼女たちが本当に欲しいのは“自信”なのではないだろうか。今にも倒れそうな自尊心を、有名人の真似をすることで得た高評価で極めて一時的な“自信”を作り、何とか保っているのではないだろうか。整形依存の人にも同じことが言える。

一方、SNSのポジティブな面については、やはり多様性に満ちた美の形を知ることができる面ではないだろうか。例えば、日本で醜いと見なされがちな太った体は、インドでは富の象徴として、また南米ではセクシーとして好意的に見られている。話は少し変わるが、私は人生の最大のゴールの一つに「自分自身を愛せるようになること」をあげている。画一化された美によってコンプレックスの塊となってしまった女性たちに、そのような形でSNSの恩恵を受け、無条件に自分を愛せるようになって欲しいと思うし、私もそうなりたいと思っている。





■ 機械やAIなど技術の進化によって、教師の役割はどうなるのか?この問いの答えを考える前に、まずAIにはできず、人間だけができることを考えてみる。私が思いついたのは、新たなアイデアを生み出すことや、相手の気持ちに共感することである。 AIには身体がないので、仮に人間が経験したことを大量に集めて、人生相談をすることができるとしても、こういうことがあったという”事実”は伝えることができるが、その時その人がどう思い、どう考えたかということは伝えることができない。対して人間である私たちは、自らの身体で経験したことを伝え、子供の学習へ対する意欲を高めることができるのではないかと思う。また、AIは過去のデータを元にして全てを考えるが、人間は未来を想像することができる。この想像力こそが人間をAIと根本的に分けるものではないかと思う。楽観的な考え方だが、仮に人間がドラえもんのような人間を超えるロボットを生み出してしまっても、その時にはその問題を解決する発明がされているかもしれない。結論として、教師の役割は、この想像力を育成することではないだろうか。

役に立つ以外の学びの意味とは?この問いに対する私の答えは、未知なるものと出会う機会を与えるということである。私自身も感じていたが、学校での学びでは、誰しもが”やらされている感”を感じながら勉強したことがあるのではないだろうか。しかし、この”やらされている”ことによって、子供の将来の可能性は広がると思う。どういうことかと言うと、食わず嫌いと同じで、「数学は難しいから嫌いだ」という風に最初から決めつけて、ある教科に苦手意識を持つ生徒は多いと思う。しかし、その教科をずっとやらされている中で、ふとそれを学ぶことの楽しさにふれ、この分野についてもっと学びたいと思うことがあるのではないだろうか。つまり、学びが次なる学びへと導き、その個人の性格を形作る知識の一部と出会う手助けとなると私は思っている。

身体から意味(情動)が生まれてくるということには、なるほどと思わされた。英語落語で先生が演じられていたように、離れた場所から声をかける場合や、ささやき声で話す時、その状況や場合に応じて、実際のコミュニケーションでは言葉より体が先に動くことがある。やはり英語の授業においては状況設定を行い、実際のコミュニケーションに近づくようにしないといけないと思った。しかし、意見があったように、現在の英語の授業の多くでは、生徒は恥ずかしがったり、周りを意識して、自分自身の持つ優れた発音を隠したり、感情をこめておおげさに会話をすることは少ないと思う。そこで、教師が自ら実践することはもちろん生徒が感情を豊かに英語を話すことができる環境づくりを日頃から行うことが重要になってくると思う。また、ボランティアでも感じたが、アイスブレイクの効果は絶大だと思っている。授業についての知識だけでなく、授業をスムーズに進めるための、教科以外の知識を今のうちに学んでおかなければいけないと思う。柳瀬先生のお話の中で、周りを全く見ておらず、潜入した先生に気づかない教師がいたとあったが、目線を合わせる、周りを見れるかどうかは教師としてとても重要なことだと思う。これらのことをしなければ、教師から生徒への一方的な指導になり、機械が授業をしているのと相違ない。人間の教師であるからできることを、意識しながら、授業を行わなければいけないと思う。 

美とは何か?美とは言葉では表せないものだと思う。私の場合、”美”と言われて考えるのは、大自然を見た時に感じる感情と、なにかをやり遂げた時に感じる喜びに似た感情である。美の定義は人によって違うものだと思うが、私はかねてよりどんな人間でも、何か美しいと感じる瞬間はあると思っている。多くの国があり、様々な問題があるこの世の中だが、言葉で表せない”美”は世界共通のいわゆるメディアで、この美を感じることができることは、とても重要だと思う。生徒がこの美を豊かに感じさせることができる教師になるために、いろんな経験をつんで、様々なものを見ていきたい。





2017/10/12

私は「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、現職教員の方が大学院に学びに来てくださると大学院の学びがより現実的になりますので、本当にありがたいです。





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今日の授業を振り返り,これまで私が使ってきた「コミュニケーション」という言葉は,一体何だったのだろうという気持ちでいっぱいになった。「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれたら,「人と人とが関わり合うこと」という程度のことしか答えられなかっただろうし,「コミュニケーション」について深く考えることもなかった。

しかし,今日の授業を通して,「コミュニケーション」について私の考え方が変わったことは確かなことだ。これは,私にとってDewyの言う”renew”なのかもしれない。今,「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれれば,「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう。これは,Dewyの言う”To be a recipient of a communication is to have an enlarged and changed experience.”を私なりに解釈したものだ。

 これを踏まえて,教育現場での教師と生徒間の「コミュニケーション」について考えていきたい。教師と生徒は,学校という同じ空間の中で多くの時間を共有しているが,「コミュニケーション」に費やしている時間はいったいどれくらいあるのだろうか。1日の流れをざっとではあるが挙げてみると,朝のSHR,授業,帰りのSHR,クラブ活動と教師と生徒が接する時間は長い。しかし,この大半が「情報の伝達」に終わっているのではないだろうか。

 例えば,朝のSHRと英語の授業について考えてみる。朝のSHRでは,簡単な挨拶をして,1日の連絡事項を伝える。ここに,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,次のように変えてみるとどうであろうか。朝のHRでは,挨拶を交わし,連絡事項を伝える中で,生徒の顔を一人ひとり確認して,いつもと違った様子はないかを伺う。ここで気になる生徒がいれば,後で話をする。話をすることで,生徒は内に溜めていたものを吐き出し,気持ちを楽にして,1日のスタートを切ることができるかもしれない。

次に,英語の授業について考えてみる。単語を覚えることや,文法を覚えることに重きを置いた授業展開は,まさに「学びを記号で伝える」ことに他ならなない。ここにもやはり,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,同じ単語や文法でも,その単語や文法を実際に使える場面を増やすような授業展開を行うことで,生徒にとって,その単語や文法は記号ではなく,自分のリソースとしての英語になるのではないだろうか。

 教師が,生徒が必要とするものに目を向け,そのために行動すれば,生徒は変わる。つまり,教師による働きかけで,生徒は成長するのだ。しかし,ここで成長するのは生徒だけではない。教師もまた,成長しているのだ。これが,今の私が考える教育現場における「コミュニケーション」である。